松本安市

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松本安市
基本情報
ラテン文字 Yasuichi Matsumoto
日本の旗 日本
出生地 福岡県久留米市
生年月日 (1918-05-15) 1918年5月15日
没年月日 1996年????
身長 184~185cm
体重 97~100kg強
選手情報
階級 男子
所属 天理大学
段位 八段
引退 1956年
2013年12月18日現在
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松本 安市(まつもと やすいち、1918年大正7年)5月15日 - 1996年平成8年))は、日本柔道家段位は8段[1]

昭和天覧試合1940年)準優勝者、第1回全日本柔道選手権大会1948年)優勝者であり、後に天理大学や1964年東京オリンピック柔道日本代表の監督を務めた。

経歴

現役時代

福岡県久留米市に生まれる。福岡県中学明善校入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動ではバレーボール部に所属[1]。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった[1]

1937年4月武道専門学校に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して結核を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる[注釈 1]。10カ月後に再2年生として復帰すると、一心不乱に柔道に打ち込んで阿部謙四郎らに鍛えられたほか[2]大外刈の打ち込みでの木を枯らすほどの鍛錬を重ねた[注釈 2]。その甲斐もあり、復帰後の1940年には昭和天覧試合(府県選士の部)に出場して準優勝という成績を残し、同年の第1回全日本学生柔道選手権では栄えある初代チャンピオンに輝いた。

1948年全日本選手権を制した松本(上)

1941年になっても勢いは衰えず、4月に現在の全日本選手権の前身となる日本選士権(一般の部)、6月に全国選抜選手権と立て続けに制し、柔道界においてその地位を不動のものとした。その後1944年にも全日本選士権で優勝[1]

終戦後は福岡県警察に属し、福岡県柔道協会の結成を記念して1947年7月1日に開催された西日本柔道選手権大会では個人戦・団体戦に出場。個人戦の決勝リーグでは木村政彦5段(熊本)と吉松義彦5段(鹿児島)との三つ巴戦になり、木村には延長2回の末に判定で敗れ、吉松には延長戦で縦四方固に抑え込まれ一本負けを喫して優勝を逃すも(優勝は一本背負投で吉松を宙に舞わせた木村)[3]、団体戦では福岡県の優勝に貢献した[3]

1948年5月2日に開催された第1回全日本選手権では、準決勝で吉松義彦6段を破り、決勝では武専の先輩にあたる伊藤徳治6段を延長3回の末に判定で破り優勝を飾った。翌49年には全国警察選手権で優勝。

全日本選手権にはその後1953年の第6回大会まで続けて出場するも、1949年は初戦で伊藤徳治7段に、1950年は3回戦で石川隆彦7段に、1951年は3回戦で醍醐敏郎7段に、1952年は3回戦で山本博6段に、1953年は4回戦で吉松義彦7段にそれぞれ敗れ、2度目の優勝はならなかった(段位はいずれも当時、また1952年は棄権負)。

1956年第1回世界選手権の代表決定戦に38歳で出場し、吉松義彦に敗れて引退。永い現役生活を送ったが、選手として最も脂ののる20歳代半ばの時代を戦争・兵役で迎えた事は、松本にとって不運であったと言える。

指導者として

1953年天理大学柔道部設立と共に初代師範に就任。3年目には同大学を全日本学生優勝大会で優勝に導いたほか、アントン・ヘーシンクや出稽古に来ていたウィレム・ルスカらを、体で覚えさせる、いわゆるスパルタ教育で指導し、後の世界チャンピオンにまで育て上げた。1958年7月には全日本学生優勝大会の際に審判に暴行を働いたとして、全日本学生柔道連盟役員の座から追放されるとともに、当面の活動を禁じられる事になった[4]1961年世界選手権の優勝者をヘーシンクと予測し当時の全日本柔道連盟の強化委員長を激怒させたほか[5]1972年ミュンヘンオリンピックでも優勝者をルスカと予測しまたも的中させるなど、指導者としての目も確かだったようである。なお、1964年東京オリンピックでは柔道日本代表の監督も務め、コーチの曽根康治と共に、日本選手団を4階級のうち無差別を除く3階級で金メダルに導いている[注釈 3]

天理大学では二宮和弘野村豊和藤猪省太ら後の世界チャンピオンを輩出し、その後国際武道大学東海大学福岡工業大学でも柔道部師範として後進の指導に当たった。

現在、福岡県宗像市の複合スポーツ施設グローバルアリーナには、松本の功績を記念した柔道場「松本安市記念道場」が設けられ、道場脇にある展示スペースでは松本の年譜や功績等を紹介している。

人物

現役当時の身長184~185cm、体重97~100kg強[注釈 4]

得意技は大外刈で、相手の体重や状況等に使い分けられるよう、5種類の大外刈を持っていたという [6]。試合結果を見ても、勝利の90%が大外刈によるものである[1]

試合となると常に激しい気迫を露(あらわ)にするスタイルで、特に1歳年長の木村政彦との試合は異常なまでに闘志を燃やした。当時の木村は、試合場に上がった途端に会場が静まり返る程の強さで、相手選手の間では「木村相手に何分もつか」が己の力量を測る1つの手段であった時代であり[7]、そのような中で臆する事なく木村に挑み続けた唯一の柔道家が松本であった。この事は木村自身も、木村の師である牛島辰熊も認めている[8]1948年3月15日に行われた全関西と全九州との対抗戦(新生柔道大会)個人戦・決勝にて、50分以上の激闘の末に木村の飛び関節の腕挫で右腕を折られ、唇が避けて流血しながら、それでも木村に決戦を挑み終に審判により痛み分け(引き分け)を宣せられた試合が有名である[注釈 5]

エピソード

福岡市警察署に勤務していた頃は、ヤクザの取締担当だった。剽悍な連中が多い事で知られる福岡のヤクザも、松本の名が出ると羊のように大人しくなったそうである[8]

1969年の世界選手権の直前に渡米した日本代表選手が何も知らずに密輸の片棒を担がされている事を、選手団に同行していた松本の知る所となった。メキシコ空港で密輸物(腕時計)を受け取りに来たヤクザ連中に対し松本は「貴様らはそれでも日本人か! 恥を知れ!」と閻魔の如き形相で説教し、ヤクザは這う這う(ほうほう)の体で逃げ去ったという逸話が残っている[8]

脚注

注釈

  1. ^ 松本曰く「故里では枕を濡らす日々が続いたが、一方で柔道人生の開眼ともなった」との事。
  2. ^ 後のライバルとなる木村政彦も、得意技の一本背負投の打ち込みで木を枯らしている。
  3. ^ なお、無差別を制したヘーシンクは、松本に育てられて獲得した金メダルという意味を込めて、この時のメダルを「日本の四つ目の金メダル」と語っている。
  4. ^ ただし松本は雑誌『近代柔道』のインタビューで、自身の事を「全盛期は身長は187cm、体重81kgで、電信柱のごとき」と表現している。
  5. ^ ただし松本は後に、木村と同体で場外に落ちた際に落ちた机の足が折れ「ボキっ」と音がしただけで、自身の腕は折れていなかったと語っている。

出典

  1. ^ a b c d e 松本安市 (1981年4月20日). “わたしの得意技 –松本安市8段 私の上達法-”. 近代柔道(1981年4月号) (ベースボール・マガジン社) 
  2. ^ 白崎秀雄 (1987年1月). 当世畸人伝 (新潮社) 
  3. ^ a b 福山大樹 (1979年11月20日). “名選手ものがたり -8段 松本安市の巻-”. 近代柔道(1979年11月号)、61頁 (ベースボール・マガジン社) 
  4. ^ “天理大柔道チームの松本監督に処分”. 毎日新聞、7面 (毎日新聞社). (1958年7月15日) 
  5. ^ 世界柔道を100倍楽しむためのコラム -第16回 柔道界の内外から見たヘーシンクVSルスカ最強論争-(フジテレビ)
  6. ^ 佐藤宣践 (1999年). “松本安市「打倒・木村に燃えた第1回全日本覇者」”. 体型別技の大百科 第2巻 大外刈・内股・払腰 (ベースボールマガジン社) 
  7. ^ 大山倍達に帰れ!』(メディアエイト)
  8. ^ a b c 今村春夫 (2006年2月20日). “続・柔道一路 番外編”. 近代柔道(2006年2月号) (ベースボール・マガジン社)