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* [[中国研究所]]「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある靺鞨族により創建された渤海国({{Cite book|和書|editor=[[中国研究所]] |date=2002 |title=中国年鑑 |series= |publisher=[[創土社]] |isbn= |page=393 }})」 |
* [[中国研究所]]「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある靺鞨族により創建された渤海国({{Cite book|和書|editor=[[中国研究所]] |date=2002 |title=中国年鑑 |series= |publisher=[[創土社]] |isbn= |page=393 }})」 |
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* [[今西正雄]]「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族({{Cite book|和書|author=[[今西正雄]] |date=1943-01-01 |title=民族文化史概説 |series= |publisher=[[全国書房]] |isbn= |page=393 }})」 |
* [[今西正雄]]「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族({{Cite book|和書|author=[[今西正雄]] |date=1943-01-01 |title=民族文化史概説 |series= |publisher=[[全国書房]] |isbn= |page=393 }})」 |
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* [[佐々木高明]]「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている({{Cite book|和書|author=[[佐々木高明]] |date=1998-10-01 |title=地域と農耕と文化―その空間像の探求 |series= |publisher=[[大明堂]] |isbn=978-4470430413 |page=317 }})」</ref>の[[靺鞨]]であると[[日本]]の[[学界]]では広く受け入れられており<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.news-postseven.com/archives/20130307_171373.html|title=韓国 渤海を確固たる韓国史にしようと「官民総動員体制」に|publisher=[[SAPIO]]|date=2013-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151117091758/http://www.news-postseven.com/archives/20130307_171373.html |archivedate=2015-11-07 }}</ref>、「高句麗に居住していた靺鞨人<ref>{{Cite book|和書|author=[[石井正敏]]|date=1998-09|title=特集 渤海国|series=月刊しにか|publisher=[[大修館書店]]|isbn=|page=24}}</ref>」 |
* [[佐々木高明]]「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている({{Cite book|和書|author=[[佐々木高明]] |date=1998-10-01 |title=地域と農耕と文化―その空間像の探求 |series= |publisher=[[大明堂]] |isbn=978-4470430413 |page=317 }})」</ref>の[[靺鞨]]であると[[日本]]の[[学界]]では広く受け入れられており<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.news-postseven.com/archives/20130307_171373.html|title=韓国 渤海を確固たる韓国史にしようと「官民総動員体制」に|publisher=[[SAPIO]]|date=2013-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151117091758/http://www.news-postseven.com/archives/20130307_171373.html |archivedate=2015-11-07 }}</ref>、「高句麗に居住していた靺鞨人<ref>{{Cite book|和書|author=[[石井正敏]]|date=1998-09|title=特集 渤海国|series=月刊しにか|publisher=[[大修館書店]]|isbn=|page=24}}</ref>」「かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人<ref>{{Cite book|和書|author=[[石井正敏]]|date=2001|title=日本渤海関係史の研究|ISBN=978-4642023634|publisher=[[吉川弘文館]]|url=|page=551}}</ref>」「高句麗に帰化していた靺鞨人<ref name="大祚栄"/>」、「高句麗に同化していた靺鞨人<ref name="大祚栄">{{Kotobank|大祚栄|2=日本大百科全書}}</ref>」「高句麗に付属した粟末靺鞨族<ref>{{Cite book|和書|author=[[浜田耕策]]|date=2000|title=渤海国興亡史|series=|ISBN=978-4642055062|publisher=[[吉川弘文館]]|url=|page=16}}</ref>」「高句麗に移住してきた粟末靺鞨<ref>{{Cite book|和書|author=[[浜田耕策]]|date=2000|title=渤海国興亡史|ISBN=978-4642055062|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|url=|page=17}}</ref>」といった見解が好まれる。 |
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[[897年]]に[[唐]]に対して渤海の{{仮リンク|大封裔|zh|大封裔}}が渤海の席次を[[新羅]]より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して[[新羅]]の[[崔致遠]]が執筆し、新羅王である[[孝恭王]]から[[唐]][[皇帝 (中国)|皇帝]]である[[昭宗 (唐)|昭宗]]に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』には「渤海を建国した大祚栄は[[高句麗]]領内に居住していた[[粟末靺鞨|粟末靺鞨人]]であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている<ref>{{Harvnb|石井|2001|p=172}}</ref>。『謝不許北国居上表』は、渤海が存在していた同時代の史料であり、また新羅王から[[唐]][[皇帝 (中国)|皇帝]]へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる<ref>{{Harvnb|石井|2001|p=172}}</ref>。 |
[[897年]]に[[唐]]に対して渤海の{{仮リンク|大封裔|zh|大封裔}}が渤海の席次を[[新羅]]より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して[[新羅]]の[[崔致遠]]が執筆し、新羅王である[[孝恭王]]から[[唐]][[皇帝 (中国)|皇帝]]である[[昭宗 (唐)|昭宗]]に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』には「渤海を建国した大祚栄は[[高句麗]]領内に居住していた[[粟末靺鞨|粟末靺鞨人]]であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている<ref>{{Harvnb|石井|2001|p=172}}</ref>。『謝不許北国居上表』は、渤海が存在していた同時代の史料であり、また新羅王から[[唐]][[皇帝 (中国)|皇帝]]へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる<ref>{{Harvnb|石井|2001|p=172}}</ref>。 |
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契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利燼、勿吉雜流。(『[[遼史]]』巻一一六国語解){{Wikisourcelang|zh|遼史/卷116#帝紀}}</blockquote>}}{{efn|<blockquote> |
契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利燼、勿吉雜流。(『[[遼史]]』巻一一六国語解){{Wikisourcelang|zh|遼史/卷116#帝紀}}</blockquote>}}{{efn|<blockquote> |
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契丹捨利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称(『[[資治通鑑]]』長興三(九三二)年三月条){{Wikisourcelang|zh|資治通鑑/卷277}}</blockquote>}}<ref>{{Harvnb|鳥山|1968|p=31-32}}</ref><ref name="井上"/>、『[[冊府元亀]]』によると靺鞨{{efn|<blockquote> |
契丹捨利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称(『[[資治通鑑]]』長興三(九三二)年三月条){{Wikisourcelang|zh|資治通鑑/卷277}}</blockquote>}}<ref>{{Harvnb|鳥山|1968|p=31-32}}</ref><ref name="井上"/>、『[[冊府元亀]]』によると靺鞨{{efn|<blockquote> |
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越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『[[冊府元亀]]』巻九七五外臣部褒異門)</blockquote>}}にはその舎利という官職が存在していたことは確認されているが、高句麗ではまだ舎利という官職の存在が確認されていない<ref>{{Harvnb|森安|1982|p=73}}</ref><ref |
越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『[[冊府元亀]]』巻九七五外臣部褒異門)</blockquote>}}にはその舎利という官職が存在していたことは確認されているが、高句麗ではまだ舎利という官職の存在が確認されていない<ref>{{Harvnb|森安|1982|p=73}}</ref><ref name="佐藤28"/><ref>{{Cite news|url=https://www.read138.com/archives/895/y7esmktde694ekf8/ |archiveurl=https://archive.is/a8Nzb |author=孙昊(中国社会科学院歴史所助理研究員)|title=说“舍利”——兼论突厥、契丹、靺鞨的政治文化互动|series=中国边疆史地研究 |publisher=|date=2016-06-02|archivedate=2017-12-10}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://jef.redisall.com:800/e8e027ae4a7e/6b2dd04efc81.pdf|author=韩世明・都兴智|title=渤海王族姓 氏新考|series=中国边疆史地研究 |publisher=|date=2015-06 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20181006000229/http://jef.redisall.com:800/e8e027ae4a7e/6b2dd04efc81.pdf |archivedate=2018-10-06|format=PDF}}</ref>。このことから、父の乞乞仲象が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が確認されていない称号をもっている点を考え合わせると、大祚栄は高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当という意見がある<ref>{{Cite book|和書|author=송기호|date=1995|title=渤海政治史硏究|series=|publisher=一潮閣|isbn=9788933701775|page=43}}</ref><ref>{{Harvnb|森安|1982|p=73}}</ref>。 |
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[[一然]]は『[[三国遺事]]』で、大祚栄を[[粟末靺鞨]]の[[酋長]]とのみ言及し、渤海を「靺鞨ノ別種」と結論付けている<ref>{{Cite book|和書|editor=[[東北アジア歴史財団]]|date=2009-09|title=동아시아의 발해사 쟁점 비교 연구|publisher=[[東北アジア歴史財団]]|series=동북아역사재단 기획연구 29|url=http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.bg.d_0154|page=32}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=송기호 |date=1995 |title=발해정치사연구 |series= |publisher=일조각|ISBN=9788933701775|page=34-37}}</ref><ref>{{Cite news |author=|url=https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1633559&cid=62146&categoryId=62146|title=원문과 함께 읽는 삼국유사 말갈과 발해|newspaper=|publisher=원문과 함께 읽는 삼국유사|date=2012-08-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019060056/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1633559&cid=62146&categoryId=62146|archivedate=2021-10-19}}</ref><ref name="国史編纂委員会삼국유사">{{Cite news|author=|url=http://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=sy_001r_0020_0100_0010|title=삼국유사 > 권 제1 > 제1 기이(紀異第一) > 말갈(靺鞨)과 발해(渤海) > 발해라 부르다|newspaper=[[国史編纂委員会]]|publisher= |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019070047/http://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=sy_001r_0020_0100_0010|archivedate=2021-10-19}}</ref>。 |
[[一然]]は『[[三国遺事]]』で、大祚栄を[[粟末靺鞨]]の[[酋長]]とのみ言及し、渤海を「靺鞨ノ別種」と結論付けている<ref>{{Cite book|和書|editor=[[東北アジア歴史財団]]|date=2009-09|title=동아시아의 발해사 쟁점 비교 연구|publisher=[[東北アジア歴史財団]]|series=동북아역사재단 기획연구 29|url=http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.bg.d_0154|page=32}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=송기호 |date=1995 |title=발해정치사연구 |series= |publisher=일조각|ISBN=9788933701775|page=34-37}}</ref><ref>{{Cite news |author=|url=https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1633559&cid=62146&categoryId=62146|title=원문과 함께 읽는 삼국유사 말갈과 발해|newspaper=|publisher=원문과 함께 읽는 삼국유사|date=2012-08-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019060056/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1633559&cid=62146&categoryId=62146|archivedate=2021-10-19}}</ref><ref name="国史編纂委員会삼국유사">{{Cite news|author=|url=http://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=sy_001r_0020_0100_0010|title=삼국유사 > 권 제1 > 제1 기이(紀異第一) > 말갈(靺鞨)과 발해(渤海) > 발해라 부르다|newspaper=[[国史編纂委員会]]|publisher= |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019070047/http://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=sy_001r_0020_0100_0010|archivedate=2021-10-19}}</ref>。 |
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[[国史編纂委員会]]は、『[[旧唐書]]』は「渤海靺鞨の大祚栄は、もと高麗の別種である」とし、『[[新唐書]]』は「渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」とし、『旧唐書』は「高麗別種」という曖昧な表現で大祚栄の靺鞨的要素と高句麗的要素を同時に言及している一方、『新唐書』は大祚栄の出自を明確に粟末靺鞨としている<ref name="国史編纂委員会"/>。『[[三国遺事]]』は、朝鮮史書である『[[新羅古記]]』を引用して、大祚栄はもとの高句麗武将とし、『{{仮リンク|帝王韻紀|zh|帝王韵记}}』も大祚栄をもとの高句麗武将と述べており、『[[高麗史]]』及び『[[高麗史節要]]』は、渤海は粟末靺鞨としつつも「高句麗人大祚栄」と規定している<ref name="国史編纂委員会"/>。一方、[[崔致遠]]は『謝不許北国居上表』において、大祚栄は元の粟末靺鞨としており、『[[三国遺事]]』は、中国史書である『[[通典]]』を引用して「渤海は元の粟末靺鞨で、その酋長である大祚栄に至って国を建国した」としており、大祚栄を粟末靺鞨と規定しており、大祚栄の[[発祥|出自]]を説明する『[[旧唐書]]』「高麗別種」、『[[新唐書]]』「本粟末靺鞨附高麗者」、『[[新羅古記]]』「高麗旧将」を総合して大祚栄の出自を紐解くと、渤海を建国した[[粟末靺鞨]]は[[松花江|松花江一帯]]を居住地としており、早くから高句麗と隣接していた。靺鞨は[[軍事力]]が優れており、高句麗と周辺国家との戦争では靺鞨が高句麗と共同戦争を行っていることを史料で確認することができ、[[645年]]の{{仮リンク|唐の第一次高句麗出兵|en|First conflict of the Goguryeo–Tang War}}において、[[太宗 (唐)|唐太宗]]が[[捕虜]]となった高句麗人を解放する代わりに靺鞨人3300人を埋め殺し、[[654年]]には高句麗が靺鞨と連合して[[契丹]]を攻撃しており、[[655年]]には高句麗が[[百済]]と靺鞨が連合して[[新羅]]の北辺境に侵攻しており、左様に靺鞨は高句麗と連合して、積極的に参戦している。[[6世紀|6世紀末]]に高句麗が粟末靺鞨地域に進出し、粟末靺鞨は高句麗に[[服属]]したが<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000753381|title=말갈족 靺鞨族|newspaper=[[斗山世界大百科事典]] |publisher= |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019064636/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000753381|archivedate=2021-10-19}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://terms.naver.com/entry.naver?docId=2016918&cid=50826&categoryId=50826|title=문화원형 용어사전 말갈 靺鞨|newspaper=|publisher=[[韓国コンテンツ振興院]]|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019180843/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=2016918&cid=50826&categoryId=50826|archivedate=2021-10-19}}</ref><ref name="国史編纂委員会삼국유사"/>、大祚栄の[[先祖]]はこの時に高句麗に服属し、高句麗に移住したみられる<ref name="国史編纂委員会"/>。従って、『旧唐書』「高麗別種」とは、大祚栄の種族が「高句麗とは他の種族」であることを意味し、即ち、大祚栄の種族は「粟末靺鞨」であり、大祚栄の先祖が高句麗に移住し、靺鞨特有の軍事力を発揮して、高句麗の武将の地位に上り詰め、粟末靺鞨でありながら高句麗の武将として軍功をあげた<ref name="国史編纂委員会"/>。大祚栄は高句麗で生活していることから、ある程度高句麗化され、まさに『旧唐書』「高麗別種」とは、粟末靺鞨でありながら高句麗化された大祚栄を意味し、父の[[乞乞仲象]]が靺鞨名であることとは異なり、姓は大、名は祚栄という[[漢姓|漢姓漢名]]であることを鑑みると、父の乞乞仲象よりもある程度高句麗化していることが伺われ、大祚栄は高句麗滅亡後、高句麗遺民の身分で[[営州]]に強制移住され、契丹が暴動の混乱に乗じて、他の高句麗遺民と靺鞨などを結集して営州を脱した<ref name="国史編纂委員会"/>。結局、『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」と多様に記録された大祚栄の出自は「大祚栄は粟末靺鞨でありながら、高句麗に移住し、高句麗化したもとの高句麗武将」という[[自己同一性|複合的アイデンティティ]]をもつ大祚栄を説明していると結論付けている<ref name="国史編纂委員会">{{Cite news|author=|date=|title=고왕 대조영 大祚榮|publisher=[[国史編纂委員会]]|url=http://contents.history.go.kr/mobile/kc/view.do?levelId=kc_n100400|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211011104343/http://contents.history.go.kr/mobile/kc/view.do?levelId=kc_n100400|archivedate=2021-10-11}}</ref>。 |
[[国史編纂委員会]]は、『[[旧唐書]]』は「渤海靺鞨の大祚栄は、もと高麗の別種である」とし、『[[新唐書]]』は「渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」とし、『旧唐書』は「高麗別種」という曖昧な表現で大祚栄の靺鞨的要素と高句麗的要素を同時に言及している一方、『新唐書』は大祚栄の出自を明確に粟末靺鞨としている<ref name="国史編纂委員会"/>。『[[三国遺事]]』は、朝鮮史書である『[[新羅古記]]』を引用して、大祚栄はもとの高句麗武将とし、『{{仮リンク|帝王韻紀|zh|帝王韵记}}』も大祚栄をもとの高句麗武将と述べており、『[[高麗史]]』及び『[[高麗史節要]]』は、渤海は粟末靺鞨としつつも「高句麗人大祚栄」と規定している<ref name="国史編纂委員会"/>。一方、[[崔致遠]]は『謝不許北国居上表』において、大祚栄は元の粟末靺鞨としており、『[[三国遺事]]』は、中国史書である『[[通典]]』を引用して「渤海は元の粟末靺鞨で、その酋長である大祚栄に至って国を建国した」としており、大祚栄を粟末靺鞨と規定しており、大祚栄の[[発祥|出自]]を説明する『[[旧唐書]]』「高麗別種」、『[[新唐書]]』「本粟末靺鞨附高麗者」、『[[新羅古記]]』「高麗旧将」を総合して大祚栄の出自を紐解くと、渤海を建国した[[粟末靺鞨]]は[[松花江|松花江一帯]]を居住地としており、早くから高句麗と隣接していた。靺鞨は[[軍事力]]が優れており、高句麗と周辺国家との戦争では靺鞨が高句麗と共同戦争を行っていることを史料で確認することができ、[[645年]]の{{仮リンク|唐の第一次高句麗出兵|en|First conflict of the Goguryeo–Tang War}}において、[[太宗 (唐)|唐太宗]]が[[捕虜]]となった高句麗人を解放する代わりに靺鞨人3300人を埋め殺し、[[654年]]には高句麗が靺鞨と連合して[[契丹]]を攻撃しており、[[655年]]には高句麗が[[百済]]と靺鞨が連合して[[新羅]]の北辺境に侵攻しており、左様に靺鞨は高句麗と連合して、積極的に参戦している。[[6世紀|6世紀末]]に高句麗が粟末靺鞨地域に進出し、粟末靺鞨は高句麗に[[服属]]したが<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000753381|title=말갈족 靺鞨族|newspaper=[[斗山世界大百科事典]] |publisher= |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019064636/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000753381|archivedate=2021-10-19}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://terms.naver.com/entry.naver?docId=2016918&cid=50826&categoryId=50826|title=문화원형 용어사전 말갈 靺鞨|newspaper=|publisher=[[韓国コンテンツ振興院]]|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211019180843/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=2016918&cid=50826&categoryId=50826|archivedate=2021-10-19}}</ref><ref name="国史編纂委員会삼국유사"/>、大祚栄の[[先祖]]はこの時に高句麗に服属し、高句麗に移住したみられる<ref name="国史編纂委員会"/>。従って、『旧唐書』「高麗別種」とは、大祚栄の種族が「高句麗とは他の種族」であることを意味し、即ち、大祚栄の種族は「粟末靺鞨」であり、大祚栄の先祖が高句麗に移住し、靺鞨特有の軍事力を発揮して、高句麗の武将の地位に上り詰め、粟末靺鞨でありながら高句麗の武将として軍功をあげた<ref name="国史編纂委員会"/>。大祚栄は高句麗で生活していることから、ある程度高句麗化され、まさに『旧唐書』「高麗別種」とは、粟末靺鞨でありながら高句麗化された大祚栄を意味し、父の[[乞乞仲象]]が靺鞨名であることとは異なり、姓は大、名は祚栄という[[漢姓|漢姓漢名]]であることを鑑みると、父の乞乞仲象よりもある程度高句麗化していることが伺われ、大祚栄は高句麗滅亡後、高句麗遺民の身分で[[営州]]に強制移住され、契丹が暴動の混乱に乗じて、他の高句麗遺民と靺鞨などを結集して営州を脱した<ref name="国史編纂委員会"/>。結局、『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」と多様に記録された大祚栄の出自は「大祚栄は粟末靺鞨でありながら、高句麗に移住し、高句麗化したもとの高句麗武将」という[[自己同一性|複合的アイデンティティ]]をもつ大祚栄を説明していると結論付けている<ref name="国史編纂委員会">{{Cite news|author=|date=|title=고왕 대조영 大祚榮|publisher=[[国史編纂委員会]]|url=http://contents.history.go.kr/mobile/kc/view.do?levelId=kc_n100400|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211011104343/http://contents.history.go.kr/mobile/kc/view.do?levelId=kc_n100400|archivedate=2021-10-11}}</ref>。 |
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송영현([[西江大学校|西江大学]])は、「『[[三国遺事]]』は、渤海は靺鞨の別種としており、つまり『三国遺事』は渤海を靺鞨の別種とみており、これは『三国遺事』を記述した[[一然]]が渤海を靺鞨とみていることを意味している。[[中国人]]は高句麗を東夷伝で扱い、靺鞨及び渤海は北狄伝で扱っており、当時の中国人は渤海と高句麗を同一視していないことをを意味する。そして『三国遺事』も大祚栄は[[粟末靺鞨]]の[[酋長]]であることを明らかにしている。従って、高句麗の建国勢力は高句麗遺民だけではなく、靺鞨族になる。…『謝不許北国居上表』の内容からすると、少なくとも新羅人である[[崔致遠]]は渤海人を同民族だと考えていなかったように思われる。つまり、渤海は高句麗だったかも知れないが、新羅人は渤海人と歴史共同体意識を共有していない」と述べている<ref>{{Cite news |author=송영현|date=2007-12|title=북한역사교과서의 고대사서술의 문제|publisher=[[西江大学校|西江大学]]|newspaper=|url=http://163.239.1.207:8088/dl_image/IMG/03//000000014617/SERVICE/000000014617_01.PDF|archiveurl=|format=PDF|accessdate=2021-10-23|page=14-20}}</ref>。 |
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張碧波({{仮リンク|中国辺疆史地研究センター|zh|中国社会科学院中国边疆研究所}})は、「別種」とは[[古代]]の中国[[歴史家|史家]]が、[[民族]]の源流・民族関係を記述するときに作成した特有の概念であり、「別種」とは「本種」とは異なるという意味であり、従って「高麗別種」とは渤海が高句麗王家から派生した政治勢力という意味ではなく、[[中華民族]]の形成過程では、民族文化の衝突・交流・融和の複雑な[[プロセス]]を経て、民族の遷移は絶えず行われ、民族と民族の分裂と統一、変化と帰付の状況は非常に複雑化し、『新唐書』はこの複雑な[[プロセス]]を認識して『旧唐書』の「高麗別種」という曖昧な表現を「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」と明確に記録したと主張した<ref>{{Cite book|和書|author=張碧波|date=1998-05|title=渤海大氏考 |series=學習與探索 |publisher=黒龍江省社会科学院 |ISBN= |page=}}</ref><ref name="김정희"/>。 |
張碧波({{仮リンク|中国辺疆史地研究センター|zh|中国社会科学院中国边疆研究所}})は、「別種」とは[[古代]]の中国[[歴史家|史家]]が、[[民族]]の源流・民族関係を記述するときに作成した特有の概念であり、「別種」とは「本種」とは異なるという意味であり、従って「高麗別種」とは渤海が高句麗王家から派生した政治勢力という意味ではなく、[[中華民族]]の形成過程では、民族文化の衝突・交流・融和の複雑な[[プロセス]]を経て、民族の遷移は絶えず行われ、民族と民族の分裂と統一、変化と帰付の状況は非常に複雑化し、『新唐書』はこの複雑な[[プロセス]]を認識して『旧唐書』の「高麗別種」という曖昧な表現を「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」と明確に記録したと主張した<ref>{{Cite book|和書|author=張碧波|date=1998-05|title=渤海大氏考 |series=學習與探索 |publisher=黒龍江省社会科学院 |ISBN= |page=}}</ref><ref name="김정희"/>。 |
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=== 乞乞仲象と大祚栄の関係 === |
=== 乞乞仲象と大祚栄の関係 === |
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『[[新唐書]]』渤海伝では、乞乞仲象と大祚栄は父子関係となっているが、『[[旧唐書]]』には乞乞仲象の名は出てこないこと、また乞乞仲象は靺鞨名でありながら大祚栄は漢名であることなどを根拠に、[[池内宏]]は乞乞仲象は営州にいたときの本名、大祚栄は渤海の基を開いた後に用いた漢名であるとして、乞乞仲象と大祚栄は異名同人と主張し(『満鮮史研究』)、[[鳥山喜一]]は乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないそれぞれ別個の存在と主張し(『渤海史上の諸問題』)、[[新妻利久]]は乞乞仲象と大祚栄は父子関係と主張している(『渤海国史及び日本との国交史の研究』)<ref>{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=426|url=}}</ref>。 |
『[[新唐書]]』渤海伝では、乞乞仲象と大祚栄は父子関係となっているが、『[[旧唐書]]』には乞乞仲象の名は出てこないこと、また乞乞仲象は靺鞨名でありながら大祚栄は漢名であることなどを根拠に、[[池内宏]]は乞乞仲象は営州にいたときの本名、大祚栄は渤海の基を開いた後に用いた漢名であるとして、乞乞仲象と大祚栄は異名同人と主張し(『満鮮史研究』)、[[鳥山喜一]]は乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないそれぞれ別個の存在と主張し(『渤海史上の諸問題』)、[[新妻利久]]は乞乞仲象と大祚栄は父子関係と主張している(『渤海国史及び日本との国交史の研究』)<ref>{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=426|url=}}</ref>。 |
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{{仮リンク|李尽忠|zh|李尽忠}}の乱が起きたときに渤海建国の母体となった高句麗遺民集団と靺鞨集団が[[営州]]から東走したとされるが、このうち靺鞨集団を率いたのは[[乞四比羽]]であり、高句麗遺民集団の指導者は『[[旧唐書]]』で[[大祚栄]]、『[[新唐書]]』は乞乞仲象とあって異なる。これについて『新唐書』が参照した『[[渤海国記]]』の史料的性格を検討した[[古畑徹]]は、乞乞仲象-大祚栄という父子関係を認めた上で大祚栄に[[唐]]に叛いた者という傷を負わせないための渤海側の思慮によるものであり、[[事実]]として承認できるのは乞乞仲象が大祚栄の父であるということのみであるという見解を提出している<ref name="佐藤28">{{Harvnb|佐藤|2003|p=28}}</ref>。 |
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== 登場作品 == |
== 登場作品 == |
2021年10月23日 (土) 07:12時点における版
高王 大祚栄 | |
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渤海 | |
初代王 | |
ファイル:Dae Joyeong.png | |
王朝 | 渤海 |
在位期間 | 698年 - 719年4月2日 |
都城 | 旧国 |
諡号 | 高王 |
生年 | 不詳 |
没年 | 開元7年3月8日(719年4月2日) |
父 | 乞乞仲象 |
大 祚栄(だい そえい)は、渤海の初代王。唐から与えられた称号は渤海郡王であり、忽汗州都督府都督の官職を受けた。
生涯
万歳通天元年(696年)に営州地方(現在の遼寧省朝陽市)で父の乞乞仲象と共に自立を画策し、聖暦元年(698年)には自立の動きに反対する武周軍を破って震国を建国した。
武周は震国を牽制するために、大祚栄に官職を与える懐柔策や、軍事的な圧力を加えることで緊張関係が継続していたが、神龍元年(705年)には復活した唐の招安に応じ、唐臣としての地位を確認、唐も結局先天2年(713年)に「渤海郡王」の称号を与え、同時に忽汗州都督府都督を兼任することで正式に冊封体制に組み込まれるに至った。
外交関係としては、唐との修好関係以外に突厥、契丹、新羅、日本との外交関係も構築し、海を隔てた日本を除く4ヶ国との緩衝国家としての地位を評価する説も存在している。
開元7年(719年)に薨去、その地位は次男の大武芸が継承した。
出自
大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄、本は高麗の別種なり」(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也)と記し、『新唐書』はより具体的に「本来高麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である」(渤海、本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏)とする。
ツングース系民族[1]の靺鞨であると日本の学界では広く受け入れられており[2]、「高句麗に居住していた靺鞨人[3]」「かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人[4]」「高句麗に帰化していた靺鞨人[5]」、「高句麗に同化していた靺鞨人[5]」「高句麗に付属した粟末靺鞨族[6]」「高句麗に移住してきた粟末靺鞨[7]」といった見解が好まれる。
897年に唐に対して渤海の大封裔が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して新羅の崔致遠が執筆し、新羅王である孝恭王から唐皇帝である昭宗に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』には「渤海を建国した大祚栄は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている[8]。『謝不許北国居上表』は、渤海が存在していた同時代の史料であり、また新羅王から唐皇帝へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる[9]。
臣謹按渤海之源流也、句驪未滅之時、本為疣贅部落。靺鞨之屬、實繁有徒、是名粟末小蕃、嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等、至武后臨朝之際、自營州作孽而逃、輒據荒丘、始稱振國。時有句驪遺燼、勿吉雜流
渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[10]。
— 崔致遠、謝不許北国居上表
大祚栄の父である大舎利乞乞仲象が保有していた舎利[注釈 1][注釈 2]という官職は『五代会要』巻三十渤海上に「有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也」とあるため官名であることがわかり、『遼史』巻一一六国語解に「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。」とあることから舎利とは権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であることがわかり[11]、『遼史』と『資治通鑑』によると契丹[注釈 3][注釈 4][12][11]、『冊府元亀』によると靺鞨[注釈 5]にはその舎利という官職が存在していたことは確認されているが、高句麗ではまだ舎利という官職の存在が確認されていない[13][14][15][16]。このことから、父の乞乞仲象が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が確認されていない称号をもっている点を考え合わせると、大祚栄は高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当という意見がある[17][18]。
一然は『三国遺事』で、大祚栄を粟末靺鞨の酋長とのみ言及し、渤海を「靺鞨ノ別種」と結論付けている[19][20][21][22]。
大祚栄の父の乞乞仲象はおよそ高句麗人とは考えられない靺鞨人の名前であることから、これを大祚栄=靺鞨人説の根拠にする意見がある[23][24][25]。
韓国の『斗山世界大百科事典』は、大祚栄の父親の乞乞仲象について、「高句麗に服属していた粟末靺鞨人の酋長と推測されている」と述べており[26]、同じく韓国の『韓国民族文化大百科事典』も「乞乞仲象は、高句麗に併合された粟末靺鞨族出身で唐の営州地方に移って住んでいた」と述べている[27]。
宋基豪(朝鮮語: 송기호、英語: Song Ki-ho、ソウル大学)は、いくつかの情況から大祚栄は靺鞨人であるが、高句麗に服属していたことから一定の部分高句麗化され、乞乞仲象を経てさらに加速されて靺鞨系高句麗人となったと主張した[28][29]。李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、渤海には高句麗人が多数暮らし、渤海は高句麗の伝統を受け継ぎ、さらに粟末靺鞨人である大祚栄は高句麗の将軍として勤務していたことがあるので新しい王国を建国する情報と力があった、として大祚栄は高句麗の将軍として勤務していた粟末靺鞨人としている[30]。盧泰敦(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は、大祚栄は高句麗化した粟末靺鞨人であるとして、明確に靺鞨の血統を受け継いだ人物と主張している[31]。
宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)は、大祚栄を「粟末靺鞨系高句麗人」と見る見解を提示しており[32][33]、大祚栄は種族的に高句麗系であるか靺鞨系であるかを判断することができないという留保的解釈がくだしている[34][35]。
金基興(朝鮮語: 김기흥、英語: Kim, Kiheung、建国大学)は、近年の韓国の歴史学界では、大祚栄を「粟末靺鞨系高句麗人」と見る見解が提示されており、大祚栄の出自を純粋な高句麗人と積極的に主張していないのが実情であると述べている[33]。
韓圭哲(朝鮮語: 한규철、慶星大学)は大祚栄を粟末靺鞨とみなし、粟末靺鞨を松花江付近に住んでいた高句麗地方住民と定義して、大祚栄を粟末靺鞨系高句麗人としている[36][33]。
李基白(朝鮮語: 이기백、西江大学)と李基東(朝鮮語: 이기동、東国学校)は大祚栄を「夫余系高句麗人」としている[37][33]。
論争
『旧唐書』と『新唐書』
大祚栄が靺鞨人なのか或いは高句麗人なのかという議論は、『新唐書』の「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」という記事と、『旧唐書』の「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」という記事の解釈の相違に起因し、『新唐書』は明確に「大祚栄は高句麗に服属していた粟末靺鞨人」と表記する一方、『旧唐書』は大祚栄の出自を「高麗別種」と曖昧に表記しており、この「高麗別種」をめぐって論争となっている[38]。
渤海に関する二大基本史料は『旧唐書』と『新唐書』であるが、『旧唐書』には「渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也」とあり、その解釈について韓国の『韓国民族文化大百科事典』は、大祚栄が高句麗人だったのか、或いは靺鞨人だったのかは議論が絶えないが、大祚栄は純粋な高句麗人でもなく、純粋な靺鞨人でもなく、史料に「高麗別種」とあるのはこのためであり、大祚栄は粟末靺鞨出身で、かつて高句麗に亡命していたものとみられると述べており[39]、従って『韓国民族文化大百科事典』の解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は高句麗に亡命していた粟末靺鞨人」という解釈になる[39]。この『旧唐書』に登場する「高麗別種」の語に留意して、盧泰敦(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は大祚栄を「高句麗化した粟末靺鞨人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は高句麗化した粟末靺鞨人」という解釈になる[40]。一方、宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)は「高麗別種」を「靺鞨系高句麗人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は靺鞨系高句麗人」という解釈になる[40]。渤海に関する二大基本史料のもう一つの『新唐書』には「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗(高句麗)に付属していた。姓は大氏である。)と記しており[41]、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出自とある[42][27]。
国史編纂委員会は、『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は、もと高麗の別種である」とし、『新唐書』は「渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」とし、『旧唐書』は「高麗別種」という曖昧な表現で大祚栄の靺鞨的要素と高句麗的要素を同時に言及している一方、『新唐書』は大祚栄の出自を明確に粟末靺鞨としている[43]。『三国遺事』は、朝鮮史書である『新羅古記』を引用して、大祚栄はもとの高句麗武将とし、『帝王韻紀』も大祚栄をもとの高句麗武将と述べており、『高麗史』及び『高麗史節要』は、渤海は粟末靺鞨としつつも「高句麗人大祚栄」と規定している[43]。一方、崔致遠は『謝不許北国居上表』において、大祚栄は元の粟末靺鞨としており、『三国遺事』は、中国史書である『通典』を引用して「渤海は元の粟末靺鞨で、その酋長である大祚栄に至って国を建国した」としており、大祚栄を粟末靺鞨と規定しており、大祚栄の出自を説明する『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」を総合して大祚栄の出自を紐解くと、渤海を建国した粟末靺鞨は松花江一帯を居住地としており、早くから高句麗と隣接していた。靺鞨は軍事力が優れており、高句麗と周辺国家との戦争では靺鞨が高句麗と共同戦争を行っていることを史料で確認することができ、645年の唐の第一次高句麗出兵において、唐太宗が捕虜となった高句麗人を解放する代わりに靺鞨人3300人を埋め殺し、654年には高句麗が靺鞨と連合して契丹を攻撃しており、655年には高句麗が百済と靺鞨が連合して新羅の北辺境に侵攻しており、左様に靺鞨は高句麗と連合して、積極的に参戦している。6世紀末に高句麗が粟末靺鞨地域に進出し、粟末靺鞨は高句麗に服属したが[44][45][22]、大祚栄の先祖はこの時に高句麗に服属し、高句麗に移住したみられる[43]。従って、『旧唐書』「高麗別種」とは、大祚栄の種族が「高句麗とは他の種族」であることを意味し、即ち、大祚栄の種族は「粟末靺鞨」であり、大祚栄の先祖が高句麗に移住し、靺鞨特有の軍事力を発揮して、高句麗の武将の地位に上り詰め、粟末靺鞨でありながら高句麗の武将として軍功をあげた[43]。大祚栄は高句麗で生活していることから、ある程度高句麗化され、まさに『旧唐書』「高麗別種」とは、粟末靺鞨でありながら高句麗化された大祚栄を意味し、父の乞乞仲象が靺鞨名であることとは異なり、姓は大、名は祚栄という漢姓漢名であることを鑑みると、父の乞乞仲象よりもある程度高句麗化していることが伺われ、大祚栄は高句麗滅亡後、高句麗遺民の身分で営州に強制移住され、契丹が暴動の混乱に乗じて、他の高句麗遺民と靺鞨などを結集して営州を脱した[43]。結局、『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」と多様に記録された大祚栄の出自は「大祚栄は粟末靺鞨でありながら、高句麗に移住し、高句麗化したもとの高句麗武将」という複合的アイデンティティをもつ大祚栄を説明していると結論付けている[43]。
송영현(西江大学)は、「『三国遺事』は、渤海は靺鞨の別種としており、つまり『三国遺事』は渤海を靺鞨の別種とみており、これは『三国遺事』を記述した一然が渤海を靺鞨とみていることを意味している。中国人は高句麗を東夷伝で扱い、靺鞨及び渤海は北狄伝で扱っており、当時の中国人は渤海と高句麗を同一視していないことをを意味する。そして『三国遺事』も大祚栄は粟末靺鞨の酋長であることを明らかにしている。従って、高句麗の建国勢力は高句麗遺民だけではなく、靺鞨族になる。…『謝不許北国居上表』の内容からすると、少なくとも新羅人である崔致遠は渤海人を同民族だと考えていなかったように思われる。つまり、渤海は高句麗だったかも知れないが、新羅人は渤海人と歴史共同体意識を共有していない」と述べている[46]。
張碧波(中国辺疆史地研究センター)は、「別種」とは古代の中国史家が、民族の源流・民族関係を記述するときに作成した特有の概念であり、「別種」とは「本種」とは異なるという意味であり、従って「高麗別種」とは渤海が高句麗王家から派生した政治勢力という意味ではなく、中華民族の形成過程では、民族文化の衝突・交流・融和の複雑なプロセスを経て、民族の遷移は絶えず行われ、民族と民族の分裂と統一、変化と帰付の状況は非常に複雑化し、『新唐書』はこの複雑なプロセスを認識して『旧唐書』の「高麗別種」という曖昧な表現を「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」と明確に記録したと主張した[47][38]。
王成国(遼寧省社会科学院歴史研究所研究員)は、「高麗別種」とは高句麗の別部という意味であり、乞乞仲象・大祚栄を首領とする粟末靺鞨はかつて高句麗の支配下にあり、粟末靺鞨が遼西の営州に移住する前、粟末靺鞨は高句麗に支配され、粟末靺鞨は高句麗の別働部隊として、長期間高句麗と一緒に生活し、共に戦争を戦ったので、『旧唐書』の編纂者は粟末靺鞨を高句麗の別種と史書に書いたと述べている[48][38]。
姜守鵬(東北師範大学)は、中国の古代文献では「別種」とは、すでに決められた含意があると主張しており、 「別種」とは「別族」と同様の意味である「他種」という意味であり、「同種」の末裔・傍系は「分種」であって「別種」ではなく、「別種と別部は同じである。それぞれ互いに同じ政治共同体に属しているが、種族上ではそれぞれ互いに異なる部落」と述べており、この「別種」の理解に基づいて「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」を解釈すると、渤海の建国者である大祚栄はかつて高句麗に隷属していた粟末靺鞨人となり、このため『旧唐書』は、大祚栄を「高麗別種」と呼んだと主張した[49][38]。また、姜守鵬(東北師範大学)は、『旧唐書』は、渤海を「北狄伝」に収めて北狄の一員として扱っており、「高麗別種」とあるにもかかわらず、高句麗を収めた「東夷伝」には収めておらず、一方、高句麗は「東夷伝」に収めて東夷の一員として扱い、『旧唐書』編纂者は大祚栄が属する渤海を高句麗と明確に異民族と区別していることを指摘している[50][38]。
王健群(吉林省文物考古研究所)は、中国史書に登場する「別種」とは「同種とは異なるが、隷属していた者」を指し、『旧唐書』「高麗別種」とは「高句麗と同種とは異なるが、高句麗に隷属していた者」という意味であり、従って『旧唐書』は「大祚栄は高句麗と同種とは異なるが、高句麗に隷属していた者」としか解釈できず、それを『新唐書』は「もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」と明確に説明しているだけであり、さらに、『旧唐書』巻百二十四には、高句麗人である李正己を「李正己、高麗人也。[51]」と記載しており、大祚栄が高句麗人であるなら李正己同様に「高麗人」と直接書くはずであり、「高麗別種」などと曖昧に記載しないと指摘している[52]。
劉毅(遼寧大学)は、『新唐書』と『旧唐書』の編纂過程上、全体的に『新唐書』の方が『旧唐書』より優れており、仮に『旧唐書』の記事を「大祚栄は高句麗人」と仮定しても、『新唐書』の方が優れているため『新唐書』の記事が正しいと主張している[53][38]。劉毅は、『新唐書』は『旧唐書』の多くの問題点を修正している事実上の『旧唐書』改訂版であり、『新唐書』は『旧唐書』が参考していない新史料、なかでも渤海に滞在して渤海を直接見聞し、その民族、政治、経済、文化、社会風俗に関する正確な記録を残した張建章の『渤海国記』を参照しており、編纂者の主観的な判断に基づいた『旧唐書』よりもはるかに優れていると評価した[53][38]。
魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)と郝慶云(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、『旧唐書』の「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」記事の「高麗別種」の解釈以前に、そもそも「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」として大祚栄が靺鞨であることを宣言しており、実質的に『新唐書』と『旧唐書』は矛盾しておらず[54][38]、『新唐書』の「粟末靺鞨附高麗者」とは『旧唐書』の「高麗別種」を指していると指摘している[55]。
宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)は、『旧唐書』「高麗別種」とは、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者(もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた者)」のことであると解釈している[56][57]。
卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は、「『旧唐書』と『新唐書』の見解を組み合わせて解釈することは避けねばならず、何故なら『旧唐書』と『新唐書』では異なる見解を示しているからである」として、朴時亨は「別種」を「亜種」と解釈しているが、「別種」とは生物でいう「亜種」という意味の「変種」ではなくて従属関係をあらわしており、従って「別種」とは「亜種」「変種」であるという主張には賛成できず、中国史書でみられる「別種」とは主体の支配階層ではなく、他系統という意味であり、高句麗が滅びると、その遺民と靺鞨や突厥は営州に移されていたが、大祚栄もこれらとともに雑居地である営州に移り、大祚栄が靺鞨に分投し、散乱した理由は定かではないが、大祚栄が靺鞨人とともに一団となった事実だけでも旧高句麗人と靺鞨人を中心とした連合体の指導者であることは間違いなく、複数の部族の混在的な性格をもつ連合体の実体を把握することができなかった中国史書が高句麗中心の連合体と誤って解釈したものが「別種」であり、編纂した史官が、中国史書の伝統的な民族系統から平易に機械的に踏襲して「別種」或いは「別部」を使用したものであり、「別種」という単語は史官が前代の記録を踏襲したものとみる[58]。従って『旧唐書』を「渤海靺鞨大祚栄は、本来、高句麗別種である」というように「別種」を「変種」の意味で解いてはならず、『新唐書』巻二十二には、高句麗や百済について「扶餘別種」とあり、高句麗と百済の支配層は本来夫余から割れた種であることを鑑みて、渤海が多民族国家であることを主眼に置くと、大祚栄が高句麗人か或いは靺鞨人であるかは不明であるが、「高麗別種」とは渤海の支配層が高句麗系であることを指しているのではないかと推測できると主張している[58]。
朝鮮時代の許穆、李瀷、安鼎福、柳得恭などは、すでに『旧唐書』と『新唐書』を折衷的に解釈する傾向を示しており、『旧唐書』の「高麗別種」とは『新唐書』の「本粟末靺鞨」のことであるとしており、「高麗別種」=「粟末靺鞨人」としている[33]。
許眉叟、作渤海列傳、頗欠詳、渤海本粟末靺鞨、高句麗別種[33]。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海
震國公姓大氏、名乞乞仲像。粟末靺鞨人也。粟末靺鞨者、臣於高句麗者也[33]。
— 柳得恭、渤海考、君考
乞乞仲象と大祚栄の関係
『新唐書』渤海伝では、乞乞仲象と大祚栄は父子関係となっているが、『旧唐書』には乞乞仲象の名は出てこないこと、また乞乞仲象は靺鞨名でありながら大祚栄は漢名であることなどを根拠に、池内宏は乞乞仲象は営州にいたときの本名、大祚栄は渤海の基を開いた後に用いた漢名であるとして、乞乞仲象と大祚栄は異名同人と主張し(『満鮮史研究』)、鳥山喜一は乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないそれぞれ別個の存在と主張し(『渤海史上の諸問題』)、新妻利久は乞乞仲象と大祚栄は父子関係と主張している(『渤海国史及び日本との国交史の研究』)[63]。
李尽忠の乱が起きたときに渤海建国の母体となった高句麗遺民集団と靺鞨集団が営州から東走したとされるが、このうち靺鞨集団を率いたのは乞四比羽であり、高句麗遺民集団の指導者は『旧唐書』で大祚栄、『新唐書』は乞乞仲象とあって異なる。これについて『新唐書』が参照した『渤海国記』の史料的性格を検討した古畑徹は、乞乞仲象-大祚栄という父子関係を認めた上で大祚栄に唐に叛いた者という傷を負わせないための渤海側の思慮によるものであり、事実として承認できるのは乞乞仲象が大祚栄の父であるということのみであるという見解を提出している[14]。
登場作品
テレビドラマ
脚注
注釈
出典
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- 藤本和貴夫「【シベリア】7世紀~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた(日本大百科全書『シベリア』 - コトバンク)」
- 黄文雄「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄『韓国は日本人がつくった』ワック〈WAC BUNKO〉、2005年5月1日。ISBN 4898315313。)」「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』ワック〈ワックBUNKO〉、2005年9月1日、77-80頁。ISBN 978-4898315361。)」
- 佐々木史郎「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている(日本大百科全書『満洲族』 - コトバンク)」
- 安藤達朗「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた(安藤達朗『いっきに学び直す日本史【合本版】』東洋経済新報社、2016年7月1日 。)」
- 田村実造「渤海人はもともとツングース系の狩猟民であるが、かつて渤海國をおこし尚文化を掃取したので、キタイ族・奥族よりは定著し農耕化していたようである(田村実造『中国征服王朝の研究 第1巻』同朋舎出版、1964年。)」
- 渡部昇一「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである(渡部昇一『ことばの発見』中央公論新社、1977年6月1日、87頁。ISBN 978-4120004780。)」
- 埴原和郎「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている(埴原和郎 編『日本人と日本文化の形成』朝倉書店、1993年5月1日、211頁。ISBN 978-4254101225。)」
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- 中国研究所「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある靺鞨族により創建された渤海国(中国研究所 編『中国年鑑』創土社、2002年、393頁。)」
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参考文献
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