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物理的領域の因果的閉包性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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物理的領域の因果的閉包性(ぶつりてきりょういきのいんがてきへいほうせい、英:Causal closure of physics)とは、

  • 『どんな物理現象も物理現象のほかには一切の原因を持たない』とする説
  • 『どんな物理現象も物理現象のほかには一切の原因を持たない』という考え方

物理的閉鎖(英:physical closure)、物理的な閉鎖(英:closed under physics)などとも呼ばれる。

対立する概念、対立する説は因果的開放性(英:Causal openness)[1]である。

因果的閉鎖性と因果的開放性のテーマは、もともとは古くは自然哲学(哲学)、その後科学哲学の領域で扱われていたものである。

近年心の哲学という哲学の一分科では、心の因果作用(この世界において意識やクオリアが持つ因果的な能力、すなわちほかのものの原因となることが出来る能力、言い換えれば意識やクオリアが諸現象の因果連鎖の網の目の中でとるポジション)について議論するさいに、相互作用説をとる二元論への反論として提示されている。

歴史

古くは自然哲学の原子論の領域において、このテーマを巡る考察があった。 デモクリトスの唱えた原子論ではクリナーメンという、偶然的な要素を説に組み込んでいた。イスラームの原子論においては、「偶有(arad)」ということを想定していた。

自然哲学、科学哲学における位置付け

物理的領域の因果的閉包性は、「物理現象の原因としては物理現象だけを考えれば十分で、それ以外の要素について考える必要がない」と言い換えることも出来る。[要出典]例えば物理的領域の因果的閉包性が「明らかに破れているような世界」の一例を紹介してみると、次のような世界である。

  • 普段は物理法則に従って物事が淡々と進んでいる。しかし、時々さまが介入して奇跡を起こしていく、そんな世界[要出典]

時々起こる「奇跡」はその原因として物理現象以外のもの(神さまの介入)を持つため、こうした世界では物理的領域の因果的閉包性は成立していない。

物理的なものが、厳密な意味で因果的に閉じているのか、という点については、哲学上まだ多くの論点が存在する。量子力学における確率過程の問題から、因果性に関するヒュームの懐疑や、時間(マクダカート)といったものの実在性に対する問題に至るまで、その範囲は多岐にわたる。

科学哲学者のカール・ポパーも、1956年の著書THE OPEN UNIVERSEにおいて、「宇宙というのは一部には因果的であり、一部には確率的であり、そして一部には開かれている」と述べ、因果の閉包性を否定した[2]

とはいえ、現代の科学(特に物理学)では物理的領域の因果的閉包性は基本的な前提とされており、あえてこうした閉包性の問題が議論されること自体が稀である。[要出典]

心の哲学における用例

因果的閉包性の概念に注目しているのは、哲学の一分科である心の哲学である。この理由は、次のような問題、例えば「心的なものは物理的なものに対して影響を与えることができるのか」といった問題を論じようとすると、必ず物理的領域の因果的閉包性の話が浮かび上がってくるためだ[要出典]という。

心の哲学における歴史

デカルトに代表される実体二元論においては、物的なものと心的なものという本質的に異なる二種類のものがこの世に存在すると考えた。そしてこの両者は何らかの形で相互作用するとした。 しかしながらニュートンに始まった機械論的な世界観は、多くの人々の間に物理現象は因果的に閉じているに違いない、という考えを広め、これが随伴現象説を生み出す土壌を形作った[要出典]、という。

その後 機械論的な見方は惑星や落体といった一部の物質だけに留まらず、自然現象一般に広くその適用範囲を広げていった。特に20世紀後半ごろから急速に発展した神経科学の莫大な発見の積み重ねから、脳に至ってもやはり、その振る舞いを原子や分子の機械的な挙動の結果として説明できる、とするようになった。これにより心的な性質として理解されていた様々な人間の行動(運動、発話、表情、判断など)も物理的な領域の現象として脳の物質的な要素から説明されることが一般的になり、人間を一種の自動機械(オートマトン)として捉える考え方が非常に根強いものとなる。これにより心的なものは全て物理的なものに還元できるに違いない、という考えが一時隆盛を極めることとなった。

しかしその後 心的な性質のうち、現象的意識、クオリアなどといわれる主観的な体験については、物理領域に単純に還元することが難しいのではないか、という問題が、心の哲学の研究者たちを中心に数多く提出されるようになった。

因果的閉包性の概念は、現在では、こうした心の哲学の分野で、意識やクオリアの自然界での位置づけの議論、『物理現象はそれだけで因果的に閉じているように見えるが、そうすると意識やクオリアの居場所はどこにあるのか[要出典]』、といった議論を行なう際に使用されるようになっている。

心の因果的締め出し

物理的領域の因果的閉包性を前提にした上で、意識やクオリアの位置づけを探った場合、最もシンプルな解答として随伴現象説が帰結する[要出典]。実際、現在の神経科学者の多くも、「物質としての脳」と「主観的体験としてのクオリア」の間の関係を、随伴現象説的な立場から捉えている事が多い(例えばエーデルマンダイナミック・コア仮説トノーニ情報統合理論など)。

随伴現象説では意識やクオリアといった主観的体験は、物理現象に対して何の因果作用ももたないとする(すなわち主観的体験が物理現象の原因となることはない、ということ)。この立場から見ると主観的体験のポジションは、閉じた物理領域に対して、宙ぶらりんな格好になる。そのため随伴現象説における心的なものは、物理現象にぶら下がっているだけの付属物、という意味で因果的提灯(いんがてきちょうちん)と呼ばれることもある。

しかし現象意識やクオリアを、物理状態になんの因果作用も引き起こさない随伴現象として位置づけると、そこからはある種のパラドックスが引き起こされる。それは現象意識やクオリアに関して脳が行なっている判断や報告には現象意識やクオリア自体は因果的に一切関わっていないことになる、という問題である。この問題は現象判断のパラドックスと呼ばれている。

出典

  1. ^ カール・ポパー『開かれた宇宙 非決定論の擁護』岩波書店、1999年、p.169(Karl R.Popper, THE OPEN UNIVERSE:An Argument for Indeterminism, (1956))など
  2. ^ カール・ポパー『開かれた宇宙 非決定論の擁護』岩波書店、1999年、p.169(Karl R.Popper, THE OPEN UNIVERSE:An Argument for Indeterminism, (1956))

参考文献

関連文献

日本語のオープンアクセス文献

関連項目

外部リンク