大澤壽人

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大澤 壽人(おおさわ ひさと、1906年8月1日 - 1953年10月28日)は、兵庫県神戸市生まれの作曲家指揮者

ボストン交響楽団で日本人として初めて指揮した。当時の日本クラシック音楽家としては、画期的な作品を多数残したが、没後50年近くたって片山杜秀藤本賢市が楽譜を遺族宅で発掘するまで、ほとんどが忘れ去られていた。ピアノ協奏曲第3番『神風』2003年2月3日、東京で、野平一郎の独奏、本名徹次指揮、オーケストラ・ニッポニカにより、初演後65年ぶりに蘇演され、このことが彼の再評価のきっかけとなった。作品には、交響曲が3曲、ピアノ協奏曲が3曲(神風を入れて)、交響組曲「路地よりの断章」、「さくらの声」、「ジャズ変奏曲」、「シルヴァー・イメージ」、「ペガサス狂詩曲」、クーセヴィツキーに献呈した「コントラバス協奏曲」、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノ五重奏曲などがある。映画音楽や小中高校の校歌なども作曲した。

生涯

1907年(厳密には1906年)8月1日神戸に生まれた彼は、少年のころより独学、または教会や神戸在住の外国人から音楽を学んだ。1930年関西学院高等商業学部卒業後すぐにアメリカに渡り、ボストン大学およびニューイングランド音楽院に入学、ピアノや作曲を学びながら作品の発表を行う。1933年には日本人としては初めてボストン交響楽団を指揮する。1934年にフランスに渡りエコールノルマル音楽院に入学後、ポール・デュカスナディア・ブーランジェに師事する。交響曲第2番やピアノ協奏曲第2番などを発表し、様々な音楽家から高い評価を得た。1936年に帰国、世界の最先端の音楽を学んだ作曲家・指揮者として活躍する。

戦後はボストン・ポップス・オーケストラなどに範をとり自らセミ・クラシックの楽団(大阪・ラジオシンフォネット)を組織して、ラジオを通じて活発な啓蒙的音楽活動を行った。また、神戸女学院大学音楽科で教鞭を執ったり映画や宝塚歌劇団などへの音楽の提供など精力的な活動を行ったりしていたが、1953年10月28日に46歳で脳溢血のため死去。父親の郷里愛媛県新居浜市に墓がある。当初は生年が1907年と広く認識されていたが、近年の研究によって戸籍謄本により1906年生まれであることが判明した。

戦後の大澤壽人

結局、自分の書きたいような作風の作品をなかなか作曲できなかった大澤は、ラジオ映画宝塚歌劇団などの音楽、レビューを担当する仕事が多くなったようだ。しかし、作曲活動は停止したわけではなく、「サクソフォン協奏曲」、「トランペット協奏曲」、「ジャズ変奏曲」など大澤の好みである濃厚なジャズの響きが特徴の作品を書いている。つまり、大澤は時代の環境に合う作曲活動を展開していきながら、かつ自分の欲求を搾り出していったことになる。ラジオの面では、「ABCホームソング」なる歌曲集を書き、ポピュラー音楽の作曲家として、当時の日本人作曲家の水準を遥かに上回る技術と才能を示した。なお、彼の本分である器楽作品の面では「交響曲第4番」を作曲しようと構想していたらしく、楽譜の表紙は用意されたものの、音符が書かれることはなかった。

大澤と「さくら」

大澤の作品には「さくら」というキーワードの作品が多少みられる。代表的な作品としては、「交響曲第3番」、ソプラノと管弦楽のための「さくらに寄す」、ピアノと管弦楽のための「さくら幻想曲」がある。これらの作品では、日本古謡「さくら」が用いられ、モチーフとして扱われたり、全体を占める主題として扱われたり、変奏されたりする。

代表作

管弦楽曲

  • 交響曲第1番
  • 交響曲第2番(1934年)
  • 交響曲第3番(1937年)
  • ペガサス狂詩曲
  • 交響組曲「路地よりの断章」
  • ピアノ協奏曲第1番
  • ピアノ協奏曲第2番(1934年)
  • ピアノ協奏曲第3番『神風』(1938年)
  • チェロと管弦楽のための浦島
  • コントラバス協奏曲
  • 小交響曲 (2つの管楽器と弦楽合奏のための)
  • ジャズ変奏曲
  • シルヴァー・イメージ
  • タンゴ・オーケストラのための「海原に寄す」

室内楽曲

  • 弦楽四重奏曲
  • ピアノ三重奏曲
  • ピアノ五重奏曲

参考文献

校歌

関連項目