戸井田徹
前衆議院議員 戸井田 徹 | |
---|---|
生年月日 | 1951年11月25日(72歳) |
出身地 | 中華人民共和国河南省 |
出身校 | 獨協大学 |
学位・資格 | 法学士 |
前職 | 厚生大臣秘書官 |
所属委員会 | 内閣府大臣政務官(安倍改造内閣) |
世襲 |
2世 父・戸井田三郎(衆議院議員) |
選出選挙区 | 兵庫県第11区 |
当選回数 | 2回 |
所属党派 | 自由民主党(額賀派) |
党役職 | - |
会館部屋番号 | 衆・第一議員会館325号室 |
ウェブサイト | 戸井田とおるのホームページ |
戸井田 徹(といだ とおる、1951年11月25日 - )は日本の政治家。自由民主党・平成研究会(額賀派)所属の前衆議院議員(当選2回)。中華人民共和国・河南省生まれ(本籍地は兵庫県姫路市)。自身のウェブサイトや著作では戸井田とおる名義を使っており、首相官邸ホームページでもそのように記載されている。
来歴
- 獨協中学校・高等学校、獨協大学法学部法律学科卒業。父は元厚生大臣の戸井田三郎。同氏は初陣では株式会社第一工業、東亜広告株式会社、関西機械工業(現カンキ)の三社が選挙資金を提供し先代清瀬一郎元衆議院議長の弔い合戦に後継者が乱立する中当選を果たしている。その後は、株式会社カンキ(神戸市須磨区外浜町)の役員であり役員報酬、トヨタ・センチュリー、カンキの株式の提供を受けていたが、他の2社とは戸井田徹時代になり疎遠になり、このようなケースが進みおのずと資金力も低下していった。
- 1996年の第41回衆議院議員総選挙において、兵庫県第11区より立候補を届け出て既に政見放送の収録も終えていた父・三郎の急逝に伴い補充立候補をし、弔い選挙の様相を見せて初当選をする。2000年・2003年の総選挙ではいずれも民主党公認の松本剛明に敗れ落選。本来ならば自民党の規定により候補者差し替えの対象とされるはずであったが、2005年の解散総選挙で候補者選定が間に合わず前回に引き続き出馬、小選挙区当選により国政に復帰した。
- 安倍改造内閣では、内閣府大臣政務官に就任。福田内閣でも留任。
- 「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の南京問題小委員会委員長、「正論」などに南京大虐殺は虚構だとする論文を書いている。映画「南京の真実」の賛同者でもある。また、旧日本軍が戦後中国に遺棄したと中国政府が主張している化学兵器処理問題では、国会での質問で戦後合法的に中国側に引き渡していると主張。この模様はフジテレビ『ニュースJAPAN』でも取り上げられた。
- 2007年9月の安倍改造内閣崩壊に伴う2007年自由民主党総裁選挙ではいち早く麻生太郎自民党幹事長を支持、推薦人に名を連ねる。
- また、女系天皇即位容認を柱とした皇室典範改正問題が浮上した際には反対派の急先鋒として動いた。
- 2008年の元旦には靖国神社を参拝している。
- 2008年に入り上程への動きが再浮上した人権擁護法案に対し強い懸念を持っており、同年3月10日には憲政記念館で同法案に対する反対集会を開催した。
- 2008年8月、福田康夫改造内閣において厚生労働大臣政務官に就任。
- 2009年6月、鳩山邦夫総務大臣の更迭に抗議して厚生労働大臣政務官を辞任。戸井田は鳩山の側近として知られる。ただこの辞任劇には、05年の郵政選挙で郵政民営化を前面に押し出し選挙戦を戦った経緯から批判が続出。自身のブログにも批判的な書き込みが相次いでいた。
- 2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に自由民主党から出馬。公明党の推薦も受けたが、5度目の対決となった松本に敗れ、比例代表でも届かず落選[1]。総選挙において大差で落選した為、公認獲得は困難であったが、戸井田は脳梗塞・脳卒中がその後悪化、政界からの引退を表明した[2]。
所属議員連盟
関係団体
- 中国留日同学会(日本に留学経験のある中国人有識者の親睦団体) - 顧問
- 日中科学技術文化センター(科学技術協力や中国人研修生の日本受け入れを推進している団体) - 理事
- パチンコチェーンストア協会 - 政治分野アドバイザー
脚注
- ^ 比例貢献が基準?公明が自民92候補を推薦(2009年7月30日20時25分 読売新聞)
- ^ 戸井田徹氏:元厚労政務官、政界引退 健康問題理由に /兵庫 毎日新聞,2011年1月14日
関連項目
外部リンク
- 戸井田とおるのホームページ
- 丸坊主日記 公式ブログ