鬼怒 (軽巡洋艦)

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艦歴
発注 1920年1918年度八六艦隊計画)
起工 1921年1月17日川崎造船所
進水 1922年5月29日
就役 1922年11月10日
その後 1944年10月26日戦没
除籍 1944年12月20日
性能諸元
排水量 基準:5,170トン
常備:5,570トン
全長 162.15m
全幅 14.17m
吃水 4.80 m
機関 90,000馬力
最大速 36.0ノット
乗員 440名
兵装
新造時 50口径三年式14cm単装砲 7基7門
40口径三年式8cm単装高角砲 2基2門
三年式6.5mm機銃 2挺
八年式連装魚雷発射管 4基8門(魚雷16本)
飛行機滑走台 1基
飛行機 1機
機雷 48個
改装後 50口径三年式14cm単装砲 5基5門
40口径八九式12.7cm連装高角砲 1基2門
九六式25mm3連装機銃 4基12挺
九六式25mm連装機銃 2基4挺
九六式25mm単装機銃 8挺
九三式13mm連装機銃 1基2挺
八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門
爆雷投下軌条 2基
二一号電探 1基

鬼怒(きぬ)は、日本海軍軽巡洋艦長良型の5番艦である。その艦名は、栃木県茨城県を流れる鬼怒川より名づけられた。

艦歴

鬼怒は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1922年(大正11年)11月に神戸川崎造船所で完成した。

1922年12月、第2艦隊第5戦隊に編入され、その後、第1艦隊第3戦隊、第2艦隊第2水雷戦隊に属した。

1930年10月、完成したばかりの呉式二号二型射出機が、艦艇では初めて鬼怒に装備されて射出実験が繰り返された。この呉式二号二型は小型機用の火薬式射出機であり、後に呉式二号三型改一として実用化され5500トン型軽巡各艦に装備されることとなる射出機の原型である。冒頭の写真はこの呉式二号二型射出機を装備していた時点の写真である。1年間の実験ののち、1931年10月に同装置は神通に移設された。

1934年4月、5番主砲と6番主砲の間に呉式二号三型改一射出機を装備し艦載機を水上機1機とする。不要となった滑走台跡に保式13mm四連装機銃1基を装備(のちに滑走台は完全に撤去され改めて艦橋中央前部に機銃台が設けられて保式13mm四連装機銃はここに設置された)。

1934年11月から一年間、海軍機関学校の練習艦となった。

1935年11月、第2艦隊第2潜水戦隊(司令官大和田芳之介少将)の旗艦となり、翌年12月、第1艦隊第8戦隊に編入された。

1937年8月、支那事変日中戦争)のため中国沿岸に出動した。

1941年4月、連合艦隊附属第4潜水戦隊(司令官吉富説三少将)の旗艦となり、12月のマレー作戦に参加、さらに蘭印作戦に加わった。

1942年3月1日、ジャワ作戦に協力中、敵機の爆撃を受けて4名が戦死した。同月、第2南遣艦隊第16戦隊旗艦となり、ニューギニア西部の作戦に従事した。5月、に帰投して入渠整備を行った。

1943年4月、南西方面艦隊に編入され活動し、6月23日、マカッサルB-24 10機の攻撃を受け、至近弾により戦死3名、負傷者17名の被害を受け、旗艦を「球磨」に移し、8月、呉に帰投、修理を実施した。

1944年、数度に分けて対空兵装の強化改装が行われ、5番主砲の撤去、7番主砲の撤去と跡に12.7cm連装高角砲の装備、射出機の撤去と跡に25mm三連装機銃の装備、25mm機銃を三連装・連装・単装多数装備などが行われた。なお鬼怒への酸素魚雷搭載については計画のみあったものの魚雷発射管の換装も改造も行われず、沈没まで九○式空気魚雷を使用していた。

1944年10月18日、捷一号作戦により栗田艦隊とともにリンガ泊地から出撃[1]。途中のブルネイで、レイテ島への兵員輸送に従事するため鬼怒、重巡洋艦「青葉」、駆逐艦「浦波」からなる第16戦隊は栗田艦隊と別れてマニラへ向かった[2]。その途中の10月23日に青葉がアメリカ潜水艦ブリームの雷撃により損傷し、鬼怒は航行不能となった青葉を曳航して同日中にマニラに着いた[3]。鬼怒が参加する輸送作戦はミンダナオ島カガヤンからの歩兵第41連隊の輸送であり、鬼怒と浦波の他輸送艦5隻が参加した[4]。鬼怒と浦波は10月24日6時30分にマニラを出発したが、7時から10時にかけてアメリカ空母搭載機による3次に渡る空襲を受けて鬼怒では死傷者47名を出した[5]。翌日にはB24爆撃機による空襲があったが鬼怒に損害は無かった[6]。鬼怒と浦波は3時間遅れの25日16時にカガヤンに到着し、兵員を乗せると17時30分に出港した[7]。鬼怒は340名を乗せていた[8]。輸送艦は鬼怒と浦波の到着前にすでにオルモックへ向けて出港していた[8]。鬼怒と浦波はボホール島の西側を通る迂回航路を取って[9]10月26日4時にレイテ島オルモックに着き兵員を下ろした[10]。鬼怒と浦波は5時にオルモックを離れてマニラへ向かい、続いて輸送艦も出港し内3隻は鬼怒と浦波に続航した[10]。同日10時15分、パナイ島マスバテ島の間に達したころからアメリカ第7艦隊の護衛空母搭載機による攻撃を受けまず浦波が沈没[11]。鬼怒も14時過ぎには航行不能となり17時30分ごろに沈没した[12]。後続の輸送艦が2隻の生存者を救助し、輸送艦第9号が鬼怒乗組員129名、輸送艦第10号が第16戦隊司令官左近允尚正中将以下350名以上を救助した[13]。もう1隻、輸送艦第6号も生存者を救助したと思われるが記録がない[13]

歴代艦長

艤装員長

  1. 矢野馬吉 大佐:1922年5月10日 -

艦長

  1. 矢野馬吉大佐:1922年11月10日 -
  2. 及川古志郎 大佐:1923年12月1日 -
  3. 竹内正 大佐:1924年1月10日 -
  4. 松崎直 大佐:1924年11月10日 -
  5. 瀬崎仁平 大佐:1925年12月1日 -
  6. 小野弥一 大佐:1926年11月1日 -
  7. 小籏巍 大佐:1927年11月15日 -
  8. 田尻敏郎 大佐:1928年12月10日 -
  9. 中島隆吉 大佐:1929年11月30日 -
  10. 坂本伊久太 大佐:1930年12月1日 -
  11. 佐倉武夫 大佐:1931年12月1日 -
  12. 木幡行 大佐:1933年11月15日 -
  13. 遠藤喜一 大佐:1934年11月1日 -
  14. 三輪茂義 大佐:1935年11月15日 -
  15. 石川茂 大佐:1936年12月1日 -
  16. 田代蘇平 大佐:1937年12月1日 -
  17. 渡辺清七 大佐:1938年12月15日 -
  18. 橋本愛次 大佐:1939年11月15日 -
  19. 伊藤徳堯 大佐:1940年4月20日 -
  20. 矢牧章 大佐:1940年12月2日 -
  21. 鍋島俊策 大佐:1941年3月15日 -
  22. 加藤与四郎 大佐:1941年8月11日 -
  23. 上原義雄 大佐:1942年12月12日 -
  24. 板倉得止 大佐:1943年3月22日 -
  25. 川崎晴実 大佐:1944年2月4日 -

同型艦

脚注

  1. ^ 日本軽巡戦史、575ページ
  2. ^ 日本軽巡戦史、575-577ページ
  3. ^ 日本軽巡戦史、577-578ページ
  4. ^ 検証・レイテ輸送作戦、65ページ
  5. ^ 日本軽巡戦史、578-579ページ
  6. ^ 日本軽巡戦史、579ページ、検証・レイテ輸送作戦、66ページ
  7. ^ 検証・レイテ輸送作戦、66ページ
  8. ^ a b 検証・レイテ輸送作戦、67ページ
  9. ^ 検証・レイテ輸送作戦、68ページ
  10. ^ a b 日本軽巡戦史、582ページ
  11. ^ 日本軽巡戦史、583-585ページ
  12. ^ 日本軽巡戦史、586ページ
  13. ^ a b 検証・レイテ輸送作戦、71ページ

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030579300「昭和19年10月18日~昭和19年10月26日 軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14 軽巡 長良型』光人社、1997年
  • 『日本海軍艦艇図面集 vol.2』モデルアート社、1990年
  • 木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
  • 伊藤由己、『検証・レイテ輸送作戦』、近代文藝社、1995年、ISBN 4-7733-4387-7
  • [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.32『軽巡 球磨・長良・川内型』学習研究社、2001年

関連項目