イグナシオ・スコッコ

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イグナシオ・スコッコ
名前
本名 イグナシオ・マルティン・スコッコ
Ignacio Martín Scocco
ラテン文字 Ignacio SCOCCO
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1985-05-29) 1985年5月29日(38歳)
出身地 サンタフェ
身長 176cm
体重 72kg
選手情報
ポジション FW / MF (CF, RWG, OMF)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2003-2006 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ 76 (16)
2006-2008 メキシコの旗 UNAM 53 (18)
2008-2011 ギリシャの旗 AEKアテネ 88 (26)
2011-2013 アラブ首長国連邦の旗 アル・アイン 19 (9)
2012-2013 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ (loan) 33 (24)
2013-2014 ブラジルの旗 インテルナシオナウ 17 (3)
2014 イングランドの旗 サンダーランド 6 (0)
2014-2017 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ 74 (24)
2017-2020 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 52 (20)
2020-2021 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ 19 (4)
通算 438 (145)
代表歴
2004-2006 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 12 (3)
2012 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 1 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

イグナシオ・マルティン・スコッコIgnacio Martín Scocco, 1985年5月29日 - )は、アルゼンチンサンタフェ出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(ウイング)、攻撃的ミッドフィールダー

経歴[編集]

クラブ[編集]

ニューウェルズ[編集]

ニューウェルズ・オールドボーイズの下部組織出身であり、19歳の時にCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でトップチームデビューした。フェルナンド・ベルスキアリエル・オルテガなどとともにプレーし、2004アペルトゥーラではリーグ優勝を経験。ボカ・ジュニアーズ戦 (1-0) では82分に決勝点を挙げるなど、重要な試合で得点を挙げて優勝に貢献した。2006クラウスーラでは18試合に出場して9得点した。2006年のコパ・リベルタドーレスでは5試合に先発出場して4得点を挙げたが、グループリーグ敗退という結果に終わった。

UNAMプーマス[編集]

2006年、メヒコ・プリメーラ・ディビシオンUNAMプーマスに移籍した。移籍金は350万ドル。UNAMプーマスはリカルド・フェレッティ英語版監督が就任し、ストライカーのホアキン・ボテーロブルーノ・マリオーニを放出したため、代役となる選手を探していた。スコッコはチアパスFC戦でデビューし、2戦目のティブロネス・ロホス・デ・ベラクルス戦ではゴールキックからのプレーで移籍後初得点を挙げた。ケレタロFC戦ではハットトリックを達成。4-2で勝利したベラクルス戦で、UNAMプーマスでの最後の得点を決めた。UNAMプーマスでは主にエステバン・ソラーリとコンビを組み、74試合に出場して28得点を挙げた。

AEKアテネ[編集]

2008年6月18日、ギリシャ・スーパーリーグAEKアテネFCと3年契約を結んだ。移籍金は150万ユーロであり、年俸は40万ユーロである[1]。スコッコにとって初のヨーロッパ挑戦であり、AEKに在籍した4人目(1人目はセバスティアン・サハ英語版、2人目はイスマエル・ブランコ英語版、3人目はクリスティアン・ナスティ英語版)のアルゼンチン人選手となった。主に右ウイングとして起用され、自身が好むセカンドストライカーとしても起用されることもあった。スーパーリーグやUEFAヨーロッパリーグで活躍し、セリエAACFフィオレンティーナウディネーゼ・カルチョジェノアCFCなどから興味を示された。2010年1月6日にスタディオ・ヨルギオス・カライスカキスで行われたオリンピアコスFC戦 (2-1) では、40ヤード(約37m)の距離からの直接フリーキックによる得点を含む2得点を挙げ、マン・オブ・ザ・マッチに選出された。このゴールはシーズンで最も優れたゴールのひとつとされ、オリンピアコス戦の翌週のアトロミトスFC戦やパナシナイコスFC戦でも得点した。パントラキコスFC戦ではゴールを決め、パニオニオスFC戦 (1-1) では試合終了の1分前に劇的な直接フリーキックを決めた。9月16日、UEFAヨーロッパリーグのハイドゥク・スプリト戦 (3-1) では2010-11シーズン初得点を決めた。ハイデュク戦の3日後のアステラス・トリポリスFC戦では30ヤード(約27m)の距離からミドルシュートを決めた。10月17日、アリス・テッサロニキFC戦 (4-0) では40ヤードの距離からミドルシュートを決め、さらに味方の得点をアシストした。11月25日、AEKと新たに3年契約を結び、2013年まで契約を延長した。年俸は100万ユーロに上昇し、ギリシャ国外のクラブが獲得を望んだ場合の違約金は300万ユーロに設定された[2]。2011年5月18日、PAOKテッサロニキ戦 (2-1) では38ヤード(約35m)の距離からミドルシュートを決めた。

アル・アイン[編集]

2011年6月、UAEリーグアル・アインFCに移籍。移籍金は280万ユーロであり、年俸は480万ユーロである。2011-12シーズンには17試合で8得点を挙げ、チームはリーグ優勝を果たしたが、家族の問題により新契約を結ばずにUAEを離れた。

2度目のニューウェルズ[編集]

2012年、古巣ニューウェルズに移籍した。イニシアル2012では、序盤戦から得点を積み重ねて首位を走るチームを支え、最終的に優勝は逃したものの、自身は13得点を挙げてファクンド・フェレイラCAベレス・サルスフィエルド)と同点で得点王のタイトルを獲得した。

サンダーランドAFC[編集]

2014年1月、サンダーランドAFCへ移籍した。

3度目のニューウェルズ[編集]

2014年7月23日、ニューウェルズに1年ぶりに復帰した[3]

リーベル・プレート[編集]

2017年6月29日、FCゼニト・サンクトペテルブルクへ移籍したセバスティアン・ドリウッシの後釜としてCAリーベル・プレートと3年契約を交わしたことが発表された[4]ヘルマン・ルクスハビエル・ピノラに続く同夏3人目の新加入選手となった。

代表[編集]

U-20代表[編集]

2004年7月27日、コロンビア戦でU-20アルゼンチン代表デビューした。11月3日にはパラグアイ戦 (2-0) で2キャップ目を飾り、77分に初得点を挙げた。2005年には、リオネル・メッシセルヒオ・アグエロなどとともにFIFA U-20ワールドカップのメンバーに選出され、ウズベキスタン戦とマリ戦の2試合に出場した。U-20代表では通算12試合に出場して3得点した。

A代表[編集]

2005年4月5日、アルゼンチンA代表ホセ・ペケルマン監督はチリとの親善試合にスコッコを招集したが、チリ戦で出場機会はなかった。同年6月3日、プエルトリコとの親善試合に再び招集されたが、ハムストリングを痛めて2週間戦線離脱し、プエルトリコ戦ではベンチ入りしなかった。2008年2月6日、アルフィオ・バシーレ監督はグアテマラとの非公式親善試合にスコッコを招集し、エセキエル・ラベッシとの交代で20分間プレーした。同年8月にはベネズエラ戦のメンバーに含まれた。2012年11月、アレハンドロ・サベーラ監督はスーペルクラシコ・デ・ラス・アメリカスセカンドレグのためにスコッコを招集し、11月21日のブラジル戦 (2-1) で公式戦デビューすると、90分間で2得点した他にPK戦でPKを決めた。

人物[編集]

アルゼンチン人モデルのメリッサ・ポチェッティーノと結婚しており、ひとりの娘がいる。ニューウェルズ時代にチームメイトだったフェルナンド・ベルスキは親友であり、ベルスキはスコッコの娘の名付け親である。スコッコはベルスキの結婚式で、またベルスキはスコッコの結婚式で花婿付添人を務めた。

タイトル[編集]

クラブ[編集]

ニューウェルズ
AEKアテネ
アル・アイン
リーベルプレート

個人[編集]

個人成績[編集]

クラブでの出場記録[編集]

2012年2月12日時点
シーズン クラブ リーグ 出場 得点
2003-04 ニューウェルズ プリメーラ 5 0
2004-05 34 3
2005-06 36 13
2006-07 UNAM プリメーラ 32 11
2007-08 34 12
2008-09 AEKアテネ スーパーリーグ 32 7
2009-10 30 11
2010-11 20 9
2011-12 アル・アイン UAEリーグ 17 8
2012-13 ニューウェルズ プリメーラ 17 13
通算 257 87

代表での得点[編集]

# 日付 場所 対戦相手 スコア 結果 大会
1. 2012年11月21日 ブエノスアイレス, ラ・ボンボネーラ ブラジルの旗 ブラジル 1-0 2-1 スーペルクラシコ・デ・ラス・アメリカス 2012
2. 2-1

脚注[編集]

外部リンク[編集]