ボゴール

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ボゴール
Kota Bogor
インドネシアの旗
Istana Bogor.jpg
Bogor presidential palace
Bogor coa.png
市章
愛称 : Kota Hujan (City of Rain)
位置
西ジャワ州の地図、ボゴール市(ピンク色の部分)(Kota Bogor)の位置図
西ジャワ州の地図、ボゴール市(ピンク色の部分)(Kota Bogor)
座標 : 南緯6度36分 東経106度48分 / 南緯6.600度 東経106.800度 / -6.600; 106.800
行政
インドネシアの旗 インドネシア
  西ジャワ州
 市 ボゴール
市長 Diani Budiarto
地理
面積  
  市域 21.56km2
人口
人口 (2007年現在)
  市域 866,034人
その他
等時帯 インドネシア時間UTC+7
夏時間 なし
市外局番 0251
公式ウェブサイト : http://www.kotabogor.go.id/

ボゴール(Bogor)はインドネシア西ジャワ州の都市。人口は約86.6万人(2007年)。ジャボデタベック都市圏の一部を形成し、周辺をボゴール県英語版に囲まれている。

ボゴールには、大統領宮殿、ボゴール植物園ボゴール農科大学国際林業研究センター英語: CIFOR)などがある。

ボゴールは「雨の町」(Kota Hujan)ともよばれ、乾季の間でも雨が多い。

この年は、1945年8月17日まで、バウテンゾルグ(Buitenzorg)と呼ばれていた。

歴史[編集]

スンダ王国の首都は、パクアン・パジャジャランにあった。

前植民地時代[編集]

バウテンゾルグ近郊にあるパクアン・パジャジャランの位置を示すオランダの地図


現在のボゴールに人が定住したのは、5世紀のタルマヌガラ王国の時代だと言われている[1][2][3]。近隣のシュリーヴィジャヤ王国との幾たびかの争いを通じて、タルマヌガラ王国スンダ王国に替わった。669年、スンダ王国の首都が、チリウン川チサダネ川の間に建設され、「パクアン・パジャジャラン」と名付けられた。これは古スンダ語で「平行した(川)の間の土地」という意味である。これが、現在のボゴールの先祖となった[4][5]

1600年前のタルマヌガラ王国時代の石に刻まれた碑文である「プラサスティ」。

続く数世紀の間、パクアン・パジャジャランは、中世インドネシアの最大の都市の一つとなり、その人口は、48000人に達した[5]。パジャジャランという名前は、王国の名前としても使われ、首都は、単にパクアンと呼ばれた[5][6][7][8][9]。この時代の歴史は、公的、宗教的な目的で使われるサンスクリットで書かれている。その書体は、インドのパッラヴァ朝の文字を使用し、岩の上にほられている。これは、プラサスティと呼ばれている[2][10]。ボゴール周辺で見付かったプラサスティは、形の上でも文書のスタイルもインドネシアの他の地域で見付かったのとは違っている。このプラサスティは、ボゴールの重要な見所の一つとなっている[2]

9~15世紀の間、首都は、パクアンと王国の他の都市の間で動いていたが、シルワンギ王(Sri Baduga Maharaja)の戴冠式の日、1482年6月3日に、パクアンに戻ってきた。1973年以降、この日はボゴールの市の祝日として祝われている[11][12]

1579年、パクアンは、バンテン王国に占領され、殆ど完全に破壊され、スンダ王国は消滅した[13]。この街は捨てられ、数十年間無人の地となったのである[5][11]

植民地時代[編集]

オランダ東インド会社[編集]

17世紀後半、他の西ジャワと同じく、パクアンは、公式には、バンテン王国の支配下であったが、次第に、オランダ東インド会社(VOC)の統治下にはいていった。公式な移行は、1684年4月17日、バタヴィアの王太子とVOCとの間に成立した条約によってである[14]

最初の、そして、一時的なパクアンにおける定住は、タヌウィジャヤ中尉によるキャンプである。かれは、VOCに雇われたスンダ人で、1687年にこの地を開発するために派遣された[7][14][15]1699年1月4日から5日にかけてのサラク火山 (インドネシア語: Gunung Salak)による噴火により、大変な被害を受けた。しかし、森林火災が多くの樹木を灰にしたので、稲田や、コーヒープランテーションの用地を残した[7]。短期間に、パクアン周辺で、いくつかの農業地開発が行われ、中でも最大なのが「カンプン・バリ」(新しい村)であった[2]1701年に、行政地区を創設し、タヌウィジャヤがこの地の長官に選ばれた。彼は、現在のボゴール県の創始者とみなされている[14][15]

1907年、総督の住まいとして使われていたボゴールの宮殿

1703年に、VOCの総監アブラハム・ファン・リーベックケープ・タウンの創始者で、VOCの総督となったヤン・ファン・リーベックの息子)を長とする探検が進められると、この地の開発がさらに進んだ[7][14]。ファン・リーベックの探検は、パクアン遺跡の詳細な研究をもたらし、多くの考古学調査と発見がなされた。その中には、プラサティも含まれる。また、VOCの従業員のための住まいも建てられた[15]。行政の中心でありながら、暑いバタヴィアと比べて、この地は、その地理的条件と穏やかな気候から、オランダ人に好まれた[15]1744年から1745年に、パクアンに、総督の住まいが建設され、夏の間、ここに住むようになった。

1746年、総督グスターフ・ウレム・ファン・インホフの命令により、オランダ人居住区と九つの現地人居住区が一つの行政区画に統一して宮殿が建てられ、「バウテンゾルグ」と名付けられた。これは、オランダ語で「憂いの外」という意味で、プロイセンフリードリッヒ大王ポツダムの近郊に夏の宮殿として建てた「サンスーシー」と同じ意味である(ちなみに日本では「無憂宮」と訳される)[16][17]。ほぼ同じ時期に、この地の地方名としての「ボゴール」という名前が始めて記録に表れる[18]1752年4月7日の行政報告に、宮殿に隣接するバウテンゾルグ一部として記載されている。後に、この名前は、バウテンゾルグにかわり、街全体を指すこの土地の別の名前として使われるようになった[16]。この名前は、元来は、砂糖椰子(Arenga pinnata)を指す「BOGOR」というジャワ語から来ていると信じられており、現在でもインドネシア語で使われている[18][19]。別の説では、古ジャワ語でを意味する「bhagar」から来たとも、この地の住人が「Buitenzorg」のスペルを書き違えたことからきたとも言われている[18]

18世紀後半から19世紀にかけて、この街は急速に発展した[15]。この発展を部分的に刺激した理由の一つには、イギリスによる占領がある。1811年から1815年にかけて、オランダ領インドは、イギリスによって占領された。当時オランダを占領していたナポレオンのフランスの領土になるのを妨げるために、イギリスは、ジャワと他のスンダ諸島に上陸した。イギリス行政の長であったスタンフォード・ラッセルは行政の中心をバタヴィアからバウテンゾルグに移動し、新しい効率的な行政方法を導入した[15][20]

オランダ王国の支配[編集]

1920年代、バウテンゾルグ植物園から見るサラク火山

バウテンゾルグが、オランダに返還された後、この地は、VOCというよりもオランダ王国の支配下にはいった。バウテンゾルグの宮殿は、総督の夏の住居として復元された。1817年には、側に植物園が設置された。これは19世紀には、世界最大の植物園だった[15][16][21][22]

1834年10月10日、地震によって引き起こされたサラク火山の噴火により、バウテンゾルグは重大な被害を蒙った[15][23]。この地の地震活動を考慮にいれて、以前の建造物に比べて、1840年から50年にかけて、総督の宮殿も行政の建物もより短期間に丈夫に建てられた[15]1845年の総督の規定により、ヨーロッパ人、中国人とアラブ人の市内の居住地は分けられることになった[15]1860年から1880年に、バウテンゾルグに、植民地最大の農業学校が建てられた。市図書館、自然科学博物館、生物、化学と獣医学研究所を含めた他の科学研究所もこの時期に設立された。19世紀の終わりまでに、バウテンゾルグは、インドネシアの中で最も発達し、西欧化された都市の一つになった[7][15]

1904年、バウテンゾルグは、公式にオランダ領東インドの行政中心となった。しかし、実質の行政は、バタヴィアに残されていた。バタヴィアには、行政組織のほとんどと、知事の主要な事務所が残されていた[2][16]。この状況は、1924年の行政改革によって変革された。この改革により、植民地を州に分割し、バウテンゾルグは、西ジャワ州の中心とされた[2]

1942年から1950年[編集]

第二次世界大戦初頭、バウテンゾルグ上空を飛ぶオランダ空軍機
ボゴールに於ける、パスンダン州知事のR. A. A. ムハッラムとその秘書(1948年

第二次世界大戦の間、バウテンゾルグとオランダ領東インドの全域は、日本の支配下になった。この占領は1942年3月6日から1945年の夏まで続いた[24]。地元の人々の愛国心を盛り上げる(また、オランダに対する反抗心を盛り上げる)日本の努力の一つとして、この街に、「ボゴール」という名前が与えられた[22]。この町は、インドネシア軍であるPETA(Pembela Tanah Air、祖国の守護者)の主要な訓練センターの一つでもあった[25]

1945年8月17日スカルノハッタは独立を宣言した。しかし、オランダは街や他の地域の支配を恢復した。1948年2月に、ボゴールは、西ジャワの半独立の地域に組み込まれた(インドネシア語:Negara Jawa Barat)。これは、1948年4月に、パスンダンと名称を変更した(インドネシア語:Negara Pasundan)。この州は、オランダにより造られたもので、以前の植民地を、オランダを中心とする連邦に組み込むためのものだった[26][27]。1949年12月に、パスンダンは、1949年8月23日から11月2日に行われた、オランダ-インドネシア円卓会議によって造られたインドネシア連邦共和国(インドネシア語:Repubulik Indonesia Serikat, RIS)に参加した[27][28]1950年2月には、インドネシア共和国軍との争いに負けた結果として、パスンダンは、インドネシアの一部となり、1950年8月には正式に国の一部となり[27][28]、地名も正式にボゴールとなった[11][29]

インドネシアの一部として[編集]

独立したインドネシアの一部として、ボゴールは、植民地時代に造られた基盤があったこともあり、国のそして、西ジャワの文化、科学、経済発展に重要な役割を果たしている。植民地時代の総督の夏の宮殿が、インドネシア大統領の夏の宮殿に変えられたことも、この特別な地位を強化した[7][30]1990年代から2000年代に、この街では、定期的に多くの国際的な行事が行われている。例えば、アジア・太平洋研究所の大臣レヴェルの会合や、1994年11月15日に開催されたAPECなどがそれである[31]2008年以降、新しいキリスト教の教会を建てることでイスラーム原理主義者との争いが起きている[32]

交通[編集]

鉄道

蘭印政府の設立の国鉄によりバタビア(現ジャカルタ)-バイテンゾルフ(現ボゴール)は1873年に開通した。この路線は1884年バンドンまで延長され、1884-1888年スラバヤからマディウン-ソロ-ジョグジャカルタへ路線が開通、その後も延長され1894年ジャカルタ~スラバヤ間は蘭印鉄道会社と蘭印国鉄を乗り継ぐ事で鉄道で結ばれた。1930年には直流1500Vに電化された。

現在は、ジャカルタ-ボゴール間はKRLジャボタベック、バゴール~バンドン方面はインドネシア鉄道会社(PT. Kereta Api)で運行されている。KRLジャボタベックの「ボゴール駅」とPT. Kereta Apiの「ボゴール・パレタン駅」は約200m離れている。

姉妹都市[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Yoseph Iskandar (1997) (Indonesian). Sejarah Jawa Barat: Yuganing Rajakawasa. Bandung: Geger Sunten. 
  2. ^ a b c d e f History of Bogor City”. 2010年5月28日閲覧。
  3. ^ Pandji R. Hadinoto. “Jakarta : Lima Belas Abad Menghadang Banjir” (Indonesian). 2010年5月28日閲覧。
  4. ^ Pakuan ibukota Kerajaan Sunda” (Indonesian). 2010年5月28日閲覧。
  5. ^ a b c d Bogor Tunas Pajajaran” (Indonesian). 2010年5月29日閲覧。
  6. ^ Sundanese people” (Russian). Etnolog.ru. 2010年5月28日閲覧。
  7. ^ a b c d e f Asal dan arti nama Pakuan” (Indonesian). 2010年5月29日閲覧。
  8. ^ Юго-Восточной Азии цивилизация (Civilization of South-East Asia)” (Russian). Kolier Encyclopedia. 2010年6月18日閲覧。
  9. ^ Vladmir Bulat. “Political map of Eurasia, 700 AD”. 2010年6月18日閲覧。
  10. ^ Bogor” (Russian). Great Soviet Encyclopedia. 2010年6月17日閲覧。
  11. ^ a b c Sejarah pemerintahan di kota Bogor” (Indonesian). Pemerintah Kota Bogor. 2010年5月17日閲覧。
  12. ^ Sejarah kota Bogor” (Indonesian). 2010年6月21日閲覧。
  13. ^ (Russian) Всемирная история (World History). 4. Moscow: Мысль. (1958). p. 654. 
  14. ^ a b c d Peraturan Daerah Kota Depok nomor 01 tahun 1999 (PDF)” (Indonesian). Walikota Depok (1999年). 2010年6月21日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g h i j k Cerita perjalanan” (Indonesian). 2010年6月21日閲覧。
  16. ^ a b c d Buitenzorg”. Encyclopædia Britannica Online (1911年). 2010年11月1日閲覧。
  17. ^ Sejarah wilayah Bogor”. 2010年6月17日閲覧。
  18. ^ a b c Pembukaan. 1. Asal dan Arti Nama Bogor” (Indonesian). 2010年10月1日閲覧。
  19. ^ (Indonesian) Kamus Besar Bahasa Indonesia. Jakarta: Balai Pustaka. (1996). p. 140. 
  20. ^ RAFFLES, Thomas Stamford. The History of Java”. 2010年6月16日閲覧。
  21. ^ Sharon E. Kingsland (2005) The evolution of American ecology, 1890–2000 ISBN 0-8018-8171-4, p. 30
  22. ^ a b V. M. Kotlyakov: “Богор” (Russian). Yekaterinburg: Dictionary of modern geographical names (2006年). 2010年5月28日閲覧。
  23. ^ Bogor Palace to hold open house for city anniversary celebration”. Jakarta Post (2010年3月6日). 2010年6月21日閲覧。
  24. ^ Edwin Solahuddin (2009年2月28日). “Japanese Invaded Java”. VIVA news. 2010年6月16日閲覧。
  25. ^ Sejarah Perjuangan Ummat Islam Indonesia” (Indonesian) (2004年1月6日). 2010年6月16日閲覧。
  26. ^ Indonesian States 1946–1950”. Ben Cahoon. 2010年6月16日閲覧。
  27. ^ a b c Всемирная история. 12. Moscow: Мысль. (1979). pp. 356–359. 
  28. ^ a b К. Pimanov. “Indonesia” (Russian). Энциклопедия "Кругосвет" (Encycloopedia Krugosvet). 2010年6月16日閲覧。
  29. ^ Undang-Undang no. 16 tahun 1950 tentang pembentukan daerah-daerah kota besar dalam lingkungan propinsi Djawa Timur, Djawa Tengah, Djawa Barat dan dalam daerah istimewa Jogjakarta (Law of Indonesia No. 16 1950 on creation of settlements in Eastern Java, Central Java, Wester, Java and Jacarta)” (Indonesian). 2010年6月16日閲覧。
  30. ^ Istana Bogor” (Indonesian). 2010年6月16日閲覧。
  31. ^ APEC Economic Leaders' Declaration of Common Resolve”. 2010年6月16日閲覧。
  32. ^ Haryanto, Ulma (2011年1月15日). “Delight After Indonesia's Highest Court Backs Bogor Church”. Jakarta Globe. http://www.thejakartaglobe.com/home/delight-after-indonesias-highest-court-backs-bogor-church/417128 2011年1月16日閲覧。 

外部リンク[編集]