慶光院俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。常熊存翁 (会話 | 投稿記録) による 2022年5月11日 (水) 11:00個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (加筆・修正。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
慶光院 俊
時代 昭和時代 - 平成時代
生誕 (1903-03-12) 1903年3月12日[1]
日本の旗 日本三重県伊勢市
死没 (1990-03-20) 1990年3月20日(87歳没)[2]
日本の旗 日本、三重県伊勢市
主君 昭和天皇上皇
氏族 慶光院家
父母 父:慶光院利敬、母:清水ウタ
兄弟 利彰
配偶者 慶光院澄江(饗庭光寿三女)
親戚 二条斉敬(祖父)
二条正麿(伯父)
二条弼基(従弟、神宮大宮司)
慶光院利致(甥、霧島神宮宮司)[3]
奉職神社 伊勢神宮
テンプレートを表示

慶光院 俊(けいこういん しゅん)は、昭和時代から平成時代にかけての日本神職伊勢神宮大宮司

生涯

庶子に生まれて

1903年明治36年)、三重県に生まれた[1]。生母は京都府士族籍の女性清水ウタである[4]慶光院家伊勢神宮式年遷宮再興に尽力した慶光院院主遺跡を継いだ慶光院盈子が維新後に興した家である。父・利敬が二条斉敬の息子であることから[5]、俊は鎌足の直男系男子孫にあたる[注釈 1]。俊は、利敬の最初の息子ではあったが庶子であったため家督を継ぐことは無く、のちに分家する[4]

1916年大正5年)、三重県立第四中学校に入学[6]。同級生にはのちに日本を代表する映画監督となる小津安二郎がいた[6]1927年昭和2年)3月、神宮皇学館第1本科を卒業した[1][7]

東照宮祠官時代

神宮皇学館卒業後、同年中に日光東照宮に赴任し[8]、翌1928年(昭和3年)には同宮主典に任じられた[1]。数年後、同級生の小津から「俺、今度撮影するんだが陽明門の前でやらせろ」(井上和男編著 1993, p. 116)と言われ、開門前に『お嬢さん』のワンシーンを撮影させた[9]。開門時間以外に人を入れるのは規則違反であったが[10]、「東照宮の宣伝」という解釈を以て、藤巻正之宮司からは少し叱られたのみであった[11]

諸社を転任して

1937年(昭和12年)、鶴岡八幡宮禰宜に就任した[1]1938年(昭和13年)4月16日熱田神宮権宮司に任じられ[1][12][注釈 2]5月16日には初めての叙位として正七位に叙された[13]

1941年(昭和16年)8月2日愛知縣護國神社社司を兼任した[14]1942年(昭和17年)3月19日、熱田神宮権宮司・愛知縣護國神社社司から結城神社宮司へ転任した[15][16][注釈 3]

神宮祠官として

神宮禰宜

1944年(昭和19年)、伊勢神宮禰宜に転任し[1]高等官六等に叙された[17]。さらに1946年(昭和21年)1月には高等官五等に陞叙した[17]神宮司庁に於いては、同年2月3日に文化課長に就任した[18][注釈 4]1956年(昭和31年)6月には秘書課長に就任[20][注釈 5]、のち秘書部長に昇進した[20]

神宮禰宜を務める傍ら、皇学館再興にも尽力した。1946年(昭和21年)11月16日、五十鈴会の常任理事に就任した[22]

1962年(昭和37年)1月10日、皇學館後援会三重県本部結成総会が神宮祭主職舎(旧慶光院)で開かれ、俊も禰宜として櫻井勝之進禰宜と共に出席した[23]。同年3月23日には学校法人理事・教授初顔合会が開かれ、これには常任理事として出席した[24]

1963年(昭和38年)6月1日、同年4月に開校した皇學館高等学校の保護者会が結成され、その初代会長に就任した[25]1964年(昭和39年)5月17日、保護者総会にて慶光院会長が再任し[26]1965年(昭和40年)5月15日の総会でも会長職に留任することが決定した[27]

1971年(昭和46年)12月24日、学校法人皇學館大学常任理事に就任した[28]

神宮少宮司

慶光院・二条関係系図
 
 
二条斉敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二条正麿
 
慶光院利敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二条弼基
 
慶光院俊
実父・実子を優先した。

1974年(昭和49年)5月31日、父・利敬の言わば極官であった伊勢神宮少宮司に任じられ、神社本庁理事となった[1][20][29]6月5日、前任の田中喜芳と共に宮殿「鳳凰の間」で昭和天皇に拝謁した[30]。昭和天皇へは同年11月8日の式年遷宮後の神宮参拝や、翌1975年(昭和50年)10月25日の訪米帰国奉告参拝の際にも、徳川宗敬大宮司と共に拝謁した[31]

1976年(昭和51年)3月2日、徳川大宮司が退任し、二条弼基が後任の大宮司に就任した[32]。俊は二条大宮司の従兄に当たり、大少宮司を従兄弟同士が務めることになった(関係系図を参照)。

このとき皇學館大学は、1982年(昭和57年)に創立百周年を迎えるため、それに関連する諸事業が行われていた。創立百周年記念刊行物『神宮古典籍影印叢刊』に於いては、二条大宮司と共に顧問に名を連ねた[33]。また、1980年(昭和55年)7月7日の創立百周年記念講堂地鎮祭に来賓として二条大宮司と共に出席した[34]

1981年(昭和56年)2月、50年以上の長きに亘る神明奉仕の功労を以て、神社本庁長老の称号と鳩杖を贈られた[1][20]

1985年(昭和60年)6月24日、二条大宮司に代わって勅使参向の神社宮司33名と共に昭和天皇に拝謁した[35]8月28日、二条大宮司は帰幽した[36]

また、少宮司時代には一色神社の社名額を揮毫した[37]

神宮大宮司

1985年(昭和60年)10月7日、推薦の上申を昭和天皇が承認したことにより、俊は神社本庁理事を辞して伊勢神宮大宮司に昇任した[1][20][36][38][注釈 6]。神宮に於いて少宮司から大宮司への昇進は異例のことであった[20]。以降毎年6月には、大宮司として勅使参向の神社宮司33名と共に昭和天皇に拝謁した[注釈 7]

1987年(昭和62年)には、青森市にある善知鳥神社の正遷座1180年祭を記念して、特に取り計らって神宮楽部に「善知鳥舞(うとうまい)」を制作させたが、これは青森の永久の安寧を願い、善知鳥(うとう)という鳥の親子の情愛を表現した舞である[43]

1988年(昭和63年)4月、腸部疾患により入院し手術、一時恢復した[20]10月27日、大宮司として健康上の理由による鷹司和子神宮祭主の退任と池田厚子の新神宮祭主奉戴を申し出た[44]。翌10月28日、昭和天皇は体調を崩していた中でこれを承認し、同日池田厚子が祭主に就任した[44]

1989年(平成元年)11月3日、病体に鞭打って宇治橋渡始式に奉仕したが、再び入院することになった[20]

1990年平成2年)3月12日午前1時50分、入院先の日本赤十字社山田病院にて、大宮司在任中のまま87歳で帰幽した[2][20]。家族で密葬が行われたのち、4月24日細川護貞神社本庁統理が葬儀委員長となり、三重県営体育館にて神宮司庁葬が斎行された[2][20]

後任の大宮司には久邇邦昭5月15日に就任し[45]、俊が祖先と同じように準備に取り組んでいた第61回神宮式年遷宮1993年(平成5年)に斎行した。

慶光院俊奨学金

俊の一年祭終了後、妻の澄江が皇學館大学に寄付金を贈った[20]。これを基金として1992年(平成4年)4月1日、「慶光院俊奨学金(けいこういんしゅんしょうがくきん)」が創設されたが、これは神職課程履修者中の優秀者の3年生および4年生の各1名に対して、年額10万円の給付を行うものである[46][47]

2016年(平成28年)12月には皇室制度史学者の辻󠄀博仁が受賞した[48]

人物

  • 趣味はスポーツである[1]
  • 豚捨が経営する「若柳」の名は、俊がこれを与えたという[3]

栄典

位階

脚注

注釈

  1. ^ 系譜としては、藤原鎌足不比等房前真楯内麻呂冬嗣長良基経忠平師輔兼家道長頼通師実師通忠実忠通九条兼実良経道家二条良実兼基道平良基師嗣持基持通政嗣尚基尹房晴良鷹司信房信尚教平九条兼晴輔実幸教二条宗基治孝斉信斉敬慶光院利敬と続く。すなわち俊は鎌足の42世にあたる。
  2. ^ 前任の熱田権宮司杉村馨は、豊榮神社・野田神社の宮司となった[12]
  3. ^ 同日、空席となった熱田神宮権宮司および愛知縣護國神社社司には、篠田康雄が就任した[15][16]。篠田はのちに熱田神宮宮司も務める。
  4. ^ 退任日は不詳だが1947年(昭和22年)5月段階ではまだこの役職に就いていることが分かる[19]
  5. ^ 退任日は不詳だが1959年(昭和34年)7月から1961年(昭和36年)11月の間はこの役職に就いていることが分かる[21]
  6. ^ 後任の少宮司には神宮教学研究員の幡掛正浩クボタ社長幡掛大輔の父)が10月11日に任命され[36]、同日午後に俊と幡掛は宮殿「鳳凰の間」で昭和天皇に拝謁した[39]
  7. ^ 1986年(昭和61年)6月10日[40]1987年(昭和62年)6月9日[41]1988年(昭和63年)6月7日[42]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 神社新報社編 1986, p. 432.
  2. ^ a b c 神宮司庁編 2005, p. 273.
  3. ^ a b 江戸東京野菜通信 2014.
  4. ^ a b 人事興信所編 1931, p. ケ1.
  5. ^ 霞会館 1996, p. 319.
  6. ^ a b 井上和男編著 1993, p. 112.
  7. ^ 館史編纂委員会 2013, p. 1067.
  8. ^ 井上和男編著 1993, p. 116.
  9. ^ 井上和男編著 1993, p. 117.
  10. ^ 井上和男編著 1993, pp. 116–117.
  11. ^ 井上和男編著 1993, pp. 117–118.
  12. ^ a b 『官報』第3385号, p. 699.
  13. ^ a b 『官報』第3426号, p. 295.
  14. ^ 岩本典三郎 2001, p. 46.
  15. ^ a b 『官報』第4557号, p. 588.
  16. ^ a b 岩本典三郎 2001, p. 53.
  17. ^ a b 藤本頼生 2016, p. 37.
  18. ^ 藤本頼生 2016, pp. 37–38.
  19. ^ 館史編纂委員会 2014a, p. 926.
  20. ^ a b c d e f g h i j k 藤本頼生 2016, p. 38.
  21. ^ 館史編纂委員会 2014a, p. 1138, 1251.
  22. ^ 館史編纂委員会 2012, p. 223.
  23. ^ 館史編纂委員会 2014a, p. 1280.
  24. ^ 館史編纂委員会 2014a, p. 1313.
  25. ^ 館史編纂委員会 2012, p. 657.
  26. ^ 館史編纂委員会 2012, p. 661.
  27. ^ 館史編纂委員会 2012, p. 664.
  28. ^ 館史編纂委員会 2012, p. 396.
  29. ^ 神宮司庁編 2005, p. 265.
  30. ^ 宮内庁 2018a, p. 63.
  31. ^ 宮内庁 2018a, p. 124, 344.
  32. ^ 神宮司庁編 2005, p. 266.
  33. ^ 館史編纂委員会 2014b, p. 781.
  34. ^ 館史編纂委員会 2014b, p. 616.
  35. ^ 宮内庁 2018b, p. 212.
  36. ^ a b c 神宮司庁編 2005, p. 270.
  37. ^ 神宮巡々 2011.
  38. ^ 宮内庁 2018b, p. 252.
  39. ^ 宮内庁 2018b, p. 254.
  40. ^ 宮内庁 2018b, p. 355.
  41. ^ 宮内庁 2018b, p. 490.
  42. ^ 宮内庁 2018b, p. 614.
  43. ^ 善知鳥神社 2020.
  44. ^ a b 宮内庁 2018b, p. 676.
  45. ^ 神宮司庁編 2005, p. 274.
  46. ^ 館史編纂委員会 2012, p. 796–797.
  47. ^ 館史編纂委員会 2014c, p. 386.
  48. ^ 辻󠄀博仁, 受賞.

参考文献

書籍
  • 人事興信所編『人事興信録』(9版)人事興信所、1931年。 
  • 神社新報社編『神道人名辞典』神社新報社、1986年。ISBN 4-915265-56-0 
  • 井上和男編著「中学時代の同窓生、奥山正次郎・慶光院俊・中井助三」『陽のあたる家:小津安二郎とともに』フィルムアート社、1993年、112-126頁。 
  • 霞会館平成新修旧華族家系大成』 下巻、吉川弘文館、1996年。 
  • 岩本典三郎『補訂愛知縣護國神社年表』愛知縣護國神社〈旌忠叢書6〉、2001年。 
  • 神宮司庁編『神宮史年表』戎光祥出版、2005年。ISBN 978-4-90090-151-3 
  • 館史編纂委員会『皇學館大学百三十年史:総説篇』学校法人皇學館、2012年。 
  • 館史編纂委員会『皇學館大学百三十年史:資料篇一』学校法人皇學館、2013年。 
  • 館史編纂委員会『皇學館大学百三十年史:資料篇二』学校法人皇學館、2014年3月31日。 
  • 館史編纂委員会『皇學館大学百三十年史:資料篇三』学校法人皇學館、2014年3月31日。 
  • 館史編纂委員会『皇學館大学百三十年史:年表篇・写真篇』学校法人皇學館、2014年12月25日。 
  • 藤本頼生 著「慶光院俊」、神社新報社編 編『戦後神道界の羣像』神社新報社、2016年、37-38頁。ISBN 978-4-908128-09-7 
  • 宮内庁『昭和天皇実録』 第十六、東京書籍、2018年3月30日。ISBN 978-4-487-74416-9 
  • 宮内庁『昭和天皇実録』 第十八、東京書籍、2018年3月30日。ISBN 978-4-487-74418-3 
官報
  • 『官報』 第3385号、1938年4月18日。 
  • 『官報』 第3426号、1938年6月7日。 
  • 『官報』 第4557号、1942年3月20日。 
ウェブサイト