マウロ・サラテ

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マウロ・サラテ
ウェストハム時代(2015年)
名前
本名 マウロ・マティアス・サラテ・リーガ
Mauro Matías Zárate Riga
ラテン文字 Mauro ZÁRATE
基本情報
国籍  チリ
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1987-03-18) 1987年3月18日(37歳)
出身地 ブエノスアイレス
身長 173cm
体重 73kg
選手情報
在籍チーム ブラジルの旗 アメリカ・ミネイロ
ポジション FW (ST)
背番号 99
利き足 右足
ユース
アルゼンチンの旗 ベレス
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2004-2007 アルゼンチンの旗 ベレス 99 (28)
2007-2009 カタールの旗 アル・サッド 6 (4)
2008 イングランドの旗 バーミンガム (loan) 14 (4)
2008-2009 イタリアの旗 ラツィオ (loan) 36 (13)
2009-2013 イタリアの旗 ラツィオ 68 (12)
2011-2012 イタリアの旗 インテル (loan) 22 (2)
2013-2014 アルゼンチンの旗 ベレス 29 (19)
2014-2016 イングランドの旗 ウェストハム 22 (5)
2015 イングランドの旗 QPR (loan) 4 (0)
2016-2017 イタリアの旗 フィオレンティーナ 22 (5)
2017-2018 イングランドの旗 ワトフォードFC 3 (0)
2017-2018 アラブ首長国連邦の旗 アル・ナスル (loan) 8 (3)
2018 アルゼンチンの旗 ベレス (loan) 13 (8)
2018-2021 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 42 (8)
2021 ブラジルの旗 アメリカ・ミネイロ 16 (1)
2021-2022 ブラジルの旗ジュベントゥージ 3 (1)
2022- アルゼンチンの旗CAプラテンセ
代表歴
2007 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 5 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。2021年7月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マウロ・マティアス・サラテ・リーガMauro Matias Zarate Riga, 1987年3月18日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス出身のサッカー選手。ポジションはフォワード

クラブ歴[編集]

キャリア初期[編集]

母国アルゼンチンのCAベレス・サルスフィエルドの下部組織で育ち、17歳の時にトップチーム昇格。2004年4月21日のアルセナルFC戦でデビュー。2006年前期リーグでは19試合12得点でロドリゴ・パラシオと共に得点王に輝いた。

2007年6月18日、カタール・リーグアル・サッドへ2年契約で移籍。FIFA U-20ワールドカップで9番を背負った優勝メンバーが、欧州やメキシコではなくカタール行きを決めたことに、アルゼンチンでは懐疑的な声が相次いだ[要出典]。わずか6試合に出場した後の2008年1月、プレミアリーグバーミンガム・シティFCレンタル移籍した。

バーミンガム[編集]

2008年1月29日のサンダーランドAFC戦でデビュー。3月22日のレディングFC戦で初ゴールを決めた。シーズン終了後にバーミンガムは2部に降格。レンタル期間終了に伴いサラテも新天地を求めた。

ラツィオ[編集]

2008年7月5日、セリエASSラツィオへ完全移籍オプション付きのレンタル移籍を果たす。8月31日のカリアリ・カルチョとの開幕戦でデビューし、2得点を挙げる活躍を見せる。5月13日に行われたコッパ・イタリア決勝ではUCサンプドリア相手にゴールを奪い、チームの優勝に貢献した。シーズン終了後、移籍金2000万ユーロでラツィオに完全移籍した[1]

インテル[編集]

2011年8月31日、買い取りオプション付きのレンタル移籍でインテルナツィオナーレ・ミラノに入団した[2][3]。ここではリーグ戦22試合出場でわずか2ゴールと結果を残せなかった。インテルが買い取りオプションを行使しなかったため、シーズン終了後ラツィオへ復帰した。

ラツィオ復帰[編集]

ラツィオ復帰後は出場機会はほとんどなく、2013年1月にウクライナ・プレミアリーグFCディナモ・キエフへの移籍が確実視されたが、破綻となり、自身のTwitterクラウディオ・ロティート会長を批判した[4]

ウェストハム[編集]

2014年5月28日、ウェストハム・ユナイテッドFCに移籍し、6年ぶりにプレミアリーグに復帰した[5]

QPR[編集]

2015年1月6日、クイーンズ・パーク・レンジャーズFCへレンタル移籍した[6]

フィオレンティーナ[編集]

2016年1月21日、ACFフィオレンティーナに移籍した。

ワトフォード[編集]

2017年1月25日、ワトフォードFCと2年半の契約を結びプレミアリーグに復帰した[7]。加入後はスタメンに名を連ね続けたが、2月25日に行われたウェストハム戦において前半終了間際に膝を負傷。痛みによって意識を失い酸素マスクを装着し搬送された。その後自身のInstagramで前十字靭帯断裂の診断を受けたことを明かした[8]

翌シーズンには復帰を果たすもマルコ・シルヴァ新監督の下では出場機会を得られず、10月2日にアラビアン・ガルフ・リーグアル・ナスルへのシーズンローンが決定した[9]。翌年1月にワトフォードが呼び戻せるオプションが付帯している。

ボカ・ジュニアーズ[編集]

2018年7月6日、ボカ・ジュニアーズに移籍した[10]

アメリカ・ミネイロ[編集]

2021年8月30日、アメリカ・ミネイロに移籍した[11]

代表歴[編集]

代表としてはU-20アルゼンチン代表として2007 FIFA U-20ワールドカップに出場し優勝した経験があるが、A代表からの招集はない。母がカラブリア州カタンザーロ県出身でイタリア国籍も有しているため、イタリア代表入りを望む声もあったが、本人はアルゼンチン代表入りを目指していた。

しかし、アルゼンチン代表にはリオネル・メッシセルヒオ・アグエロ等の優秀なFWがいたため一度も招集されず、2014年10月に祖父の祖国であるチリ代表でプレーすることを決意した[12]

人物[編集]

ブエノスアイレスの裕福なサッカー一家で育つ。祖父のフベナルはチリ代表としてプレー、父のセルジオはCAインデペンディエンテアンコーナ・カルチョでプレーした元プロサッカー選手。また、サラテ自身を含め、5人いる兄弟のうち4人がサッカー選手である[13]。9歳上の兄ロランド・サラテは現在CAウラカンに所属。17歳上の兄セルヒオ・サラテCAベレス・サルスフィエルドなどでプレーし2003年に引退、現在はサラテの代理人を務めている。

メトロセクシャルであることをカミングアウトしている。フェイス用のクリームやボディークリームをいくつも使っており、コロンもTPOに応じて使い分けている。また、全身のむだ毛処理にも余念がないという。

タイトル[編集]

クラブ[編集]

ベレス
ラツィオ
ボカ・ジュニアーズ

代表[編集]

アルゼンチン U-20

個人[編集]

個人成績[編集]

クラブ シーズン リーグ 背番号 リーグ戦 カップ戦 欧州カップ戦 合計
試合 得点 試合 得点 試合 得点 試合 得点
ベレス 2003-04 プリメーラ - 5 1 0 0 0 0 5 1
2004-05 - 14 2 0 0 0 0 14 2
2005-06 - 24 3 0 0 12 3 36 6
2006-07 9 32 16 0 0 12 3 44 19
合計 75 22 0 0 24 6 99 29
アル・サッド 2007-08 スターズリーグ - 6 4 0 0 0 0 6 4
合計 6 4 0 0 0 0 6 4
バーミンガム 2007-08 プレミア 19 14 4 0 0 0 0 14 4
合計 14 4 0 0 0 0 14 4
ラツィオ 2008-09 セリエA 10 36 13 5 3 0 0 41 16
2009-10 10 32 3 3 1 7 4 42 8
2010-11 10 35 9 1 0 0 0 36 9
合計 103 25 9 4 7 4 119 33
インテル 2011-12 セリエA 28 22 2 2 0 7 2 31 3
合計 22 2 2 0 7 2 31 3
ラツィオ 2012-13 セリエA 1 0 0 0 4 0 5 0
合計 1 0 0 0 4 0 5 0
ベレス 2013-14 プリメーラ 35 18 1 0 7 2 43 20
合計 35 18 1 0 7 2 43 20
ウェストハム 2014-15 プレミア 10 7 2 1 0 0 0 8 2
合計 7 2 1 0 0 0 8 2
QPR 2014-15 プレミア 29 4 0 0 0 0 0 4 0
合計 4 0 0 0 0 0 4 0
ウェストハム 2015-16 プレミア 10 15 3 2 1 4 1 21 5
合計 15 3 2 1 4 1 21 5
フィオレンティーナ 2015-16 セリエA 7 13 3 0 0 2 0 15 3
合計 13 3 0 0 2 0 15 3
総合計 289 82 15 5 57 14 361 103

(2016年7月9日更新)

脚注[編集]

外部リンク[編集]