リトル・トーキョー (プロレスラー)

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リトル・トーキョー
プロフィール
リングネーム リトル・トーキョー
トーキョー
赤羽 茂
本名 赤羽 茂
身長 122cm
体重 44kg
誕生日 1941年7月5日
死亡日 (2011-09-06) 2011年9月6日(70歳没)
出身地 東京都練馬区
所属 AWA
NWA
WWF
WCPW英語版
UWF
スポーツ歴 柔道
トレーナー ロード・リトルブロック英語版
デビュー 1970年
引退 1997年
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リトル・トーキョーLittle Tokyo1941年7月5日 - 2011年9月6日)は、1970年代から1990年代にかけてアメリカ合衆国で活躍した日本ミゼット・プロレスラーである。本名は赤羽 茂(あかばね しげる)だが、海外ではシゲリ・アカバネ(Shigeri Akabane)と呼ばれていた。

NWAAWAWWF(現:WWE)の3団体で活動し、NWAミゼット王座には3度就いている。WWFでは1987年、年間最大の興行であるレッスルマニアIIIに日本人レスラーとして初めて出場している。

来歴

1941年7月5日東京都練馬区出身。父は小さな工場を持つガラス職人で、4人の兄弟姉妹がいた。彼は柔道で慣らしていたが、当時北米のミゼットレスラーを日本で興行させていたヨシオ・タマイエなるプロモーターに誘われてプロレスラーに転身。1970年代の始めに本名でデビューした。この時期に、日本で巡業していたイギリス出身のミゼットレスラー、ロード・リトルブロック英語版ことエリック・トビー(Eric Tovey)と親交を持ち、エリックの勧めで1972年に渡米。その間に結婚している[1][2]

アメリカではリトル・トーキョーをリングネームに、「田吾作タイツ」と呼ばれたハーフタイツに浴衣、下駄という、グレート東郷キンジ渋谷ミツ荒川ミスター・フジ日系ヒールのスタイルに倣って活動した。

1974年8月にリトル・ビーバー英語版からNWA世界ミゼット王座英語版を奪取。1980年に奪取されるまで6年間保持。同王座には通算3回就いている。1981年12月25日にテキサス州ダラスリユニオン・アリーナで開催されたNWAのビックイベント、“クリスマス・スター・ウォーズ英語版”では第2試合でタイニー・トム(Tiny Tom)と対戦し敗れている。この大会にはザ・グレート・カブキも出場しており、フリッツ・フォン・エリックと対戦した。翌年には、そのフリッツがオーナーを務めるWCCW英語版が開催したクリスマス・スター・ウォーズ英語版に出場し、ローン・イーグル(Lone Eagle)と対戦している。リック・フレアーケリー・フォン・エリックNWA世界ヘビー級王座戦がメインイベントで行われた同大会には、マジック・ドラゴンと名乗っていたハル園田も出場していた(ザ・チェックメイトと組んでホセ・ロザリオ&アル・マドリルと対戦)。

1985年9月25日には、イリノイ州シカゴコミスキー・パークで開催されたAWAのビックイベント、スーパー・クラッシュ85英語版に出場し、第5試合でリトル・ミスターT(Little Mr. T)と対戦、同年8月に再奪取していたNWA世界ミゼット王座を防衛した(同王座は1986年1月12日にリトル・ミスターTに奪取されるまで保持していた)。リック・マーテルスタン・ハンセンAWA世界ヘビー級王座戦がメインイベントで行われた同大会には、ジャイアント馬場ジャンボ鶴田天龍源一郎も出場しており、直後の第6試合でハーリー・レイス&ロング・ライダース(スコット・アーウィン&ビル・アーウィン)から勝利を収めている。

そして1987年3月29日、46歳となった赤羽は人生最大のイベントとなるレッスルマニアIIIに出場した。ミシガン州ポンティアックポンティアック・シルバードームで開催された同大会は、ハルク・ホーガンアンドレ・ザ・ジャイアントWWF世界ヘビー級王座戦をメインイベントに、9万3173人の観客を動員した。赤羽は第3試合、ヘビー級1人とミゼット2人が組む混合6人タッグマッチにおいて親友のロード・リトルブロックおよびヘビー級のキングコング・バンディと組み、ヘビー級のヒルビリー・ジム、ミゼットのリトル・ビーバー、ハイチ・キッド英語版組と対戦。試合は202kgのバンディが27kgのビーバーを攻撃して反則負けとなり、ミゼットのレスラー全員が気絶したビーバーをかばった[3]

その後、翌1988年1月1日にはシカゴを拠点とする団体、WCPW英語版にてカウボーイ・カットレル(Cowboy Catrell)とWCPW世界ミゼット王座英語版を争いこれを奪取。同王座の初代王者となる。同王座は今回と1996年の都合2回戴冠した。1994年9月29日にはカリフォルニア州マリナ・デル・レイを拠点とする団体、UWF(日本のUWFや、ビル・ワットが主宰したUWFとは接点のない別団体)にてカラテ・キッド(Karate Kid)とUWF世界ミゼット王座英語版を懸けて対戦し勝利。同王座を獲得したが、UWFは1996年に活動を停止し、一度も防衛戦は行われなかった。赤羽が引退したのは1997年である。

2010年口腔癌に罹っており、すでに離婚していたが医師や家族らに支えられて生活していた。そして2011年9月6日ミズーリ州セントジョセフの病院にて心臓発作のため70歳で死去。遺体はセント・ジョセフ・メモリアル・パークに葬られた[1][4][5]

獲得タイトル

  • NWA世界ミゼット王座
  • WCPW世界ミゼット王座
  • UWF世界ミゼット王座

脚注

  1. ^ a b Oliver, Greg (2011年9月6日). “Little Tokyo remembered with laughter”. Slam! Sports. Canadian Online Explorer. 2011年9月7日閲覧。
  2. ^ Josh Young 『Missouri Curiosities: Quirky Characters, Roadside Oddities & Other Offbeat Stuff (Curiosities Series)』Globe Pequot(2001) ISBN 978-0762723782
  3. ^ 【第18回】史上最大のプロレス大会「レッスルマニアIII」に出場したただひとりの日本人”. REAL HOT SPORTS. 2016年5月17日閲覧。
  4. ^ Former midget wrestler Little Tokyo dies Tuesday”. Pro Wrestling Torch (2011年9月6日). 2011年9月7日閲覧。
  5. ^ Shigeri "Little Tokoyo" Akabane”. FIND A GRAVE. 2016年5月17日閲覧。

外部リンク