神風 (2代神風型駆逐艦)

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艦歴
発注 1918年度計画
起工 1921年12月15日
進水 1922年9月25日
就役 1922年12月28日
除籍 1945年10月5日
その後 1945年12月1日特別輸送艦指定
1946年6月7日擱座
1946年6月27日特別輸送艦指定解除
性能諸元
排水量 基準:1,270t
全長 102.6メートル
全幅 9.2メートル
吃水 2.9メートル
主缶 ロ号艦本式缶4基
主機 パーソンズ式オールギアードタービン2基2軸 38,500 SHP
最大速力 37.3ノット
航続距離 14ノット/3,600カイリ
乗員 154名
兵装 45口径12センチ単装砲×4基4門
53センチ魚雷連装発射管×3基6門

神風(かみかぜ)は、日本海軍駆逐艦神風型(2代目)の1番艦である。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。

艦歴

三菱長崎造船所で建造され、1922年12月28日に竣工した。当初の艦名は「第一駆逐艦」。1924年4月「第一号駆逐艦」に改称、1928年8月1日に「神風」と改名された。

竣工と同時に第1駆逐隊に編入され、1927年12月1日より第1駆逐隊は大湊要港部に所属して北洋警備に従事、太平洋戦争開戦後も千島厚岸方面哨区の哨戒にあたった。

1942年6月、アリューシャン作戦の支援に当たり、7月から千島東方海面哨区の哨戒に従事し、10月、アッツ島攻略作戦(第二次)に参加、11月から千島東方、津軽海峡方面で船団護衛に従事した。

1943年前半は宗谷海峡方面、北千島方面の船団護衛に従事し、6月から津軽海峡方面での船団護衛、8月から千島方面での船団護衛に従事した。1944年2月、函館で入渠整備、のち千島方面での作戦輸送、船団護衛に従事し、年末から大湊で入渠整備を実施した。

1945年1月10日、連合艦隊附属となり、門司から鎮海方面あるいは基隆間の船団護衛に従事し、2月に第4航空戦隊馬公からシンガポールまで護衛した。5月14日、アンダマン諸島輸送作戦のため重巡「羽黒」と共にシンガポールを出港、16日夜、ペナン沖海戦において被弾し戦死27名、重傷者14名の被害を受けたが、沈没した「羽黒」の乗員約320名を救助した。6月8日、ジャカルタ輸送の帰途、バンカ海峡で重巡「足柄」がイギリス海軍潜水艦トレンチャント」の雷撃を受け沈没し、その乗員のほぼ全員を救助しシンガポールに入港した。6月18日から仏印方面輸送に2回従事し、8月15日をシンガポールにおいて無傷で迎えた。

1945年10月5日、内地に帰投し除籍となり、12月1日に特別輸送艦の指定を受け復員輸送に従事した。1946年6月7日御前崎沖にて6月4日に擱座した海防艦「国後」を救出作業中に、自らも擱座し放棄された。1947年10月31日解体終了。

潜水艦ホークビルとの闘い

1945年7月中旬、春日均少佐(59期)が艦長として乗り組んだ神風は、シンガポールからハッチェンに向かう輸送船団の護衛任務についていた。7月18日昼過ぎ、船団が北緯04度10分 東経106度30分 / 北緯4.167度 東経106.500度 / 4.167; 106.500[1]マレー半島テンゴール岬沖に差し掛かったとき、アメリカ海軍潜水艦ホークビルが船団を発見し攻撃態勢に入ろうとした。神風の見張り員が右舷横2,000メートルにホークビルの潜望鏡を発見。19時を回って神風が攻撃態勢に入ろうとしたその時、ホークビルは艦首発射管から魚雷を6本発射した[2]。しかし魚雷は神風の両側を通過して命中せず、しかもそのうちの1本は異常な動き方をしていた[3]。20分後、神風がホークビルを探知して距離を詰めていったので、ホークビルは神風が800メートルに近寄ってきたところで魚雷を3本発射[4]。しかし、この攻撃も失敗し、1本は神風の左舷側わずか2メートルのところをかすめ去った[3]。ホークビルは神風の至近を潜望鏡深度で通過。神風からは手の届くほどの近さであった[3]。神風が爆雷攻撃を開始すると、有効弾がありホークビルは神風から200メートル離れた場所で艦首を海上に急角度で突き出した。神風はこの機を逃さず艦尾の40ミリ連装機銃[5]をホークビルに向けて発射。ホークビルのスキャンランド艦長も観念して5インチ砲による浮上砲戦を決しようとしていた[6]。しかし、間もなくホークビルの艦首は海中に没して、深度33メートルの海底に沈座した。神風は水面上に浮かんできた木片や油膜からホークビルをおおむね撃沈したものと判断し、19時過ぎまで探査と爆雷攻撃を繰り返した。この間、ホークビルでは神風が上部を通過するたびに「最後の時が来た」と腹をくくっていた[7]。やがて、神風は船団を追ってこの海域を去っていった。ホークビルは7月19日になってすぐに浮上したが[8]ジャイロコンパス、温度計、減速装置が破壊され、無線装置や音響兵器も使い物にならなくなった。ホークビルは哨戒を一旦中止し、スービック湾で修理を行った。スービック湾へ向かう途中、再び神風が護衛する輸送船団と遭遇したが、今度は何事もなかった[9]

戦後、神風の春日均艦長とホークビルのスキャンランド艦長は1953年以来[10]幾度か文通し、スキャンランド艦長は春日艦長を「最も熟練した駆逐艦艦長」[7]として称えた。これに対し春日艦長は「今思うと、沈めんでよかった。何かこれでほッとした気持です」と述懐した[11]


公試成績

状態 排水量(常備) 出力 速力 実施日 実施場所 備考
新造時 1,443トン 40,312馬力 38.67ノット 1922年(大正11年) 全力公試

歴代艦長

艤装員長

  1. 蒲田静三 少佐:1922年9月20日 -

艦長

  1. 蒲田静三 少佐:1922年12月28日 -
  2. 石川哲四郎 少佐:1924年2月5日 -
  3. 広岡正治 中佐:1924年3月10日 -
  4. 白石邦夫 少佐:1924年12月1日 -
  5. 原顕三郎 少佐:1925年12月1日 -
  6. 佐藤慶蔵 少佐:1926年12月1日 -(兼任のち専任)
  7. 村瀬頼治 少佐:1927年8月10日 -
  8. 小林徹理 中佐:1927年12月1日 -
  9. 帖佐敬吉 少佐:1928年5月28日 -
  10. 長尾惣助 中佐:1928年12月10日 -
  11. 平岡貞 中佐:1929年2月20日 -
  12. 久宗米次郎 少佐:1929年11月30日 -
  13. 伏見宮博義王 少佐:1930年12月1日 -
  14. 田村劉吉 少佐:1932年5月2日 -
  15. (兼)小林徹理 大佐:1933年4月1日 -
  16. 小野良二郎 少佐:1933年5月20日 -
  17. 山口捨次 少佐:1933年9月1日 -
  18. 谷井保 少佐:1935年10月31日 -
  19. 有本輝美智 少佐:1937年12月1日 -
  20. 高須賀修 少佐:1939年9月26日 -
  21. 橋本金松 少佐:1940年10月15日 -
  22. 松本正平 大尉:1942年4月10日 -
  23. 春日均 少佐:1943年10月18日 -

脚注

  1. ^ 『駆逐艦神風』133ページ
  2. ^ 「SS-366, USS HAWKBILL」p.190 、『駆逐艦神風』60ページ
  3. ^ a b c 『戦史叢書46』481ページ
  4. ^ 「SS-366, USS HAWKBILL」p.191 、『駆逐艦神風』61ページ
  5. ^ 『戦史叢書46』481ページ。開戦劈頭に鹵獲したボフォース 40mm機関砲を、この時期の神風に装備していたものと考えられる
  6. ^ 『駆逐艦神風』61ページ
  7. ^ a b 『駆逐艦神風』62ページ
  8. ^ 「SS-366, USS HAWKBILL」p.176 、『駆逐艦神風』62ページ
  9. ^ 「SS-366, USS HAWKBILL」p.177,188
  10. ^ 『駆逐艦神風』60ページ
  11. ^ 『駆逐艦神風』59ページ

参考資料

  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集18 駆逐艦 秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型』光人社、1997年。
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年
  • 駆逐艦神風編集委員会『駆逐艦神風』駆逐艦神風出版委員会、1980年
  • SS-366, USS HAWKBILL(issuuベータ版)