ミッドウェー島砲撃

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ミッドウェー島砲撃
Midway Atoll.jpg
ミッドウェー島(1941年11月24日撮影)
戦争太平洋戦争
年月日1941年12月8日
場所ミッドウェー島
結果:砲撃自体は成功
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
小西要人 ハロルド・シャノン英語版
ジョージ・キャノン 
戦力
駆逐艦2 海兵隊784
飛行艇12
5インチ砲6門
3インチ高角砲12門
機銃60基
損害
なし 死傷者4名
飛行艇1機大破
建物数棟破壊あるいは焼失
ミッドウェー作戦

本項でのミッドウェー島砲撃(ミッドウェーとうほうげき)とは、太平洋戦争開戦日の1941年(昭和16年)12月8日(アメリカ時間12月7日)に、真珠湾攻撃に呼応して行われた戦闘である。第一航空艦隊南雲忠一中将)の援護でミッドウェー島の機能を一時的に封じるため2隻の駆逐艦をもって砲撃を行い、反撃が始まる前に避退に成功した。しかし、その後のミッドウェー島の「取扱い」について意見が分かれ、散発的な戦闘があったのち、最終的には1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦の敗北に至る。

背景[編集]

ミッドウェー島は1867年にアメリカ領となったが、軍事面との縁ができたのは1903年に海軍省の管轄下で海底電信施設が建設が行われたころからで、施設防衛のために海兵隊が派遣されたころからである[1]。しかし、日本の委任統治下にあった南洋諸島と同様に、ワシントン海軍軍縮条約の取り決めで本格的な施設建設はできなかった[1]。1934年、無条約時代を見越したアメリカはパンアメリカン航空に中継基地を建設させ、間接的に軍事的価値があるかどうかを再確認させた[1]。無条約時代が到来すると軍事施設の整備に本腰を入れ始め、飛行艇と海兵隊を常駐させて航空基地としての一歩を築いた[2]。サンド島とイースタン島の間を爆破して水路を構築したのもこのころで[2]、ミッドウェー島の基地としての価値にお墨付きを与えたのは、アーサー・ヘプバーン英語版少将が委員長を務めた防備に関する委員会における、「真珠湾の次に重要性がある」という報告であった[2]。ミッドウェー島に航空基地が完成したのは1941年8月18日のことであり[2]、飛行艇による哨戒飛行が開始された。

アメリカミッドウェー島に航空基地を完成させてからおよそ1か月後の9月11日から20日の間、日本海軍海軍大学校では2つの図上演習が行われた[3]。そのうちの一つは第一航空艦隊が作成した計画に基づく『ハワイ作戦特別図上演習』であり[3]、その中に早くもミッドウェー島砲撃の素案が含まれていた[4]。この時点で日本側がつかんでいたミッドウェー島に関する情報には「水上基地 飛行艇二個中隊に対する施設工事中」というものがあった[4]。砲撃の企図も「引き揚げ航路掩護のため」と位置付けられ、演習上では真珠湾攻撃日の3日前[注釈 1]に攻撃隊を分離して攻撃させることになっていた[5]

その後、真珠湾攻撃計画が現実味を帯びると、ミッドウェー島への攻撃計画は砲撃に加えて空襲も追加された。すなわち、第一航空艦隊が真珠湾攻撃を行った際に損傷艦を出したり、燃料の都合などの不具合が生じた場合は最短経路で日本に帰投しなければならなくなるので、その場合のミッドウェー島攻撃は従前の攻撃隊に加え、第五航空戦隊原忠一少将)と第三戦隊(三川軍一中将)の戦艦霧島[注釈 2]を抽出して、真珠湾攻撃の2日後にミッドウェー島を攻撃することが決められた[6]。のちに攻撃理由に「又空襲ノ戦果大ニ揚リ敵ノ反撃ニ対シ大ナル考慮ヲ要セザル場合」[7]が追加され、これが後述のいさかいの元となる。

戦闘[編集]

日本側兵力[編集]

  • ミッドウェー破壊隊[8](指揮官:第七駆逐隊司令小西要人大佐)
    • 駆逐艦(第七駆逐隊第一小隊):「」、「
    • 特務艦:「尻矢

第七駆逐隊は、第一航空戦隊の元来の護衛兵力である[9]。破壊隊が「第一航空艦隊からの分離」から単独で行動する計画に改められた時期は不明であるが、気象条件などの理由から航続力に懸念材料はないとされた[9]

アメリカ側兵力[編集]

  • 陸上兵力:海兵隊784名[10]、5インチ砲6門[10]、3インチ高射砲12門[10]、12.7ミリ機銃30挺[10]、7.62ミリ機銃30挺[10]
  • 航空兵力:飛行艇12機[11]

兵力のうち飛行艇に関しては、1機が修理中で5機は真珠湾攻撃を受けてミッドウェー島南東海域の哨戒に飛び立っており、4機はオアフ島へ移動途中、残りの2機は空母レキシントン」 (USS Lexington, CV-2) が輸送していた増援機の誘導のため不在であり、ミッドウェー破壊隊のいる西方海域に向かうものは1機もなかった[11]

経過[編集]

11月16日、南雲は小西、「潮」駆逐艦長上杉義男中佐、「漣」駆逐艦長上井宏中佐を旗艦「赤城」に招致して激励し、「潮」と「漣」は11月21日に佐伯湾を出港して横須賀に回航、準備のあと館山湾で「尻矢」と会合して作戦の打ち合わせと給油訓練を行った[12][13]。11月27日の夕食時にミッドウェー島砲撃作戦が公表され、艦内では一時間ばかりの無礼講による宴が開かれた[14]。この時点で「尻矢」は補給地点に先回りのため、すでに出港していた[15]

11月28日正午、ミッドウェー破壊隊は館山を出港[15]。12月2日に最初の燃料補給を行うことになっていたが[16]、補給地点にいるはずの「尻矢」の姿が見えないということで少しばかりの騒ぎとなった[17]。燃料不足に陥れば「ミッドウェー島に艦もろとも敵前上陸をするよりほかはない」[18]との話もささやかれ、小西は「尻矢」を真っ先に見つけた者に作戦終了後、一日の特別休暇を与えることを公表して乗組員は「尻矢」捜索に躍起となった[19]。しかし、「見張りが有利」との予想を覆して最初に「尻矢」を発見したのは、他ならぬ小西本人であった[19]。その後、12月4日と6日に燃料補給を行い、「尻矢」は反転して砲撃終了後の会合点に向かい、破壊隊はミッドウェー島に針路を向けた[20]。アメリカ側に発見されることもなくミッドウェー島に接近し、島影が低いため発見に難渋したものの[11]、12月8日17時47分に1万5千メートルの距離にミッドウェー島を発見し、戦闘配置が令された[11][21]。月の出ている夜だったが、月光がミッドウェー島のみを照らす状況であった[21][22]

18時31分、破壊隊はサンド島のアンテナに対して砲撃を開始[11][23]。最初の砲撃は5分間続き、「漣」ではアンテナの1つが傾斜したと判断した[23]。18時51分からサンド島の施設に対して二度目の砲撃が開始され、燃料タンクと航空機格納庫に命中弾を与えて炎上させた[23]。ミッドウェー島の海兵隊が裸のまま消火作業をやっている姿を見たとも伝えられ[22]、やがて探照灯を照らして反撃を行ってきたが破壊隊に被害なく、「潮」は108発、「漣」は193発発射ののち、19時25分に砲撃を終えて避退に移った[22]。破壊隊は12月10日に「尻矢」と会合して燃料補給を行い、12月17日にも燃料補給を行ったあと、12月21日に佐伯湾に帰投した[22][24]

大本営海軍部発表(昭和十六年十二月九日午前十時五十分)
帝国海軍艦艇は昨八日午後ミッドウエーを急襲、猛烈なる砲撃を加へ同島の飛行機格納庫、燃料庫などを炎上せしめたり、我方損害なし

[25]

アメリカ側の被害[編集]

具体的な被害としては、以下のとおりであった[2]

  • 死傷者4名
  • 飛行艇格納庫(屋根の部分)
  • サンド島の倉庫の大部焼失
  • 無線方位測定器破壊(パンアメリカン航空のもの)
  • 飛行艇1機大破

死傷者のうち、ジョージ・キャノン英語版海兵中尉は砲撃により負傷したもののリーダーシップを発揮して部下を落ち着かせたが、出血多量により絶命[26]。この功績により、キャノンは太平洋戦争における海兵隊員最初の名誉勲章が授けられた。

余波[編集]

かくして破壊隊によるミッドウェー島への砲撃は成功した。しかし、同じころに第一航空艦隊内ではいさかいが起こっていた。

真珠湾攻撃での損失は29機であり、これを見た連合艦隊司令部は次のような電文を送って、ミッドウェー島攻撃を促した。

連合艦隊電令作第十四号
機動部隊ハ帰路情況ノ許ス限リ「ミッドウェー」島ヲ空襲シ之ガ再度使用ヲ不可能ナラシムル如ク徹底的破壊ニ努ムベシ

[27]

南雲はこれに基づいて、12月10日に各艦に対して信号によりミッドウェー島攻撃の意思を伝えた[28]。これに先立ち、第一航空艦隊でもミッドウェー島攻撃の際には第五航空戦隊、「霧島」に駆逐艦「浦風」と「秋雲」を付することを内定していた[29]。ところが、命令に噛み付いた者が2人いた。第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将と第一航空艦隊航空甲参謀源田実中佐である。

これは命令であるから否応なく実施すべく麾下に命令を発したのであるが、私として甚だしく不愉快であった。機動部隊の全力を挙げて、ミッドウェーをたたくことは何でもないことだが、攻撃するなら組織的に一応の計画をてて、慎重にやるべきだ。当時の情勢としては、必ずしもミッドウェーをたたく必要もなく、また、たたいてみたところで土地をたたくまでのことである。これを帰りがけの駄賃に一稼ぎさせようという連合艦隊の出来心が気に食わない。
大冒険を決行し大戦果を挙げて意気揚々として引き揚げて来る機動部隊に対しては、脚下あしもとに気をつけて怪我をするなと面倒をみることこそ最高司令部の心構えでなければならない。

草鹿龍之介「連合艦隊」、[27]

疾風のように敵に近づき一撃を加え、うまくその所在を隠すことは、われの次の行動が判断できないので、敵は多大の不安を生じ混乱を続けるものである。事実米国では機動部隊が米本土西岸に現れるかも知れないと騒いだと聞いている。それなのに大した効果も期待できないミッドウェー島を攻撃して、われの所在を現わすことは、敵の立ち直りを早くするに過ぎないから、このまま所在を示さない方が有利と考えた。

草鹿龍之介(戦後の回想)、[30]

支那事変の経験から飛行機の陸上攻撃は不徹底で、到底連合艦隊の要求するような再度使用不能にするような方法は考えられなかった。
それより敵は混乱その極に達しているから、この際はむしろわが所在を秘匿しておく方が有利だと考えた。

源田実(戦後の回想)、[28]

しかし、悪天候が続いて補給ができない事態が続き、いつしか攻撃計画は忘れ去られた。そのことについて、不満をあらわにした者が2人いた。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は命令は絶対であるとして何度も信号で意見具申したが聞き入れられず、自ら航空機を操縦して「赤城」に向かおうとしたが、悪天候が続いていたため果たせなかった[注釈 3]。第八戦隊首席参謀藤田菊一中佐も日記の中で、避退だけを考えていた第一航空艦隊首脳は間違っていて、この件は連合艦隊の判断の方が正しかったと記している[28]。その後も悪天候から抜けることができず、12月14日にはミッドウェー島の北西に至ったので攻撃は遂に行われなかった[31]。南雲から攻撃断念の電文を受けた連合艦隊司令部は、代わってウェーク島の戦いへの協力を命じ、第一航空艦隊では「一応の計画」を盾に反発があったものの、最終的には第二航空戦隊などをウェーク島近海に派遣することとなった[32]

その後[編集]

「第一航空艦隊がこの時、ミッドウェー島を攻撃していたら」という「if」は問わないが、日本側からしてみればミッドウェー島は気になる存在であり続け、アメリカ側も航空機や人員などの補給を行って防備を固めた[2]。昭和17年1月22日に伊号第二四潜水艦(伊24)、2月上旬には伊号第六九潜水艦(伊69)と、潜水艦によって二度の砲撃を行った[2][33]。もっとも、伊24は5発程度撃っただけで猛烈な反撃を受けて潜航せざるを得ず、同時に砲撃しようと浮上した伊号第一八潜水艦(伊18)は反撃により一発も撃てず潜航を余儀なくされた[34]。昭和17年5月にいたって軍令部はミッドウェー島攻略を指令し、ミッドウェー海戦に突き進むこととなる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 演習上での開戦日は11月16日で、この場合は11月13日となる(#戦史10 pp.102-103)。
  2. ^ 機密機動部隊命令作一号「(略)此ノ場合ハ第五航空戦隊及第三戦隊二番艦ヲ(以下略)」(#戦史10 p.233)
  3. ^ 「これが巷間、山口司令官の真珠湾に対する第二撃意見具申として誤り伝えられているものであろう」(#戦史10 p.412)

出典[編集]

  1. ^ a b c #戦史43 p.564
  2. ^ a b c d e f g #戦史43 p.565
  3. ^ a b #戦史10 p.101
  4. ^ a b #戦史10 p.102
  5. ^ #戦史10 pp.102-103
  6. ^ #戦史10 p.173,175,233
  7. ^ #戦史10 p.233
  8. ^ #戦史10 p.232
  9. ^ a b #戦史10 p.173
  10. ^ a b c d e #戦史10 p.378
  11. ^ a b c d e #戦史10 p.363
  12. ^ #戦史10 p.279
  13. ^ #嶋崎 p.30
  14. ^ #嶋崎 pp.31-32
  15. ^ a b #嶋崎 p.32
  16. ^ #戦史10 p.280
  17. ^ #嶋崎 pp.33-34
  18. ^ #嶋崎 p.33
  19. ^ a b #嶋崎 p.34
  20. ^ #嶋崎 pp.34-36
  21. ^ a b #嶋崎 p.37
  22. ^ a b c d #戦史10 p.364
  23. ^ a b c #嶋崎 p.39
  24. ^ #嶋崎 pp.40-41
  25. ^ #富永 p.236
  26. ^ First Lieutenant George H. Cannon, USMC, (1915-1941)” (英語). Naval History and Heritage Command. US Navy. 2012年8月22日閲覧。
  27. ^ a b #戦史10 p.411
  28. ^ a b c #戦史10 p.412
  29. ^ #戦史10 p.273
  30. ^ #戦史10 pp.411-412
  31. ^ #戦史10 pp.412-414
  32. ^ #戦史10 pp.414-418
  33. ^ #橋本 pp.47-49, p.76
  34. ^ #橋本 pp.47-49

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]