湊 (東京都中央区)
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(中央区湊から転送)
湊 | |
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鐵砲洲稲荷神社 本殿 | |
北緯35度40分21.57秒 東経139度46分46.8秒 / 北緯35.6726583度 東経139.779667度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 中央区 |
地域 | 京橋地域 |
人口 (2019年(令和元年)9月1日現在)[1] | |
• 合計 | 6,601人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
104-0043[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
湊(みなと)は、東京都中央区の町名。現行行政地名は湊一丁目から湊三丁目。郵便番号は104-0043[2]。
地理
[編集]旧京橋区に当たる京橋地域内東部の新富地区に属する。隅田川の西岸にあたり、北で八丁堀、北東で亀島川を挟んで新川、東で隅田川を挟んで佃、南で明石町、西で入船と接する。全域が築地警察署(所在地:築地)・京橋消防署築地出張所(所在地:明石町)の管轄にあたる。
河川
[編集]かつて存在した河川
[編集]歴史
[編集]江戸時代には、町域の西側には松平阿波守屋敷、松平遠江守屋敷が所在した。また、東側は本湊町、船松町という町名で、江戸に物資を運び込む舟運の要所である「江戸湊」として栄えた[4]。
古今を通じて、鐵砲洲稲荷神社の門前町として賑わいを見せている町である。
明治時代初めには、築地外国人居留地の一部(日本人の建てた建築物を外国人に貸すことができる地区)となった[5]。
湊二丁目一帯の住宅地はバブル期に地上げ屋の攻勢を受け、2000年代初めには、老朽化した住居と駐車場用地が入り組んだ虫食い状態の街並みとなった[6]。その後、2008年(平成20年)に湊二丁目東地区市街地再開発事業が都市計画決定、施行され[7]、2017年(平成29年)11月に建築工事が完了した。隣接する区画では、湊二丁目東土地区画整理事業も同時施行され、新しい街並みが広がっている。
町名の由来
[編集]江戸時代、商船の荷揚場や艀に積み替える港があったことから湊町と呼ばれたと見られている。
沿革
[編集]史跡
[編集]- 佃島渡船跡 - 三丁目に所在。
世帯数と人口
[編集]2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
湊一丁目 | 685世帯 | 1,128人 |
湊二丁目 | 1,238世帯 | 2,391人 |
湊三丁目 | 1,761世帯 | 3,082人 |
計 | 3,684世帯 | 6,601人 |
小・中学校の学区
[編集]区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
湊一丁目 | 全域 | 中央区立中央小学校 | 中央区立銀座中学校 |
湊二丁目 | 全域 | ||
湊三丁目 | 全域 | 中央区立明石小学校 |
交通
[編集]鉄道
[編集]町域内に鉄道は通っていない。
バス
[編集]道路
[編集]- 東京都道473号新富晴海線
- 鉄砲洲通り
- 居留地中央通り
施設
[編集]- 東京都下水道局桜橋第二ポンプ所
- 中央区立女性センター ブーケ21
- 中央区立中央小学校
- 中央区立中央幼稚園
- 湊公園
- 鉄砲洲児童公園 - 区内初の児童公園
- 湊町第一児童遊園
- 湊町第二児童遊園
- 南高橋南西児童遊園
- 桜川屋上公園
- 社民党本部
- 中央湊郵便局
- 鐵砲洲稲荷神社
脚注
[編集]- ^ a b “町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2019年9月3日). 2019年9月23日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
- ^ a.makoto. “湊の地名の由来-江戸湊と江戸の発展”. edo→tokyo. 2019年7月7日閲覧。
- ^ “湊二丁目(第5次)遺跡見学会-鉄砲洲に営まれた武家屋敷と町人地-について 6月28日 中央区ホームページ”. www.city.chuo.lg.jp. 2019年7月7日閲覧。
- ^ 八丁堀・新富町(3)湊二丁目の地上げ廃墟地帯<前編> - 東京DEEP案内,2013-10-25閲覧。
- ^ “湊二丁目東地区第一種市街地再開発事業(中央区決定) | 東京都都市整備局”. www.toshiseibi.metro.tokyo.jp. 2019年7月7日閲覧。
- ^ “区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2019年9月23日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 中央区ホームページ
- 鉄砲洲「福井家文書」に関するメモランダム・拾遺塩崎文雄、和光大学総合文化研究所年報『東西南北2012』- 湊1丁目に明治より3代続く福井家資料