黒死館殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
黒死館殺人事件
著者 小栗虫太郎
発行日 1934年
発行元 『新青年』
ジャンル 探偵小説
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

黒死館殺人事件』(こくしかんさつじんじけん)は、小栗虫太郎の長編探偵小説

全編、膨大な衒学趣味(ペダントリー)に彩られており、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、中井英夫の『虚無への供物』とともに、日本探偵小説史上の「三大奇書」、三大アンチミステリーの一つに数えられている。

雑誌『新青年』に1934年4月号から12月号にかけて連載された。挿絵は松野一夫1935年5月に新潮社より単行本が刊行され、太平洋戦争後も早川書房ハヤカワポケットミステリ(誤植多し)や、講談社社会思想社など多くの出版社から繰り返し再版されている。社会思想社版「黒死館殺人事件」は松山俊太郎による語彙・事項の誤記訂正版である。


概要[編集]

本作の『著者之序』によれば、本作の主題はゲーテの『ファウスト』であり、また、着想の起点として「モッツアルト(モーツァルト』)の埋葬」が挙げられているが、全体は、作中にも言及されているS・S・ヴァン=ダインの『グリーン家殺人事件』の影響が瞭然である[1]。日本で唯一のゴシック・ロマンスとの評もある[2]

基本的な筋は、名探偵・法水麟太郎(のりみずりんたろう)が、「ボスフォラス以東に唯一つしかない…豪壮を極めたケルト・ルネサンス様式[3]の城館(シャトウ)」・黒死館で起こる奇怪な連続殺人事件に挑む、というものである。

黒死館に住まうのは、天正遣欧少年使節千々石ミゲルと、カテリナ・ディ・メディチの隠し子と言われる妖妃ビアンカ・カペルロとが密通して生まれた私生児を祖とする神聖家族・降矢木一族である。「黒死館」の名は、かつて黒死病の死者を詰め込んだ城館に似ていると嘲られたのが由来である。館の建設者 、降矢木算哲は昨年自殺し、遺児の降矢木旗太郎が後を継いでいる。算哲は欧州で医学と魔術を極めて帰国したが、何が目的か、西洋人の幼児4人を日本に連れてきて何十年も館内に閉じ込め、門外不出の絃楽四重奏団として育て上げていたが、算哲が死んだのち、もともと漂っていた「悪疫のような空気」がいよいよ高まり、ついにファウストの呪文が示されるごとに奇怪な殺人劇が繰り広げられる事態となった。自動人形、『ウイチグス呪法典』、カバラの暗号、アインシュタインとド・ジッターの無限宇宙論争、図書室を埋め尽くす奇書、倍音を鳴らす鐘鳴器など次々と意外な道具立てが登場し、神秘的、抽象的な超論理の推理と捜査、犯人と探偵法水との戦いが展開される。

本書は、晦渋な文体と、ルビだらけの特殊な専門用語の多用、そして何より、殺人事件の実行、解決としては非現実かつ饒舌すぎる神秘思想・占星術・異端神学・宗教学・物理学・医学・薬学・紋章学・心理学・犯罪学・暗号学などの夥しい衒学趣味(ペダントリー)で彩られており、それらに主筋が飲まれている感すらある。しかしこのエキゾチックな衒学趣味の幻惑が本書の大きな魅力でもあり、いまだ愛読者は絶えず、『虚無への供物』、『匣の中の失楽』その他多くの追随作品、オマージュ作品を生み出している。造語や、捏造、欧米語の発音表記(ルビうちで多用されている)の間違いや[4]、展開上の矛盾、探偵法水の言動の不可解さ[5]なども指摘されているが、江戸川乱歩は、「この一作によって世界の探偵小説を打ち切ろうとしたのではないかと思われるほどの凄愴なる気魄がこもっている」と評した[6]。作者の小栗虫太郎は本書を、本など何もない貧乏長屋住まいのときに書き、自らあのときは悪魔が憑いていたと語っている[7]

一方で、坂口安吾の「ヴァン=ダインの(悪いところ=衒学趣味の)模倣」[8]や、小谷野敦の「西洋コンプレックス」と一蹴する意見も見られる。

あらすじ[編集]

ボスフォラス以東にただひとつしかないという降矢木家のケルト・ルネサンス式の大城館、通称「黒死館」で、門外不出の弦楽四重奏団のひとり、ダンネベルク夫人が毒殺され、当局は例によって、素人探偵、法水麟太郎に出馬を要請する。

降矢木家は天正遣欧少年使節千々石ミゲルフィレンツェの妖妃ビアンカ・カペルロカテリナ・ディ・メディチの隠し子)に生ませた私生児の興した家で、四重奏団の西洋人4人は幼少時、黒死館の創設者、降矢木算哲によって黒死館に連れてこられ、以来一度も黒死館から出たことがなかった。のみならず黒死館では過去に三度も変死事件があり、その最後が算哲の昨年の自殺で、それ以降、館内に不気味な空気が流れ出したのであった。

法水が家人、使用人に対し、得意の衒学を駆使した尋問をしていく中で、算哲が死の直前に四重奏団の西洋人4人を養子入籍し、遺産相続権を与えていたことが分かる。現当主、算哲の息子、旗太郎は、皆それぞれ、算哲の遺言状の中で自分に関することだけは聞かされているが、他言しないのが条件であるから遺言状の内容は言えぬと言い、何故西洋人4人が連れてこられたか、遺産相続者となったかの理由も判然としない。

法水は鐘鳴器の音の違いで今度は、給仕長が殺されていることを見抜く。鐘鳴器の演奏室で失神していた故算哲の秘書紙谷伸子は、気がついたとき自分の名を「降矢木伸子」と書き、一種のヒステリーと診断される。そんな中、算哲犯人(生存)説まで持ち上がったため、法水は、算哲の姪津多子の夫で、算哲の遺言状の管理者である押鐘童吉を巧みに誘導し、算哲の遺言状を公開させるが、それは旗太郎と四重奏団4人に等分に遺産を分配、並びに館外への外出、恋愛、結婚、この遺言状の口外の禁止、禁を破った者の相続権剥奪、浮いた分は残った者に按分、という法水の思惑とは異なるものであった。だが遺言状には、算哲が発表直前に燃やし捨てた一枚があったという。

チェロ奏者のレヴェズは、遺産相続から外された津多子が犯人だと主張するが、法水は、宗教戦争でクリヴォフなる暗殺者が、ダンネベルク、セレナ、レヴェズという要人を殺したという記録から、ヴィオラ奏者のクリヴォフが犯人だと結論する。しかし四重奏団の演奏会で、照明が消えた間にクリヴォフが殺され、続いてレヴェズが絞殺死体で見つかる。レヴェズの喉に残っていたのはなんと算哲の指紋だった。しかし、法水が発見した秘密の地下道の行き先は算哲の墓で、そこには一度墓内で蘇生したが、早期埋葬防止装置が機能しなかったため助からなかった算哲の遺骸があった。

そんなとき図書係の久我鎮子の身元が判明する。鎮子から、4人の西洋人がここに連れてこられた真の理由を聞いた法水は、旗太郎を犯人として指摘する。旗太郎は失神し、法水は伸子にプロポーズともとれる言葉をかけるが、翌日伸子は拳銃で撃たれて死ぬ。伸子の葬儀の日、法水はついに真犯人を指摘する。真犯人の驚くべき動機と正体は、算哲が燃やし捨てたはずの遺言状の一枚が写真乾板に撮られていたため明らかとなる。

登場人物[編集]

法水麟太郎(のりみず りんたろう)
非職業的探偵。検事の支倉と捜査局長の熊城と終始、捜査を共にする。(このユニットはヴァン=ダインの創造した探偵ファイロ・ヴァンスのそれを踏襲している)衒学を駆使した超絶的推理力を発揮するが、自らの衒学的推論に拘泥するところもあり、支倉や熊城をいらだたせることもある。体はあまり丈夫なほうではない。
支倉肝(はぜくら かなめ)
検事。常識人で慎重派だが、法水の衒学にそこそこついていける知識は持っていて、よく法水の衒学趣味に皮肉で応じる。
熊城卓吉(くましろ たくきち)
捜査局長。現実主義で実践派。少々性急なところがある。
乙骨耕安(おとぼね こうあん)
警視庁鑑識医師。50をよほど越えた老人。毒物鑑識にかけては著書も持つ老練。
降矢木算哲(ふりやぎ さんてつ)
故人。降矢木家13代目。医学博士。欧州で医学を学んで帰朝したが、臨床医でないことはもちろん、著書もなく、かつて「頭蓋畸形者の犯罪素質遺伝説」に反駁し大論争を惹き起こしたくらいが、学界における業績である。
テレーズ・シニョレ
故人。算哲が欧州で娶った愛妻。フランス、ブザンソンの生まれで、黒死館はその地の城館を模して創られたが、日本に来る途中、ラングーンで病死した。その後、テレーズを模した自動人形が黒死館に置かれている。
クロード・ディグスビイ
故人。黒死館の設計・建設者。ウェールズ人。帰国途中、テレーズの死んだラングーンで自殺している。黒死館には、彼がいろいろな暗号や、仕掛けを施しているという。算哲、テレーズとは三角関係にあった。
グレーテ・ダンネベルグ
門外不出の弦楽四重奏団の一人。第一提琴奏者。この四重奏団の4人は、幼少の頃、算哲の手配で、欧州から連れてこられ、黒死館に40年来棲んでいるという。黒死館から外に出ることはなく、一年に一度黒死館で行われる定期演奏会でのみ人前に姿を見せる。4人ともお互いに距離をとっている。
ガリバルダ・セレナ
門外不出の弦楽四重奏団の一人。第二提琴奏者。
オリガ・クリヴォフ
門外不出の弦楽四重奏団の一人。ヴィオラ奏者。
オットカール・レヴェズ
門外不出の弦楽四重奏団の一人。チェロ奏者。カルテット唯一の男性。
降矢木旗太郎(ふりやぎ はたたろう)
黒死館当主。算哲が愛妾岩間富枝に産ませた息子。17歳。美しく大人びているが、落ち着きのない目をしている。
押鐘津多子(おしがね つたこ)
算哲の姪。大正の新劇女優。日本のモード・アダムスと称された。降矢木の血を引くが、遺言状では遺産の分配はされていないという。
押鐘童吉(おしがね どうきち)
津多子の夫。医学博士。東京神恵病院長。算哲の遺言状の管理者、かつ執行者。
紙谷伸子(かみたに のぶこ)
算哲の秘書。年齢は23、4歳。大して美人というほどではないが、丸顔で魅力的な女性。
川那部易介(かわなべ えきすけ)
給仕長。侏儒の傴僂。幼い頃から黒死館で育つ。44歳
久我鎮子(くが しずこ)
図書掛り。7年前に算哲に雇われる。年齢は50歳を過ぎて2つ3つ。威圧的な容貌と雰囲気の持ち主。非常に博識だが文学は理解しない。
古賀庄十郎(こが しょうじゅうろう)
召使。易介と同年輩。
田郷真斎(たごう しんさい)
執事。著名な中世史家でもある。下半身不随で手動の四輪車に乗って移動している。年齢は70歳手前。

脚注[編集]

  1. ^ 『グリーン家殺人事件』は1929年、本国アメリカで大ベストセラーになった翌年に日本でも出版され、『黒死館殺人事件』のみならず浜尾四郎の『殺人鬼』など非常に大きい影響を日本の探偵小説界に与えた。なお『黒死館殺人事件』では『グリーン家殺人事件』のネタバレがされている。
  2. ^ 社会思想社版 「黒死館の門前に佇んで」島田太郎
  3. ^ 建築史には存在しない様式名称
  4. ^ 社会思想社版 解題など
  5. ^ 「黒死館殺人事件」を読んで 井上良夫 社会思想社版
  6. ^ 単行本出版時の「序」昭和10年
  7. ^ (九鬼紫郎『探偵小説百科』1975年)
  8. ^ 『蝶々殺人事件』について(推理小説論)(「新潮」1950年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]