たすきがけ人事

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たすきがけ人事(- じんじ)とは、会社・団体・組織などの人事において採用される手法のひとつ。ある役職が、2種類以上の相異なる性質の集団を出身した人物により、規則的に交替で担当されることを指す。語源は、和服を着用する際のたすきが、両肩から交互に紐を下ろし結ぶことから。

概要

一般的には、合併により発足した新企業が、前身の2つの会社の出身人物を交替で社長会長に充てることが「たすきがけ人事」である。特に、当事会社間の売上高や従業員数に大きな差がない対等合併の場合に多く見られる。

たすきがけ人事が採用される要因には、当事会社従業員同士のプライドや意地、企業文化(コーポレートカルチャー)残存へのこだわり、という感情的側面がある。

また、当事会社間に実力差がある場合でも、劣後扱いされた企業の抵抗が統合作業に支障をきたす恐れがあると、上位企業の「遠慮」によりたすきがけ人事が採用されることがある。

たすきがけ人事は多くの弊害を生む。たすきがけ人事が採用されていると、その法則性に逆らった経営陣が組織されず、適材適所が実現されない。また、役員のみならず、昇進の過程に立つすべての従業員にこの法則が影響するため、合併後も当時会社の従業員同士が融和しにくい。合併には相乗効果や効率化を図るものがあるが、それらの効力が期待されにくくなる。

派閥運動の妥協点のひとつとも見える。

事例

  • 日本銀行
    1969年以降、日銀出身者(プロパー)と大蔵省からの天下り者が交互に総裁を務めた。1998年日本銀行法改正により、中央銀行としての独立性を向上させるため、この慣行は廃された。日銀出身の速水優に続いて、同じく日銀出身の福井俊彦が総裁に就任している。
  • 総務省
    2001年中央省庁再編により、総務庁郵政省自治省の業務を統合して発足。事務次官を前身省庁の出身者が交互に務めた。2005年、当時の松井浩審議官が旧郵政省出身で、事務次官就任が有力視されていたが、折しも郵政民営化問題で小泉純一郎首相が松井審議官の処分を要求したため、慣行が崩された。後任は旧総務庁出身者が務めた。
  • 第一勧業銀行
    1971年第一銀行日本勧業銀行が合併して発足。頭取・会長を前身行出身者が交互に務め、一般職においても人事部が2つ存在した。1997年に明るみに出た総会屋事件の捜査過程において、たすきがけ人事がコーポレートガバナンスの低下を招き、裏社会との接点が断てなかったという分析がなされた。マスメディア報道も多かったため、一般にも知られた典型的なたすきがけの例である。2002年の再編によりDKBの法人を引き継いだみずほ銀行においてもこの慣行は続いたが、合併後30年以上を経て旧行出身者がもはや残っておらず、2004年に就任した頭取も合併直前の入行組であったことから、2009年の会長就任に伴い自然消滅した。なお、2009年4月に就任したみずほ銀行頭取は、旧富士銀行出身者となった。その後、2011年のシステムトラブル問題で旧富士銀出身の頭取が引責辞任することになったため、旧DKB出身のFG社長がFG会長兼務で頭取に就任することになり、後任のFG社長には、旧興銀出身のCBK頭取が兼務することになったため、信託を除く中核企業(2つの証券会社は、前身の流れから、SCは旧興銀出身者、ISECは旧勧銀→DKB出身者を充てている)からは旧富士銀出身のトップが不在の状況となっていた。その後、2014年に、みずほ銀行暴力団融資事件を受け、旧富士銀出身者がみずほ銀行頭取となった。現在は、逆に中核会社のトップに旧DKB出身者が不在という状態となっている。
  • さくら銀行
    1990年三井銀行太陽神戸銀行が合併して発足。頭取・会長を前身行出身者が交互に務めた。たすきがけ人事に加えて、店舗やシステムの統合も前身行同士の配慮がはたらき、最大の預金量と三井グループを背後にもちながら業績が上がらなかった。バブル景気崩壊後の時期にあって、経営の悪化に拍車をかけた一因となった。2001年住友銀行と合併し三井住友銀行に統合。
  • 三井住友銀行 / 三井住友フィナンシャルグループ
    三井住友銀行(SMBC)は、2001年に住友銀行とさくら銀行が合併して発足(旧法人。現在のSMBCは、旧わかしお銀行を存続会社とした逆さ合併による法人である)。初代頭取には旧住銀の西川善文、初代会長には旧さくらの岡田明重が就任した。2002年に持株会社である三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)を設立。FG設立後も社長・会長はSMBCと同じ(後の、2003年3月17日の逆さ合併による現在のSMBC移行後も同様の人事となり、旧わかしおの頭取は合併後のSMBCのコミュニティバンキング本部長兼専務取締役に就任)だったが、2人は2005年に経営悪化で引責辞任。後任人事で、旧さくらの北山禎介がSMBC会長でSMFG社長、旧住銀の奥正之はSMBC頭取でSMFG会長に就任し、複雑な二重のたすきがけ人事になっている。2011年4月の異動で、SMFGについては奥会長・宮田孝一社長(旧三井銀出身)、SMBCについては北山会長・國部毅頭取(旧住友銀出身)の体制(会長にはいずれも代表権はなく、社長・頭取は、もう一方では代表権のない取締役についている)となり、さらに複雑なたすきがけとなっている。
  • 三井住友海上火災保険 / (旧)三井住友海上グループホールディングス
    合併から2006年の第三分野保険に関する不祥事で引責辞任するまで、会長は旧三井海上の社長だった井口武雄、社長には旧住友海上社長だった植村裕之が就いていたが、その後任として、会長には当時の副社長で旧住友海上出身の秦喜秋(しん・よしあき)、社長には、直前に常務執行役員から常務のままCEOに昇格していた旧大正海上出身の江頭敏明が就任している。なお、2008年の持株会社傘下に移行した際、持株・MSIGの会長・社長も三井住友海上と同じ人事となっている。なお、2010年4月1日付で、三井住友海上火災保険については、江頭社長が持株(MS&AD)の社長に専念することに伴い代表権のある会長に就任し、後任には旧住友海上出身の柄澤康喜が専務から昇格したため、やはりたすきがけを継続する形となっている。2012年時点でもこの人事は継続されており、江頭がMS&ADの社長と三住海上の代表権のある会長、柄澤が三住海上の社長とMS&ADの代表権のある執行役員を担当している形となっていたが、その後、持株会社のMS&ADでは社長を三住海上側から、会長をあいおいニッセイ同和側から出すことになり、両社の社長がそれぞれつく形になったため、三住海上の江頭会長がMS&ADでは代表権のある執行役員という形がとられた。2016年4月1日付で、江頭が三住海上の会長を退任(取締役に退く)し、柄澤が三住海上の会長に就任する(MS&ADでの役職は、江頭、柄澤共に引き続き同じものとなる)が、柄澤の後任となる三住海上の社長には、江頭と同じく旧大正海上出身の原典之副社長が昇格するため、三住海上の社長ポストのたすきがけに関しては途切れることなく継続されることになった。
  • 新日本製鐵
    1970年八幡製鐵富士製鐵が合併し発足。社長を前身会社出身者が交互に務めている。合併後7年間は人事部が2つ存在した。後継の新日鐵住金では、合併当初は会長が新日鐵の社長、社長が住金の社長が横滑りし、会長にCEOを兼務させる処置を取ったが、その後、社長を新日鐵側から出すことになり、会長はCEO兼務を解除の上で、代表権のあるまま留任したため、事実上、新日鐵主導の人事となった。なお、新日鐵住金の現会長は、新日本製鐵発足後の入社組であり、旧来の八幡と富士のたすきがけ自体はすでに消滅していた。
  • 日本電信電話 / NTTグループ
    技術系出身者と事務系出身者が交互に社長を務めている。1997年のNTT法改正による分割以降も、NTT持株会社・NTT東NTT西でこの慣行が続いたが、このうちNTT東は2002年に規則性が崩れている。
    但しこの点については、技術系社員が出世できないということを対外的に示したため、同社の技術系従業員のリクルートメントにおいて悪影響を及ぼした。
  • クウェート
    1915年に制定された同国憲法では、当事の首長ムバーラク・アル・カビールの直系子孫のみが国家元首に就任できると規定している、カビール首長を引き継ぐ首長家サバーハ家には、ジャービル系とサーレム系があり、一時の例外を除いて交互に首長の座に就任し慣行となっている。
  • 日本郵政グループ労働組合
    2007年10月22日 - 「日本郵政公社労働組合(JPU)」と「全日本郵政労働組合」の統合により誕生。発足から10年間は、委員長・書記長両者のたすきがけ人事を実施し、その間に労組間の融和を進める方針である。初代委員長は、全郵政出身の山口義和。書記長は、JPU出身の難波奨二。

関連項目