ゴメ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴメ島
1977年9月25日撮影の航空写真。国土地理院地図・空中写真閲覧サービス[1]の画像より抜粋。
所在地 北海道枝幸郡枝幸町
所在海域 オホーツク海
座標 北緯44度42分3秒 東経142度49分54秒 / 北緯44.70083度 東経142.83167度 / 44.70083; 142.83167座標: 北緯44度42分3秒 東経142度49分54秒 / 北緯44.70083度 東経142.83167度 / 44.70083; 142.83167
面積 0.00259[1] km²
海岸線長 1 km
最高標高 9 m
ゴメ島の位置(北海道内)
ゴメ島
     
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

ゴメ島(ごめじま)は、北海道枝幸郡枝幸町に属する無人島。同町音標(おとしべ)の海岸から北東方約500メートル沖合に位置する離島であり、漁港がある音標岬からは直線距離にして約1キロメートル離れている。島名の「ゴメ」は日本語北海道方言カモメを意味し、ウミネコオオセグロカモメ繁殖[2]であることから町指定文化財天然記念物となっている。また音標ゴメ島遺跡が存在する。

概要[編集]

周囲約1キロメートルのであり[2]朝日新聞の記事では「学校の体育館ほどの広さ」と表現されている[3]。島の上面は8メートルほどの高さであり[3]、比較的平坦な地形となっている[2]。島の沿岸のうち北西から北東にかけては浸食によって複雑に湾入しているため、上空から見ると「E」字形になっている。一方南西側の沿岸は切り立ったになっている[2]。『環境脆弱性指標図』では、島の沿岸のうち北西側を開放性海域の「崖・急斜面」とし、それ以外を「平坦な」に分類している[4]

全域が安山岩で形成された島であり、北東側沿岸では柱状節理が多く見られる[2]江戸時代蝦夷地を探査した松浦武四郎の著書『再航蝦夷日誌』では、島に小さなが生えているとしている[5]。しかし2007年に行われた調査では、数年前まで島に繁茂していたイタドリなどの植物はほとんどが枯死して土壌が剥き出しの状態になっていることが判明しており、海鳥繁殖数の増加が原因と考えられている[2]。その後の2018年9月に音標岬を訪れた『幻島図鑑』の著者清水浩史は、ゴメ島について「澄んだオホーツクの海にぽこっと浮かぶ、灌木の緑が映える美しい島」であるとしている[6]

島内にはかつて水場が存在していたという。また海難事故が続いた際、島の北側にある「深い入り江」に「龍神様」を沈めたという言い伝えもある。島の平坦面の中央付近に「元標 定334」と刻まれた石製の標識が残されており、かつてニシン漁定置網を用いる際に利用されていたものと推測されている[2]

前述した松浦の著書『西蝦夷日誌』では、カモメが多くいる島とされている[7]太平洋戦争[8]から終戦直後にかけては肥料として用いられる鳥糞の大規模な採取が行われており、専用の桟橋が設けられた時期もあったという[2]1971年3月30日には海鳥の繁殖地として枝幸町の天然記念物に指定された[9]

文献における言及[編集]

近世[編集]

天明8年(1788年)の『西蝦夷地分間』[10]では、「ヲチシベ」と「イタヱサシ」の間に「ヲチシベモシリホ々」として島が描かれている[11]寛政9年(1797年)成立の『蝦夷巡覧筆記』では、「トンナヱウシ」の「三ハカリ沖」に「平岩島」があるとの記述が見え、同10年(1798年)の『自高島至斜里沿岸二十三図』では、「トンナイウシ」の沖にある「平岩島」の名称を「モシリホ」としている。

文化13年(1816年)成立の『松前蝦夷地島図』では「ヲチシヘ」の沖に島を記しており[12]文政4年(1821年)成立の『大日本沿海輿地全図』では「ヲチシベ島」として描かれている。また天保2年(1831年)に今井八九郎の調査によって作成された『蝦夷東西地里数書入地図』では、「ヲチシヘモシリ」が描かれている[13]。しかしのちに今井が作成した『北海道測量原図』では、「チヱシチシ」(原文ママ)という異なる名称で記載されている[14]

弘化3年(1846年)に松浦武四郎が著した『再航蝦夷日誌』では、「チヱキチシ」(原文ママ)という名称で記されており、「廻り」は5町ないしは6町ほどで小さな草が生えているとする。また海岸にはアワビナマコが多くおり、「トンナイウシ」のアイヌはそれらを採集して干物にするとある。そして昔は島に「人家」が存在したとの言い伝えがあるとしている[5]安政3年(1856年)の調査をまとめた『廻浦日記』では、「トイナイ」の沖に小島があり「廻り」は2町ないしは3町ほどで樹木はないとしている[15]。しかし安政5年(1858年)の「手控」では、島の名称を「ヲチシベイソ」としている。また「トンナイウシ」という地名について、「むかし此前の島より此処までひきし事有」という語源説を記録している[16]

松浦のほかの著作では、安政6年(1859年)に刊行された『東西蝦夷山川地理取調図』において「チエシキシ」(原文ママ)という名称で島が描かれており、また著書『西蝦夷日誌』では「トンナイウシモシリ」について言及しており、「周十二丁」の島でカモメが多く「周廻皆岩石のみ」であるとしている[7]。そして『東西蝦夷場所境調書』では、ソウヤ場所とモンベツ場所の境目はかつて「トンナイウシの島を向ふに見る処」にあったとする[17]

嘉永7年(1854年)の村垣範正による蝦夷地巡視の際、同行した尾張屋番頭忠蔵の日記である『蝦夷紀行』では、「トンナ井ウシ」の「六七丁沖」に「周廻三丁斗」の岩があるとしている[18]。安政4年(1857年)に堀利煕と蝦夷地を調査した玉虫左太夫の著書『入北記』では、「ホロナイ」から1里半ほど離れた場所に小島があり、海岸からは10町ほど離れているとする[19]。第二次幕領期の記述が見える『宗谷領古地図』では、「オツシヘモシリ」として島が描かれている[20]

近代[編集]

松本十郎が著した明治4年(1871年)の調査記録である『北見州経験誌』では、「ヲチシベモシリ」は周囲2町くらいの小島であると記している[21]。同5年(1872年)の佐藤正克による調査記録『闢幽日記』では、「トイナヰ」の海中に「巨巌」が見えるとの記述がある[22]。佐藤正克文書の『北見国宗谷郡より斜里郡迄絵図』では、「カビウモシリ」として島が記されているほか[23]、同文書の『宗谷郡境字ヤムワッカルより紋別郡境字トンナイウシ迄の図』においても「カヒウモシリ」が見え、「周廻五丁程陸ヨリ拾一丁沖ニ有」としている[24]。カピウ(kapiw)はアイヌ語でカモメを意味する[25]

1874年に現地を調査したライマンは、海浜より4半マイルあまり離れた所に濃灰色の小島があるとしている[26]北海道庁水産課による『北見国枝幸郡礼文村鮭鰊建網場実測図』(1888年10月調査)では、「トンナイウス島」として記録されており「一名ゴミ島」とある。1890年に北海道を訪れたA.S.ランドー英語版は、ポロナイから数マイル離れた所に岬があり、1マイルの距離に"Chuskin"(原文ママ)という小さな島があるとしている[27]

1891年刊行の『北海道蝦夷語地名解』では「モシリ」として見え、海中にある孤島で「鴨卵」(原文ママ、鴨は鴎の誤植か)が多いとしている[28]1893年製版の輯製図では「モセリ島」とある。1896年発行の『北海道地形図』では「ポンモシリ」として記載されている[29]1898年刊行の『日本水路誌』では、「モヒリ島」(原文ママ)について幌内の北西3里ないし4里の所に存在し、海岸からは約1里の距離に位置するとしている[30]

1909年刊行の『大日本地名辞書 続編』では、「トイナイの海上に岩嶼ありエタンネット埼に対す」との記述が見える[31]1930年発行の海図では「小島」と表記されているが英字表記は"Pommosiri"となっている[32]1945年製版の地図では「ゴミ島」と表記されている[33]

現在は弁天島海馬島などとともに、日本の排他的経済水域の外縁を決める島の一つとなっている[34]

遺跡[編集]

音標ゴメ島遺跡では2007年に試掘調査が行われ、2008年埋蔵文化財包蔵地として登記された。続縄文時代からオホーツク文化期にかけての遺跡である[8]オホーツクミュージアムえさしの館長高畠孝宗は、調査の際「足元にオホーツク人が使った土器片がごろごろあって驚嘆した」と述べている[3]

遺構としては、続縄文時代のものと見られる焼土と柱穴が検出されており、オホーツク文化期の竪穴建物跡の壁の可能性がある落ち込みも確認されている。また遺物としては、メクマ式や北大式に相当する続縄文土器も出土しているが、オホーツク文化期中期後半の沈線文系土器群および後期の貼付浮文系土器群が大部分を占めている。出土した石器の大部分もオホーツク文化期のものと見られるが、一部は続縄文時代のものとされる[8]

調査では黒曜石の原石や石錘も収集されていることから、オホーツク人の狩猟漁撈拠点として利用されていたと推定され、また道東へと進出するオホーツク人の重要な拠点であったとも考えられている。なお周辺地域では、音標岬の基部段丘上に音標岬遺跡が存在しており、刻文期から沈線文期のオホーツク式土器が確認されている[8]

脚注[編集]

  1. ^ 『島嶼大事典』日外アソシエーツ、1991年、214頁。ISBN 978-4-8169-1113-2
  2. ^ a b c d e f g h 川名広文・高畠孝宗「音標ゴメ島遺跡分布調査報告 (PDF)
  3. ^ a b c メイベル・トッドと枝幸(4) 「海の民」の遺跡残る島 朝日新聞 2014年4月23日
  4. ^ 環境脆弱性指標図 宗谷総合振興局1 (PDF) 第一管区海上保安本部海洋情報部
  5. ^ a b 秋葉實 翻刻編『校訂 蝦夷日誌 全』二編、北海道出版企画センター、1999年、364頁。
  6. ^ 清水浩史『幻島図鑑 不思議な島の物語』河出書房新社、2019年。ISBN 978-4-309-29035-5
  7. ^ a b 秋葉実 解読『武四郎蝦夷地紀行』北海道出版企画センター、1988年、253頁。
  8. ^ a b c d 川名広文・高畠孝宗「音標ゴメ島遺跡試掘調査報告
  9. ^ 史跡/文化財案内 枝幸町
  10. ^ 井口利夫「嘉永期以前の石狩辨天社について (PDF) 」『いしかり砂丘の風資料館紀要』第6巻、2016年、25-38頁。
  11. ^ 西蝦夷地分間(1810636629-034) - 函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ 2019年2月23日閲覧。
  12. ^ 松前蝦夷地嶋図 2(超高精細画像) - 北海道大学北方資料データベース 2019年2月23日閲覧。
  13. ^ 蝦夷東西地里数書入地図 / 今井八九郎 編 - 早稲田大学図書館古典籍総合データベース 2019年2月23日閲覧。
  14. ^ 東京国立博物館所蔵『今井八九郎北方測量関係資料』”. e国宝. 国立文化財機構. 2019年2月23日閲覧。
  15. ^ 高倉新一郎 解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター、1978年、329頁。
  16. ^ 秋葉実 翻刻編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター、2008年、401頁。ISBN 978-4-8328-0807-2
  17. ^ 秋葉実 翻刻編『松浦武四郎選集 一』北海道出版企画センター、1996年、254頁。ISBN 978-4-8328-9607-9
  18. ^ 成田修一 解読『蝦夷紀行』沙羅書房、1987年、318頁。
  19. ^ 枝幸町史編纂委員会 編『枝幸町史』上巻、1967年、243頁。
  20. ^ 宗谷領古地図 - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー、2019年2月23日閲覧。
  21. ^ 『枝幸町史』上巻、326頁。
  22. ^ 『枝幸町史』上巻、335頁。
  23. ^ 北見国宗谷郡より斜里郡迄絵図 - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー、2019年2月23日閲覧。
  24. ^ 宗谷郡境字ヤムワッカルより紋別郡境字トンナイウシ迄の図 - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー、2019年2月23日閲覧。
  25. ^ アイヌと自然デジタル図鑑 日本語名:ゴメ、カモメ(鴎) アイヌ語名:カピウ アイヌ民族博物館
  26. ^ 『枝幸町史』上巻、351頁。
  27. ^ A. H. Savage Landor, Alone with the Hairy Ainu, London: John Murray, 1893, p. 162.
  28. ^ 『北海道蝦夷語地名解』第三編61頁。
  29. ^ 北海道地形図 地図資料 - 札幌市中央図書館デジタルライブラリー、2019年2月23日閲覧。
  30. ^ 『日本水路誌』第5巻(北洲全部及北島諸島)、海軍省水路部、1898年、90頁。NDLJP:847181
  31. ^ 『大日本地名辞書 続編』202頁。
  32. ^ 海図37号 - 東北大学外邦図デジタルアーカイブ 2019年2月23日閲覧。
  33. ^ 集成20万第4号 - 東北大学外邦図デジタルアーカイブ 2019年2月23日閲覧。
  34. ^ 木場弘子『今後の国境離島の保全、管理及び進行のあり方』懇談会 ~国境離島の理解促進に向けた広報活動~」2013年10月7日