慶長地震

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大岩慶長宝永碑、慶長津波(中央)および宝永津波(右)の教訓が刻まれる。徳島県海陽町鞆浦。

慶長大地震(けいちょうおおじしん)は、1605年2月3日慶長9年12月16日)に起こった地震である。発生場所は駿河湾から徳島沖まで伸びる南海トラフで、マグニチュード8前後と推定される。津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、地震による陸地の揺れが小さいのが特徴である。また震源や被害規模もはっきりしていない。

以上のことから津波を想起させる大きな地震動が発生しない津波地震であったとされ、同様の地震が将来発生した場合に避難が遅れ大きな被害が出る可能性があり、問題となっている。

概要

震源は徳島県沖と房総沖の2ヶ所と見られる。徳島県宍喰では予兆と見られる大地震が朝8時頃から午後3時くらいまで続き、井戸が干上がったとされるが、京都で小さい地震の記録(『当代記』)が1件あるだけで、後に津波被害を受ける地域の地震記録は少ない。震害としては淡路島安坂村の千光寺の諸堂が倒壊、仏像が飛散した記録がある[1]

津波は夕方から夜にかけて、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せた。

原因

南海トラフの地震であることは確定しているが、駿河トラフなどへどこまで連動したかは不明である。古記録を基にした津波の数値実験から東海沖と房総沖の相模トラフ沿いの二つの断層による波源域を仮定する説があり、房総沖の断層は地震モーメントM0 = 5.3×1021N・m (Mw = 8.4)、東海沖はM0 = 6,4×1021N・m (Mw = 8.5)と推定しているが、歴史記録が乏しく近似の程度は余り良くないとされる[2][3][4]。但し、この断層モデルには南海道沖の震源域は含まれていない。

東京大学の古村孝志教授はプレート境界の浅い地域の地震だったとしているほか、名古屋大学安藤雅孝メタンハイドレートの介在の可能性を指摘している。

防災

従来想定されている南海トラフ沿いの地震とはメカニズムが異なるため、将来の活動は予測できていない。津波地震という性質のため、三陸津波チリ地震津波などと同じく、予兆なく津波が襲来した場合の被害は想定以上のものとなる可能性もある。

参考資料

脚注

  1. ^ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店
  2. ^ 相田勇(1981):東海道沖に起こった歴史津波の数値実験, 東京大学地震研究所彙報, 56, 367-390.
  3. ^ 佐藤良輔、阿部勝征、岡田義光、島崎邦彦、鈴木保典『日本の地震断層パラメーター・ハンドブック』鹿島出版会、1989年
  4. ^ 力武常次 『固体地球科学入門』 共立出版、1994年

関連項目