ベルギー植民地帝国

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1920年頃のアフリカ大陸でのベルギー植民地を示した地図

ベルギー植民地帝国(ベルギーしょくみんちていこく)は、1885年から1962年までベルギーによって所有されていた三つの植民地よりなる。具体的には、ベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)、ルワンダ、そしてブルンジ、さらに中国天津市租界である。領域の98%が、本国の76倍の面積に相当するベルギー領コンゴであった。ベルギー領コンゴは、当初は国王レオポルド2世の私的領地とされていた。

ベルギー国内では海外の所有地に言及する際に「帝国」というよりむしろ「植民地」という表現が用いられる傾向があった。加えて、同時代の英国フランスといった遠く離れた他の植民地とは異なり、ベルギー植民地帝国は「皇帝」と称する君主を持たなかった[1]。国王が通常は伝統や歴史的結び付きに基付いて王国を統治すると規定されるのに対し、皇帝や帝国という表現は他の地域や人々を支配するという含意を持っており、それは取得という意味を含んでいる。

背景

ベルギー自体は1830年にネーデルラント連合王国から独立し、1839年に承認された。独立の時点で、英国フランスは広大な植民地を有しており、スペインポルトガルオランダもすでに潜在的に植民地となる勢力圏を有していた。

このように近隣の欧州各国が海外に植民地と勢力圏を拡張させていた状況もあり、1843年初代国王レオポルド1世は、ハワイ王国を植民地にするためにラッド・アンド・カンパニー英語版と契約を結んだ。しかしラッド・アンド・カンパニーが財政難に直面すると取引は解消された[2]。二代目国王レオポルド2世も、植民地獲得に意欲的であったが、ベルギー政府は財源欠如を理由に、消極的な姿勢であった。

コンゴ

コンゴ自由国 (1885年–1908年)

レオポルド2世はベルギーの国家機関を通さずに私的な取得や武力を通じてコンゴを入手した。彼はコンゴを天然ゴムを得るために利用し、莫大な利益を生んだ。英白インド・ゴム会社英語版が領域から利益を吸い取るために公安軍を暴力的に雇った。彼によるコンゴ支配体制は適切な量のゴムを割り当てなかった村人を処罰する方法として殺人や手足を切り取ることで、強制労働による植民地経営を指揮した。何百万人ものコンゴ人がこの間に殺害されたと見積もられ[3]、彼らの多くがヨーロッパ人入植者が持ち込んだ伝染病によって死亡したと指摘されている[要出典]。全人口の五分の一に当たる一千万人のコンゴ人がレオポルドの統治下で死亡したという共通認識がある。

コンゴ自由国は公式にはベルギーの植民地ではなかったが、ベルギーは貿易やコンゴ市民の雇用に関して主な受益者だった。レオポルド2世は個人的に銃で得た植民地からのゴムと象牙の輸出で裕福になった。レオポルトが吸い取った富はブリュッセルオーステンデ、そしてアントワープで数多くの公的建築物を建てる為に使われた。これは「建築王」として今日でもベルギーで記憶されている。彼の財産に追加して、ロイヤル・トラスト英語版を通じて彼は国家に財産の殆どを寄贈した。

ベルギー領コンゴ (1908年–1960年)

1908年に、コンゴ自由国の残虐性に対する抗議の声を和らげるために、ベルギー政府は植民地としてコンゴ自由国を併合することに合意し、それはベルギー領コンゴと呼ばれるようになった。ベルギー議会は長い間コンゴをベルギーの植民地として責任を取ることに抵抗していた。ベルギーは同様にコンゴ自由国の領土としてベルギーに占領されていたカタンガ州も併合した。レオポルト2世がこの地に探検隊を送り、彼らがムスィリ王の首を切断して棹に吊した時には、レオポルトは1891年に同地を手に入れていた[4]。レオポルトはカタンガ州を分けて支配したが、1910年にベルギー政府はこれをベルギー領コンゴに編入させた。ベルギー領コンゴはベルギーが占領した三つの植民地の一つになった。

ベルギー領コンゴは1960年6月30日に独立し、現在ではコンゴ民主共和国となっている。

ルアンダ=ウルンディ (1916年-1962年)

ルアンダ=ウルンディはドイツ領東アフリカの一部であったが、第一次世界大戦中の1916年から1924年までベルギー軍の占領下に置かれていた。1924年から1945年まで委任統治#B式下に置かれ、事実上のベルギー領とされた。1945年以降は信託統治下に置かれ、1962年にルワンダブルンジとして別々に独立するまで続いた。植民地統治の方針は、地元のツチ族や民族別の身分証明書(後のルワンダ共和国でも維持された)を通じた間接的支配を用いていて、原則的に以前のドイツによる統治政権のやり方に似ていた。ルワンダ革命英語版として知られているツチ族に対する暴力行為は、独立前の出来事の中で起きた。

天津租界 (1902年-1931年)

他の欧米七列強や日本に加えて、ベルギーも同様に義和団の乱の結果として天津市(中国の条約港)に数平方キロメートルの租界(中国語ではzujie)を手に入れた。これは植民地というより基本的に貿易港であった。この地域でのベルギー支配は1902年から1931年まで続いた。

サント・トマス

サント・トマス英語版地区が国王レオポルト1世保護下の民間企業Compagnie belge de colonisationに「永久に」与えられたという理由で、グアテマラの議会は1843年5月4日に命令を出した。財源不足と1843年の激しい気候により、ベルギーによる植民地化は1854年に頓挫した。

コマチーナ島

1919年に、コマチーナ島英語版は一年間アルベール1世に寄贈されて、ベルギー主権の飛び地になった。そのわずか一年後にベルギー領事やブレラ学院の学長を長とした慈善財団を通じて芸術家のための村やホテルを建設するために1920年にイタリア国家に返還された。

関連項目

基本情報:

脚注

  1. ^ In the Dutch language, the name used is 'Belgische koloniën'. In French the term 'colonies belges' is far more common than 'empire colonial belge'.
  2. ^ John Ricord, Stephen H. Williams, James F. B. Marshall (1846). Report of the proceedings and evidence in the arbitration between the King and Government of the Hawaiian Islands and Ladd & Co., before Messrs. Stephen H. Williams & James F. B. Marshall, arbitrators under compact. C.E. Hitchcock, printer, Hawaiian Government press. http://books.google.com/books?id=s2iW_IL-mlkC 
  3. ^ Religious Tolerance Organisation: The Congo Free State Genocide. Retrieved 14 May 2007.
  4. ^ De Pont-Jest, René (1892). "L'Expédition du Katanga, d'après les notes de voyage du marquis Christian de Bonchamps". Le Tour du Monde. Retrieved 5 May 2007. See also Christian de Bonchamps.

関連書籍

  • Anstey, Roger (1966). King Leopold's Legacy: The Congo under Belgian Rule 1908-1960. Oxford: Oxford University Press 
  • Nzongola-Ntalaja, Georges (2002). The Congo From Leopold to Kabila: A People's History. London: Zed Books. ISBN 978-1-84277-052-8 and ISBN 978-1-84277-053-5 (pbk){{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 

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