田中頼庸

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田中 頼庸(たなか よりつね、1836年天保7年)5月 - 1897年明治30年)4月10日)は、幕末から明治時代の神道家国学者薩摩藩士である。通称は藤八。号は雲岫又は梅屋。

経歴・人物[編集]

大山綱良を叔父に持つ薩摩藩の一家に生まれる。幼年の頃に薩摩藩士となり、鹿児島城重野安繹今藤新左衛門らと共に文学の秀才と名付けられた。後に高崎正風の従兄弟である高崎五六と親交を持った事で、正風は頼庸の父である綱良が属した若手の薩摩藩の組である「誠忠組」に入ったが、頼庸は辞退する。

その後、島津久光が執行した文久の改革により活動の場を京都に移し、儒学医学等を学んだ。後に国学を専攻し、1867年慶応3年)に薩摩に戻った。維新後の1871年(明治4年)に神祇省に入省し、教部大録伊勢神宮禰宜となった。

さらにその後、大教正神道事務局の副管長も務める。

1882年(明治15年)には管長に昇格した事により独立し、禰宜を辞職する。同時期に常世長胤出雲派千家尊福を批判する等、一躍有名となった。墓所は青山霊園(1ロ17-14)

主な著作物[編集]

主著[編集]

  • 『校訂日本紀』
  • 『校訂古事記』
  • 『神徳論』
  • 『(神宮)祭神略記』

その他の著書[編集]

  • 『三則演義』
  • 『梅の屋文集』
  • 『校訂古語拾遺』
  • 『(神宮)祭神提要』
  • 『語書』

出典[編集]

外部リンク[編集]