二井関成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二井 関成(にい せきなり、1943年〈昭和18年〉3月20日 - )は、日本の政治家。山口県知事。山口県美祢市出身。
[編集] 来歴
1943年(昭和18年)3月20日、山口県美祢市に生まれる[1]。山口県立山口高等学校を経て、1966年(昭和41年)に東京大学法学部を卒業し、自治省に入省[1]。以降、長崎県(税務課長など)や中小企業庁へ出向した[1]ほか、自治省選挙部政治資金課長補佐等を歴任。
1979年(昭和54年)、山口県総務部財政課長に就任し山口県庁へ入庁[1]。同じ自治省出身の山口県知事・平井龍(当時)のもと、その1期目から5期目まで県の要職に就いた。山口県出納長を務めていた1996年(平成8年)、同職を退任するとともに山口県知事選挙に立候補し、初当選した[1]。二井は平井の後任として県知事に就任したが、平井は5期目任期満了を前にして引き続き知事選に立候補することを模索していた。このため、二井は平井の意向に沿わない形で知事選に立候補し、当選することとなった。平井は自民党党員でありながら吹田愰(元自治大臣=新進党・公明推薦)を陰で支援していた。また当時自民党幹事長代理野中広務が自民党本部としての二井への推薦に反対し県連推薦に止まったが、安倍晋三・河村建夫らの清和研若手代議士や、清和研幹部で現職の自民党総務会長塩川正十郎の熱心な支援が大きな勝因となった。
県知事就任後は「住み良さ日本一の県づくり」を掲げ、「安全」「居住環境」「健康と福祉」「子育て・人づくり」「働く環境」の5分野57指標について目標値を定め、各種政策に取り組んだ[2]。また、「県民力向上」に向けた「ホップ・ステップ・ジャンプ」として山口きらら博(2001年)、国民文化祭(2006年)、おいでませ!山口国体(2011年)などの大型イベントを位置づけ[1]、任期中に第23回世界スカウトジャンボリー(2015年開催予定)の誘致を成功させるなど「呼び屋」としての功績を残した。
知事4期目からは「住み良さ日本一元気県づくり加速化プラン」および「新・県政集中改革プラン」の「今期限りの総仕上げ」を公言し、2011年(平成22年)12月5日、県議会にて5期目となる次期山口県知事選挙には立候補しない意向を示した[3]。しかし、この時点では自民党山口県連などから続投要請があったこともあり、両プランの「達成状況により2月までに最終判断」とし知事退任の明言はしなかった[1]。その後2012年(平成23年)2月22日の定例記者会見の席上にて、「おおむね満足できる成果となった」として正式に退任を表明し、県政からの引退を決めた[1]。
[編集] エピソード
- 県の出版物・公用封筒などに『しっかり聞いて』というキャッチフレーズとシンボルマークが印刷されているものがある。これは、二井の知事選初出馬の際に、広報公聴の充実や情報公開の推進をアピールするために使用されたものである。
- 野球が趣味で、甲子園で山口県代表の試合の始球式を務めたことがある。その際の球速は120キロ台だった。光市に本拠地を置く還暦野球チーム「山口アインツ」のメンバーでもある。
- 女性に人気があり、女性の起業者による「山口スーパー・レディース・アソシエーション」が毎年開いている「知事を囲む望年会」には夫妻で毎年参加している。
- 自民党の党員だが2004年分の党費4000円を支払っていないことを2006年9月14日の定例記者会見にて自ら公表。過去2年間に党費を納めていないと自民党総裁選には投票できないという規定により、直後の総裁選挙への投票資格を失った。同選挙では山口4区選出の安倍官房長官の優勢が伝えられており、自身も安倍支持であったが、肝心の地元の県知事が安倍に投票できないという事態に陥った。
- 俳優の原田大二郎を「山口ふるさと大使」に任命した。
- 2010年、自身の任命した西村亘山口県副知事(当時)が第66回国民体育大会において「ヤシ(ズル)をしてでも1位を取る」、「(柔道やレスリングの)判定競技は、開催県有利にしてもらう」などと発言し、市民団体から抗議を受けた際には、西村に対し「誤解を与えるような発言は厳に慎むように」と注意した[4]。
[編集] 略歴
[編集] 選挙の記録
 |
ウィキニュースに関連記事があります。
|
[編集] 脚注
[編集] 関連項目