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ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ

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大公妃時代のツィタ、1914年

ツィタ・フォン・ブルボン=パルマZita Maria delle Grazie von Bourbon-Parma, 1892年5月9日 - 1989年3月14日)は、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の皇后。ハプスブルク=ロートリンゲン家前当主オットー・フォン・ハプスブルクの母である。父はブルボン=パルマ家パルマ公ロベルト1世、母はポルトガルの廃王ミゲル1世の娘マリア・アントニアで、異母兄姉を含む24人の兄弟姉妹中17番目の子である。

ルクセンブルク大公マリー=アデライドシャルロット姉妹、ベルギー王アルベール1世エリザベートとはともに母方の従姉妹同士に当たる。また、シャルロットの夫フェリックスはすぐ下の弟である。

生涯

1892年イタリアルッカ近郊で生まれる。母マリア・アントニアと後の夫となるカール大公の義理の祖母マリア・テレジアが姉妹であった関係から(つまりカールはツィタにとって義理の従兄の子に当たる)、カールとは幼少の頃一度ウィーンに近いシュヴァルツアウ館にて会っている。1908年、カール大公の結婚相手としてフランツェンバートにて再会する。当初、カール大公はツィタに惹かれていたものの求婚をするまでの意思がなかった。しかし、当時の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公との間にゾフィー・ホテク貴賎結婚等により緊張関係が走っていた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、フランツ・フェルディナント大公の次の帝位継承者と目されていたカール大公に身分相応の相手と結婚することを望み、カール大公はツィタとの結婚を考えるようになる。

1911年、カール大公と結婚した。フランツ・フェルディナント大公とゾフィー・ホテクの結婚が身分不相応な結婚であったのに対し、ツィタはスペイン・フランスの両ブルボン家の末裔であったため、フランツ・ヨーゼフのお気に入りの妃であった。フランツ・ヨーゼフは皇太子ルドルフや妻エリーザベトの死後落ち込んでいたが、カール大公とツィタの結婚に際しては稀に見る上機嫌さを示し、バルコニーに出ては民衆に手を振り、カール大公・ツィタ夫妻と一緒に写真に写るなどのサービスを行った。特にカールとツィタに長男オットーが誕生した際には、随喜の涙を流したほどであったという。

1916年、フランツ・ヨーゼフ帝の崩御とそれに伴うカール1世の即位で皇后となる。しかし1918年、オーストリアは第一次世界大戦に敗北し、帝国は解体され、カール1世も退位に追い込まれる。夫が退位を決意した際には最後まで反対し続け、側近に諌められる場面もあった。なお、大戦末期にはツィタの兄であるシスト公子、サヴェリオ公子がオーストリアの連合国との単独講和交渉に当たったが失敗に終わった。

さらに、1921年にハンガリーにおける主権を取り戻そうとしたが失敗し(カール1世の復帰運動)、スイスへの受け入れも拒否されたため、ポルトガル領マデイラ島に亡命した。カールが体調を崩した際、ツィタは金銭難のため医者を呼ぶのを惜しみ、肺炎が悪化して死亡した。

その後ツィタは国外追放となっていたが、1度だけ親族の墓参と称して1983年にチロルを訪れた。1989年、スイスのツィツィアースで死去した。オーストリア国内の反対論を押し切る形で、ウィーン市内のシュテファン大聖堂で葬儀が行われ、カプツィーナー納骨堂に皇族として葬られた。なお、夫カールの遺体はマデイラ島に葬られている。

人物

  • 皇太子オットー(後の欧州議会議員)の他、アーデルハイト、ローベルト、フェリックス、カール・ルートヴィヒ、ルドルフ、シャルロッテ、エリーザベト(カール1世の死後誕生)の8子を産み、多産というハプスブルク家の伝統を守ったとも言える。
  • プライドが高く、夫を蔑ろにする高慢な面があった(フランツ・ヨーゼフ皇帝の母ゾフィー大公妃に酷似していた)。さらに出身が第一次世界大戦の交戦国であるフランスイタリアに結びつくということもあり、「イタリア女」と呼ばれ国民から嫌われていた。なお、パルマ公国はまだ父ロベルトが幼少であった1860年にサルデーニャ王国(翌1861年にイタリア王国となる)に併合された。
  • 貴族特有の選民思想が強かったのか、ハプスブルク家に生を受けた夫以上に、ハプスブルク王朝の存続を当然のことと思っており、死ぬまでいつの日かハプスブルク家に再び君主の座が戻ってくると信じて疑わなかった。
  • 一方で礼儀正しい人柄であり、伯爵家の出身で皇族中最下位の地位に置かれていたゾフィー・ホテクに公の場で挨拶したことがある。

子女

参考文献

日本で唯一のツィタの伝記が新書館から出版されている。

  • グリセール=ペカール著『ハプスブルグ家最後の皇妃 チタ』(関田淳子訳、新書館) 

関連項目

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