ジャン=マルク・エロー
ジャン=マルク・エロー Jean-Marc Ayrault | |
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生年月日 | 1950年1月25日(74歳) |
出生地 |
フランス メーヌ=エ=ロワール県モレヴリエ |
出身校 | ナント大学 |
前職 | ドイツ語教諭 |
所属政党 | 社会党 |
配偶者 | ブリジット・エロー |
内閣 |
第1次ジャン=マルク・エロー内閣 第2次ジャン=マルク・エロー内閣 |
在任期間 | 2012年5月15日 - 2014年3月31日 |
大統領 | フランソワ・オランド |
内閣 | 第2次マニュエル・ヴァルス内閣 |
在任期間 | 2016年2月11日 - 現職 |
大統領 | フランソワ・オランド |
ナント都市共同体議長 | |
在任期間 | 2001年1月1日 - 2012年6月21日 |
ナント市長 | |
在任期間 | 1989年3月18日 - 2012年6月21日 |
国民議会議員 | |
選挙区 | ロワール=アトランティック県第3選挙区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 2012年6月20日 - 2012年7月20日 |
その他の職歴 | |
国民議会議員 (1988年6月23日 - 2012年6月15日) | |
サン=テルブラン市長 (1986年4月2日 - 1988年5月14日) |
ジャン=マルク・エロー(フランス語: Jean-Marc Ayrault、1950年1月25日[1] - )は、フランスの政治家。社会党所属。2012年5月15日より2014年3月31日までフランソワ・オランド政権下で同国首相を務めた。1997年からは国民議会の社会党会派(2007年からは合同会派)の長でもある。
人物
出生から政治家になるまで
メーヌ=エ=ロワール県モレヴリエの労働者の家庭に生まれる。地元の聖ジョセフ・カトリック中等学校で基礎教育を受け、ショレのリセ・コルベールに進学した[2]のち、ナント大学でドイツ語を学んだ。1969年から1970年にかけての一学期(半年)をドイツのヴュルツブルク大学で過ごした。1971年に彼はドイツ語学士の学位を得て卒業し、翌1972年に中等教育の教員適性証明(Certificat d'aptitude au professorat de l'enseignement du second degré)を取得した。ルゼで教員に仮採用されている時期、彼はナント地域にとどまった。1973年から1986年の国民議会選挙の間、エローはドイツ語教師として近郊のサン=テルブランで働いた[3]。
政治キャリア
青年期、エローは農村部の青年キリスト教会のメンバーであった。フランソワ・ミッテランがリーダーシップをとり、フランスの社会主義者が大同団結した1971年のエピネー大会に参加した。エローは、左派グループのひとつジャン・ポプランの党派と結びついた。1976年にロワール=アトランティック県議会の議員に選出された、ついで1977年に彼はナント市西郊のサン=テルブランの市長に就任した。27歳というのは人口3万人以上のコミューンの首長としては最年少であった。1982年にエローは県議会を離れた。
エローは社会党国民委員に就任の後、1981年に党の書記に就任した。1986年の国民議会総選挙にロワール=アトランティック県選出の議員として初当選し、次の選挙でも再選した。1989年には共和国連合のミシェル・ショーティーが市長職を保持していたナント市長選挙に社会党候補として出馬し当選。以後20年以上その職にある。1995年、2001年と2008年に再選した。エローが市長に就任した時のナントは地域経済が停滞していたが、1995年にクラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」を開催し、芸術による町おこしに乗り出す。その結果、フランス国鉄の予算管理部門、フランス郵政公社の金融管理部門など法人がナントに事業所を設けるようになり、市の経済は好転した[4]。一方で1997年に、ナント市の社会党支持者への利益供与の容疑で告発され、執行猶予付きの有罪判決を受けている[5]。2002年からナント都市共同体の議長も務めていた。
1997年フランス議会総選挙での左派連合 ("Majorité plurielle") の勝利の後、エローは政府閣僚に指名されなかった代わりに、リオネル・ジョスパン首相就任にともない発足した国民議会における社会党国民議会議員団の団長に任命された。
フランス共和国首相
エローは、大統領候補を選ぶ2011年の社会党党首選挙ではフランソワ・オランドを支援した。オランドは2012年の大統領選挙に当選し、2012年5月15日の政権発足に際し、エローを首相に指名した。オランドが大統領候補になるまでエローが熱心に支援をしており、オランドの重要な側近の一人であること、またエローはドイツ語教師をしていた経歴などから、フランス政界ではドイツ通として知られ、ヨーロッパ通貨危機を乗り越えるための、ドイツとの一層密な連携が期待できることなどが、首相指名の理由だと内外のメディアでは考えられている[6]。
2014年3月の統一地方選挙で社会党は大敗し、これを受けてエローは3月31日に首相を辞任した。オランドは後任に、エロー内閣で内務大臣を務めていたマニュエル・ヴァルスを任命した[7]。
年譜
地方
- 1976年-1982年:ロワール=アトランティック県議会議員
- 1977年3月14日-1989年3月20日:サン=テルブラン市長
- 1989年5月20日- :ナント市長
- 2002年1月1日-:ナント都市共同体議長
国政
- 1986年-:国民議会議員
- 1988年6月5日(初当選)
- 1997年6月1日(再選)
- 2002年6月12日(再選)
- 2007年6月17日(任期は2012年まで)
- 1997年-:社会党国民議会議員団団長
- 2012年5月15日-:フランス共和国首相
- 2014年3月31日(辞職)
- 2016年2月11日 - フランス共和国外相
アラビア語表記問題
ジャン=マルク・エローが首相に指名されると、各国のマスメディアがこれを報道したが、アラビア語メディアは報道に困惑した。Ayrault のフランス語の正確な発音(/eʁo/)は、多くの国の口語アラビア語では男性器を意味する語に三人称単数形所有格の代名詞を付加されたもの(すなわち、「彼の男性器」)に聞こえるからである。これに対してフランスの外務・ヨーロッパ問題省は、/eʁo/の音写ではなく、発音しない最後の2文字(黙字)「lt」も綴りに加える「解決案」を示した[8]。
脚注
- ^ Patrick Roger, |"Jean-Marc Ayrault, le "réformiste décomplexé"", Le Monde, 15 May 2012 (フランス語).
- ^ “Jean-Marc Ayrault”. 2012年5月15日閲覧。
- ^ “Biographical note on the website for w:Nantes”. 2012年5月15日閲覧。
- ^ 音楽は街を活性化する人口28万のフランス地方都市が元気なワケ日経ビジネス2007年2月14日(2012年5月18日閲覧)
- ^ 仏の新首相“ドイツ通”のエロー氏NHK2012年5月16日(5月18日閲覧)
- ^ フランス:新首相にエロー氏任命毎日新聞2012年5月16日(5月18日閲覧)
- ^ “フランス地方選惨敗でエロー首相辞任、新首相にバルス内相”. ロイター (ロイター). (2014年4月1日) 2014年4月1日閲覧。
- ^ France’s Ayrault Creates Anatomical Challenge for Arab Press2012年5月16日(2012年5月21日閲覧)
著作
関連項目
外部リンク
- (フランス語) 国民議会サイトにおけるプロフィール
- (フランス語) 公式ブログ
公職 | ||
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先代 ミシェル・ショティ |
サン=テルブラン市長 1977年 - 1989年 |
次代 シャルル・ゴーティエ |
ナント市長 1989年 - 2012年 |
次代 パトリック・ランベール | |
新設 | ナント都市共同体議長 2001年 - 2012年 |
次代 ジル・ルティエール |
先代 フランソワ・フィヨン |
フランス共和国首相 第五共和政第20代:2012年 - 2014年 |
次代 マニュエル・ヴァルス |
先代 ローラン・ファビウス |
外務・国際開発大臣 第五共和政第23代:2016年 - |
次代 現職 |
党職 | ||
先代 ローラン・ファビウス |
国民議会社会主義・急進・市民・諸左派グループ会長 1997年 - 2012年 |
次代 ブリュノ・ル・ルー |