山川健次郎
山川健次郎 | |
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生誕 |
1854年9月9日 日本会津藩 |
死没 |
1931年6月26日(76歳没) 日本東京 |
プロジェクト:人物伝 |
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日) - 1931年(昭和6年)6月26日)は日本の教育者。東京帝国大学で物理学を教える。東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長、私立明治専門学校(現九州工業大学)の総裁、武蔵高等学校 (旧制)(現武蔵大学)の校長などを務める。男爵。
略伝
- 1854年(嘉永7年) 会津藩士山川尚江(なおえ)の三男として生まれた。
- 1860年(万延元年) 父の山川重固が没し、兄・大蔵(後の山川浩)が家督を継ぐ。
- 1868年(明治元年) 会津戦争。開城後、猪苗代に謹慎の後、越後に脱走、長州藩士奥平謙輔の書生となる。
- 1871年(明治4年) 斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生に選抜され渡米。
- 1875年(明治8年) イェール大学で物理学の学位を取得し帰国。
- 1876年(明治9年) 東京開成学校(翌年、東京大学に改編)教授補になり、アメリカ人ピーター・ベーダー(ピーテェル・ベダル)の助手を務める。
- 1879年(明治12年) 日本人として初の物理学教授になる。
- 1888年(明治21年) 東京大学初の理学博士号を授与された。
- 1901年(明治34年) 48歳で東京帝国大学総長となる。東京学士会院会員に任命される。
- 1904年(明治38年) 貴族院勅選議員となる(~1913年(大正2年))。
- 1905年(明治39年) 日露戦争後に、政府を非難した教授が処分を受ける事件(戸水事件)が起こり東大総長を辞任。
- 1907年(明治41年) 安川財閥(安川敬一郎・松本健次郎親子)の資金拠出による明治専門学校(現九州工業大学)の設立に協力、総裁となる。
- 1911年(明治44年) 九州帝国大学の初代総長となる。
- 1913年(大正2年) 再び東京帝国大学の総長となる。12月、男爵を授爵。
- 1914年(大正3年) 澤柳事件を承け、京都帝国大学の総長を兼任する(翌年まで)。
- 1920年(大正9年) 東京帝国大学の総長を退任。
家族
人物
- 少年期に白虎隊に入隊していたのは有名な話だが、この時の経験を元に著した戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』は死後の1932年(昭和7年)に出版された。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本であり、これ以後現代まで会津藩側の立場に立った歴史書や歴史小説では、旧幕府軍を「東軍」新政府軍を「西軍」と書くことが多い。秩父宮妃勢津子の婚約のために奔走したのも健次郎であった。
- 会津藩に対する忠誠心は壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛け、人事担当者を困惑させたという。
- 物理学に精通したという立場からか極めて現実主義者であり、妹の山川捨松等留学生の多くが洗礼を受けた中最後までキリスト教に対しては懐疑的であったと言われる。大正時代の千里眼事件で一番早くに疑念を唱えたのも山川健次郎であった。
- 「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていることが多い。実際にカレーライスを食した日本人一号が誰だったかはともかく、1871年に国費留学生としてアメリカに向かう船中でカレーライスを食べたという記述を回想録に書き残している。しかし、カレーライスを選んだのはそれが唯一米を使った料理であったからで、カレールーはすべて残したという。
関連項目
武蔵中学校・高等学校 - 帝国大学学長を務めた後、異例の2代目校長を務める
伝記
星亮一 『山川健次郎伝-白虎隊士から帝大総長へ』 平凡社、2003年 ISBN 4582831818
外部リンク
- 会津人物伝 山川 健次郎
- 分光器観測法小引『東京數學物理學會記事』Vol.1(1885)(いわゆる『数物学会誌』の創刊号)に載っている論文。
- Yale and Japan History and Overview Yale大学のページ。山川健次郎についての記述と写真がある。