阿胡行宮

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阿胡行宮(あごのかりみや)は、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の第一回式年遷宮に際して、持統天皇の宿泊等のために、仮に設けられた施設(行宮)である。

実際の場所は何れで有ったか、諸説分かれている。

阿胡行宮で詠まれた歌[編集]

万葉集には阿胡行宮に随行した夫が、都に残した妻を偲ぶ歌が記されている。

この2首は万葉集に「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」と記され、阿胡行宮で詠んだ歌とされている。

  • 吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六[1]
    • 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ(当麻真人麻呂の妻の作れる歌・巻一・43)
  • 吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見国遠見可聞[2]
    • 我妹子をいざ見の山の高みかも大和の見えぬ国遠みかも(石上大臣従駕作歌 巻一・44)


「隠」は名張(三重県名張市)と見られ、伊賀国造を戴冠する際に通過したものと思われる。

「去来見乃山乎高三香裳」から、伊勢に向かう際に、三重県・奈良県境の高見山を通過したこと推測できる。

石上大臣は竹取物語に登場する石上まろたりのモデルとも言われている。遂幸先である、豊受大神宮の豊受大神も一説には「かぐや姫のモデルではないか?」とも言われ、多数のサイトで紹介されていると同時に本歌は「倭」を「日本」(「日本」と書いて「やまと」と読む)と記した最初の歌としても知られている。

阿胡行宮の推定候補地[編集]

地名・日本書紀からの推定地[編集]

養老17年(745年、式年遷宮から53年後)に英虞郡となったことから推定されたものと思われる。旧暦の3月に始まり、5月に阿胡行宮の記述が現れ、閏5月に再び天皇が現れる為、伊勢神宮の春と秋の大祭を利用し、旧暦の4月、5月に地理的に暑くなる奈良盆地を避けた避暑旅行だったことがうかがえる。[3][4]

古代の天皇幸伊勢[5]に際し1000人から2000人余の陪従が付くため、それを受け入れられる行宮を設置したものと思われる。

倭姫命を参考にしたと見られる・志摩国答志郡伊雑郷近辺から英虞郡船越郷近辺[編集]

  • 志摩国国府から伊雑宮周辺(志摩市阿児町国府磯部町上之郷~度会郡南伊勢町船越):志摩国府があったことから、この地が有力ではないかとされる。[6]周囲には、御厨や荘園を持つ郷や里が多数存在し、倭姫命を受け入れた実績がある為、食事については大きく問題にならなかったとみられる。当時、志摩国は志摩郡一郡であった。日本書紀には「辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。壬午、賜所過神郡(度会郡又は多気郡)及伊賀・伊勢・志摩国造等冠位、幷免今年調役、復免供奉騎士・諸司荷丁・造行宮丁今年調役。」とあり、北回りで伊勢に入り、「造行宮丁」で、行宮を作らせたことが記載されている。この後、「甲申、賜所過志摩百姓男女年八十以上、稻人五十束」とあり、行幸の際、国造のいる地点に立ち寄り、志摩国を経由したと推測できる。ルート上には伊雑宮と想定されるものがあり、農作業の為に行幸を非難された時期と重なる安居の時期をやり過ごすため、倭姫命[7]同様、稲に絡む宮である伊雑宮(磯部町上之郷)を行宮にした可能性もある[8][9]

国威を高めるため中国の伝説を参考にしたと見られる・古事記に登場する島の早贄を送り続ける志摩国英虞郡名錐郷及び甲賀郷近辺[編集]

  • 英虞湾周辺(志摩市):式年遷宮時、伊雑郷に属していた地域である。この為、御厨などが多く、食事には問題が少ない地域と見られる。志摩市志摩町では、国道沿いに石碑を立てている。 志摩町御座の地名は行宮と言う意味である。[10]他の地域の「阿胡」は「なご」の読み替えとしているものもあり、藤原京から木簡が出土している伊雑郷魚切里(後の英虞郡名錐郷・現在の三重県志摩市大王町波切)に在する米子浜は「湯が湧くなごの浜」[11]とも呼ばれている。「なご」はコウナゴキビナゴの様に小魚を指す言葉によく使われ、外洋から大魚に追われた小魚が湾のような入江の浜辺に大量に打ち上げられることから「小魚の浜」と言う意味でついたものと思われる。
  • 一方、志摩津国造は出雲国造の系統である。出雲(島根)では、トビウオを「あご」と呼び、一部サイトでは島根県の「阿胡」はトビウオから来ているのではと指摘しているものも散見できる。始まりは不明だが、古事記上巻第五部天宇受賣命に登場し「是以御世嶋之速贄獻之時給猿女君等也」(速贄とは、トビウオの事である)と古くから、現代にいたるまで、天皇家(皇室)の依頼で、トビウオを毎年の様に奉納しているのもこの波切(魚切)地区で皇室では、古事記に則り、猿女に奉納している。さらに、岬には付けられて時代は不明とされているが、古代の天皇を意味する「大王」が付けられていると共に、高天原の名を持つ持統天皇にとっては行幸に際し、「飛び跳ねる」という事から、「経済が向上する」、「国が跳ねる」など国威に絡む重要な御饌を得る位置だったことが伺える。
  • この地点は、伊勢、志摩地方では持統天皇が信仰している中国の神話に登場する赤烏(太陽・特に海の中から生まれ出るという事で水平線から登る朝日が重要視されている)に最も朝早く出会える場所であるだけでなく、夏至付近に置いて、日の出の位置が富士山より南にずれており、伊豆半島、箱根などの山は水平線下となり、山に邪魔をされることなく、水平線上から太陽が昇る場所でもある。[12]特に、梅雨時に重なる為、この時期に拝みにくい日の出を拝むには行宮を設置する必要が出てくるのである。「辛未、相摸國司獻赤鳥鶵二隻」とあり、随行していた相模国司が、赤烏の雛を2匹(幻日と見られる)目撃したと記述されている[13]など、赤烏の信仰には特に注意を払っていたことがうかがえる。
  • この記述を基に聖武天皇の時代に成立した英虞郡の「英虞」を持統天皇が注目している中国の神話に当てはめると、「英でた天子(虞==太陽神又は有虞氏)」と言う意味になる。「」は、中国周辺の異民族を下に見る言葉であり、伝説の優れた天子を指す「虞」に替える事により、国の地位が中国()と同レベルに上がる事になる。「英」を「ひいでた」、「日でた」と悪戯読みすれば、「日出処の天子」という事で、持統天皇が目指している方向性を表したものになる。さらに、舜の娘の一人が12ヶ月を表す月の仙女の嫦娥で別名「姮娥(コウガ)[14]」。甲賀郷の元とも推測できる。特にこの神話は竹取物語に類似する事が多く、持統天皇の側近が竹取物語に登場する人物のモデルに成る者が多い原因かも知れない。また、今回の天皇の旅の目的の1つは、「倭」を「日本」と改めた事を伊勢神宮に報告する事でもある。「日(太陽)に最も近い天子」であることを世に知らしめる一大イベントで有ったのかも知れない。[15][16]特に、この地で過去に有った一番太陽に近い社は日天八王子社であり、「日天」の文字が入っている。
  • 式年遷宮に際し、当時の土木技術を加味したとも考えられる。当時の方位測定は太陽の方角を使っている。元々は中国の技術なので、航海術などにも応用されていても不思議ではない。[17]式年遷宮は当時の技術の最高峰を用いていると言われている。その中で既に活用されていた太陽を使った測量法を用いていても不思議ではない。持統天皇が訪れた伊勢神宮皇大神宮豊受大神宮、そして大王崎の位置関係が特異な位置関係になっているため、当時の測量技術を加味したものとも考えられる。持統天皇が行幸した豊受大神宮が背にしている高倉山山頂から、皇大神宮の本殿中央を突っ切る格好で線を伸ばすと、到達する地点が志摩市大王町波切(魚切里)にある大王崎になる。つまり、最も太陽に近い地点である大王崎と皇大神宮の本殿中央を結んだ先にある山の麓に豊受大神宮があるという格好になる。特に、高倉山は江戸時代には、高倉山にある高倉山古墳が、天岩戸として信仰されていたなど、太陽信仰の特異性を裏付けているのかもしれない。また、豊受大神宮の社殿は天香久山の真東に位置するなど、藤原京との位置関係も注視すべきことかもしれない。さらに、大王崎から夏至の日出方向に目を向けると、300メートル程度の誤差で羽衣伝説の御穂神社に到達する。豊受大神の出身地とされる比沼麻奈為神社と御穂神社の羽衣伝説を持つ2つの社が豊受大神宮と繋がってしまうのである。一方、大王崎に伝わる元旦の注連縄切り(火祭り)は、天香久山命(高倉下)と深いつながりがある。神武天皇の東征の際の熊野山中での出来事を、祭り化した模様で、山の神を下賜された刀を持て追い払う祭りである。九鬼氏が持ち込んだと思われているのだが、高倉下の問答が仏教の説法に置き換わっている以外は、ほとんど同じで大王町波切の寺全てが高倉山の麓にある中山寺と深いつながりを持ている。
  • 持統天皇は、推古天皇聖徳太子を意識した行幸を行ったかのように見受けられるが、現代でも参考にされている可能性は捨てきれない。一例を上げると、昭和21年11月3日(先勝)日本国憲法が公布された次の大安は11月7日である。この日、法隆寺金堂の日の出ラインが、大王崎に重なっている。また、5月3日(憲法記念日)の大王崎から見た日の入りラインが同じく法隆寺金堂へと繋がっている。特に、「小治田大宮治天下大王天皇」と、法隆寺金堂の薬師如来像に名を記す推古天皇の「大王天皇」から、大王崎の名が生まれた可能性も捨てきれない。
対象する神社・都市
皇大神宮・豊受大神宮 豊受大神宮の南方に在する高倉山山頂と大王崎を結んだラインに皇大神宮の本殿が存在する。
美保神社 7月29日(旧暦7月1日)日本の元号が大化となった日、大王崎の日没のラインに存在する。
御穂神社 夏至の日、大王崎の日の出ラインに僅かな誤差で存在する。美保神社から遷座ともされている。

持統天皇が夏至の朝日を拝んだ場合、この神社の方角を拝んでいる事になる。

比沼麻奈為神社 同神社と大王崎を結んだラインに近江国国府が存在し、800メートル程度の誤差で、近江大津宮が存在する。

また、大王崎の北西側には天白と言う地名があり、北斗七星を祀っている。この社も同じライン上に位置する。

長安(西安市) 天皇がライバル視した玄宗皇帝の都。大王崎の春分、秋分の日の日没ラインに位置する

日本書紀中に記されている名前からの候補地[編集]

  • 阿古師神社熊野市):天皇幸時の郷名は不明。神武天皇が「神日本磐余彦天皇」と日本書紀の中に記載されていることからの様である。「五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮時、進贄者紀伊国牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等、兄弟三戸、服十年調役・雜徭。復免挾杪八人、今年調役」という記述があり、熊野市教育委員会では、神社の説明文に阿古師神社が行宮の場所と記述している。但し山の斜面に西向きであるため、赤烏(日の出)を拝むことが出来ない。さらに、行幸に際し、国造との面会をしているが、紀伊国の国造との面会はなされていないと同時に、行宮の設置に関して紀伊国造に対しての謝意の記述が無い。また、付近には英虞郡の荘園、御厨は見当たらない。「阿胡」と「阿古志」が同時に記載され「胡」と「古」、「志」(志は検非違使の主典の位)と「師」が異なっている。さらに、宮中行事で尚且つ仏教行事である安居が始まっている時期でもあり、文字も左記の様に異なる文字が別に扱われているため、この神社であるという確定は出来ない。また、閏五月の項で「丁未、伊勢大神奏天皇曰」と、伊勢での神事を行っている天皇が言葉を発したという記載があり、伊勢から、志摩の東側を進み、紀州に渡り、再び伊勢に戻るという格好になっている。

[18]

柿本人麻呂の連作からの推定地[編集]

柿本人麻呂は、都に残り詠んだ歌である。

  • 鳥羽湾(鳥羽市小浜海岸) :下記の歌に現れる地名から、こちらも有力な地とされる。[19]但し、江戸時代中期の国学者・賀茂真淵により、本説は否定されている。[20]

柿本人麻呂の歌[編集]

この伊勢へ幸(訪問旅行)の際、都にて留守を預かる柿本人麻呂が次の歌を詠んだ。

  • 鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香[21]
    • 嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか(巻一・40)
  • 安胡乃宇良尓 布奈能里須良牟 乎等女良我 安可毛能須素尓 之保美都良武賀[22]
    • 安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか(巻十五・3610番歌)
  • 釼著 手節乃埼二 今<日>毛可母 大宮人之 玉藻苅良<武>[23]
    • 釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(巻一・41)
  • 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎[24]
    • 潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を(巻一・42)
一番目[編集]

一番目の歌にある「嗚呼見の浦」とは、鳥羽市小浜海岸にある浜がアミの浜と呼ばれていることから同地とする説がある。但し、歌が詠まれた朱鳥6年(692年)から27年後、養老3年(719年)に同地は答志郡の一部となっている

日本書紀には、「御阿胡行宮」と明記されており、「見」は存在しない。訳す際、5文字にするために「呼」を抜いたものと見られる。


また、「」は「」の誤りが伝えられたとし、「嗚呼兒の浦」と解釈し志摩市阿児町国府の海岸などを同地とする説もある。[25]

二番目[編集]

二番目の「答志の崎」とは鳥羽市答志島にある岬(場所は同定されず)であるとされる。手節と言う地名が過去に存在していた為、これが答志島の事だと見られている。

三番目[編集]

三番目の歌の「伊良虞」は、愛知県渥美半島突端の伊良湖岬あるいは鳥羽市神島のことであるとされる。

脚注[編集]

  1. ^ 奈良万葉文化会館の記事より引用
  2. ^ 奈良万葉文化会館の記事より引用
  3. ^ 阿胡の由来は諸説あり、はっきりとしない、但し、時期的に宮中行事の「安居」と時期が重なり名前が酷似しているので時期を指したものと言う事も捨てきれない。
  4. ^ 参考までに、『阿胡』の地名は紀州や長門にもあり、万葉歌でも歌われている『あご』という発音だけで見た場合、神への供え物として供される事が多いトビウオを指し島津国造出雲笠夜命の出身地の方言である。現在でも志摩市の漁港から、天皇家へと献上されている魚であるが、天皇幸(天皇の訪問)は式年遷宮の為である為、豊受大神宮への献上品を指したものとも推定出来る。また、志摩国国府から的矢湾を西に行くと、島津国造所縁の佐美長神社があり説を有力視させているものと思われる
  5. ^ 天皇が伊勢に到着するという意味
  6. ^ 奈良県立万葉文化会館では、石上大臣従駕の歌の紹介の際、こちらを採用している
  7. ^ 甥のヤマトタケルは、石上大臣の歌同様、倭を日本と替えられた人物でもあるまた、また父の妃には竹取物語のかぐや姫のモデルではと目されている迦具夜比売命がいる。
  8. ^ 時期的に田植えシーズンでもあり、伊雑宮の御田祭りの原形の可能性も捨てきれない
  9. ^ 原文掲載サイト:日本神話・神社まとめより
  10. ^ 御座の伝説は三韓征伐の帰路に基づくものだが、三韓征伐のコースには程遠いが、鳥羽市の南側には新羅に関係する地名である白木があり、磯部町の隣、五ケ所から北方には、高麗広と言う集落があるなど、日本書紀でも持統天皇の時代の対外政策と、非常に縁の近い地域でもある
  11. ^ 沿岸流が少ないため、日光により温められた海水で冷えた海女の体を湯で温める様だと言う事から来ている。浜の西隣りの浜には地元の伝説で、ホオリトヨタマヒメが住んでいたとされている。ホオリ(山幸彦)の別名は「ヒコホホデミ」で、この行幸に絡み「ヤマト」を「日本」と変えられた神武天皇と同じである。
  12. ^ 中日新聞のギャラリーより志摩半島の北側では富士山の裾野まで見えるが、南側は、裾野が海に隠れる
  13. ^ 類似話が埼玉県入間市に伝わっており日照りの民話となっているまんが日本昔話データベース「三本足の烏」参照
  14. ^ コトバンクから
  15. ^ 万葉集の中に「長門」と「阿胡の海」を合わせた物がある。ところが米子浜にも長門の語源になった物と同じ海門(出口が見える洞窟)が存在している。
  16. ^ NHKでは、『美しき日本百の風景「茜(あかね)あざやか真珠の海~三重・奥志摩』(2003年1月25日BSハイビジョン放送)では、こちらの説を採用し米子浜も合わせて放送している
  17. ^ 古代の方位測定方法奈良文化研究所
  18. ^ 原文掲載サイト:日本神話・神社まとめより
  19. ^ この説を推しているのは大日本百科全書の「英虞」のページ記述と、後に修正された巻十五・3610番歌からである。但し、万葉集の原文では、巻一・44の漢字本文中に「阿胡」と記載されているため、「あみ」と読む「鳴呼見」は別の地と見るものが多い
  20. ^ 國學院大學『万葉新採百首解』より
  21. ^ 万葉集ナビより原文記載
  22. ^ 万葉集ナビより原文記載・柿本人麻呂の古歌とされる
  23. ^ wikiソースより抜粋
  24. ^ wikiソースより抜粋
  25. ^ 国府の海岸に連続する「阿児の松原」にはこの歌碑が設けられており、同地を詠んだものとして紹介している。