里見郷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2022年7月2日 (土) 15:51; IDCM (会話 | 投稿記録) による版 (漢字を開く(WP:KANAほか))(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

里見郷(さとみのさと)は、群馬県内の烏川流域の古称である。旧榛名町の烏川南岸、旧里見村 (群馬県)がこれに該当する。現在の高崎市榛名支所の上里見町中里見町下里見町上大島町に相当する。

贈鎮守府将軍新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)が上野国碓氷郡里見郷に移り、その地の名を苗字としたとの伝承もある。

地理[編集]

「里見郷」の由来[編集]

「里見村誌」によれば、「里見郷」の由来と伝承されているものは二つあるとしている。

  • 景行天皇26年頃(97年)、東国平定を終えて、日本武尊一行が吾嬬山から峰づたいに密林地帯を幾日も困難を極めた征旅を続け、今の里見連山の峰づたいに差し掛かった時、人家や田畑をはるか東方に見えたので思わず「小里見えたり」と一行大いに喜んだ。これを伝え聞いた里人は里を「里見」と称するようになった。
  • 豊城入彦命の子孫に「佐太の臣」と称する人があって、この地に居を構えた。その名「サタノオミ」が段々変って「サトミ」となった。

しかし、両説とも伝承の域を超えず、はっきりしない。おそらく「里見郷」の由来は、中世この地の地頭職であった里見氏から名づけられたものであるともいえるし、また里見に住して里見を名乗ったともいえると「里見村誌」は結論付けている。

歴史と伝承[編集]

以下、里見村の歴史は、里見村 (群馬県)の項

神社仏閣[編集]

奇祭[編集]

  • 八坂神社祭

上里見神山上町天王耕地に祀ってあった八坂神社で、祭神は、素戔嗚尊(スサノオ)で荒神である。 この祭りの日に樽神輿を造り、素戔嗚尊の化身となった十二歳から十五歳位の少年が全裸で町中を神輿をかつぎ巡り、大いに暴れまわって、仕舞いに烏川の難慶淵へかつぎ込み禊をする祭り行事があった。村人は素戔嗚尊の乱暴を止めてはならないという掟であったという。 明治8年に作られた八坂神社の幟があるので、その頃盛んに行なわれたようである。

  • 百八燈

上里見神山上町北裏の浄土山の本堂に、毎年8月16日の夜(盆の16日)百八の燈明を掲げ、祈祷をする行事で仏事である、雛壇の様に数段を作り、皿に灯油を入れ灯心を浸してこれに火を付けるので百八の燈明が一斉に輝く様は荘厳である。これは、祖先の霊に功徳を与え、己の百八煩悩を消滅し、村の豊作を祈願する祈祷と言われている。 ただし、翌朝まで火を絶やしてしまうことがあると、村に災害が起こるという口伝もあるため、村人は交代で寝ずの番をしたという。

遺跡遺物と文化財[編集]

  • 古墳 中里見町から丘陵地帯に60あまり点在する。
  • 里見城址(里見村大字下里見小字古城) 新田義貞を輩出した新田氏の流れを汲む里見義俊が居を構えた。
  • 雉郷城址(城山) 大字中里見緒の毛山頂 箕輪城上野長野氏に属し、永禄年間に武田信玄の上州攻略により激しく戦ったが落城、以後廃城となった。
  • 上里見城址(神山陣屋) 寛延元年(1748年)8月から明和4年(1767年)閏9月28日まで上里見藩が置かれた。
  • 廃寺址(以下、四寺)
  • 安養寺(現上大島公会堂) 新義真言宗。本尊は阿弥陀如来。明治23年の夏落雷により出火全焼した。
  • 万福寺(下里見字宮谷戸) 天台宗で光明寺末寺。本尊は大日如来
  • 竜門寺(上里見神山町南裏)上里見藩城主の菩提寺であったという。黄檗宗。本尊は観世音菩薩
  • 普門寺(上里見神山上町北裏) 示現山観音院普門寺という。天台宗で本尊は観世音菩薩。創立寛永6年(1629年)1月30日
  • 伊勢山の屋敷跡(上里見字伊勢山1583番地) 現状は畑。「伊勢山城址」とも呼ばれるが詳細不明。面積は約1000坪で、城跡とも常福寺が移転する前にあった場所とも言われているが、街道を下に見る位置で豪族の住居跡ともいわれている。
  • 神山三町の屋台 伝承では、寛延元年(1748年上里見藩が上里見神山三町に置かれ、城下町になったお祝いで山車(だし)を出すようになったのが起源であるという。山車は各町1台で計三台ある。
  • 中里見獅子舞 大干ばつの年、榛名神社(榛名大権現とも)に舞を奉納し雨乞すれば、村に帰りつく前に雨が振る霊験を顕したとされる。
  • 雨獅子(上神蕨平)この獅子舞を舞うとき、いつも途中から雨が降ることに由来するとされる。

伝説[編集]

  • 伝豊城入彦命の古墳
  • 豊城入彦命が、病を得て薨去されるや、崇神天皇はいたくその死を悲しまれ、せめてその遺体だけでも都へ運び、天皇の側近に葬りたいものと考えられて都から多数の人を遣わせて、命の遺体を都へ運ばした。
  • 上野の人民は、この地方開拓の恩人であり、威徳の高い命の遺体をこの地に葬り、長く懇ろにその霊を弔いたいと懇願したが、この切なる願いも入れられず、遺体は都へ運ばれていくので、ついに堪りかねた民衆は遺体を碓氷峠で奪い返し、本街道よりそれ、しかも朝日差し夕日輝く丘を選んで葬った。その地が里見郷の郷見神社裏山の古墳であるとするものである。
  • 新田義貞生誕の地

伝承では、新田義貞は里見氏五世忠義の子として生まれた。生まれた年は不明であるが正応元年(1288年)の間と推定されている。幼名を里見小五郎といったが宗家新田朝氏に子がなかったので、その養子となり小太郎義貞と改名したといわれている(「上野志」「新田正伝記」より) この伝承を元に明治23年8月、里見水戸之介が全国から浄財をつのり、光明寺(中里見)境内に「新田公旧里碑」を建設している。

参考文献[編集]

  • 群馬県碓氷郡里見村誌編纂委員会「里見村誌」(昭和30年1月31日)

関連項目[編集]