バーナード・リーチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

バーナード・リーチBernard Howell Leach1887年1月5日 - 1979年5月6日)は、イギリス人の陶芸家であり、画家デザイナーとしても知られる。日本をたびたび訪問し、白樺派民芸運動にも関わりが深い。日本民藝館の設立にあたり、柳宗悦に協力した。

経歴[編集]

1887年(明治20年)、植民地官僚だったイギリス人イギリス人の間に香港で生まれた。母は出産で死去したため日本にいた母方の祖父に引き取られ、関西に住んだ。リーチの祖父は京都第三中学校彦根中学校で英語教師をしていた。来日から4年後、植民地官僚だった父の再婚にともない香港に戻ったが、1895年、父の転勤でシンガポールへ移った。1897年、イギリス本土に移され教育を受ける。

1903年、芸術家を志してロンドンスレード美術学校に入学するが翌年父が死んだため銀行員となり、1907年からロンドン美術学校エッチングの技法を学んだ。そのとき、ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に郷愁を抱くようになり、1909年(明治42年)、日本へ戻って東京・上野に居を構えた。リーチは生涯の友となる柳宗悦をはじめ白樺派の青年達と知り合いになり、1917年には彼らの本拠であった我孫子にて版画指導を行った他、イギリスで起こったウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動など西洋芸術についての議論を通して手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合った。またリーチは富本憲吉と知り合い、富本とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼の絵付けを始めたことをきっかけに茶道や茶道具に惹かれた。1912年に6代尾形乾山に陶芸を学び、中国から戻った1917年、我孫子の柳の家に窯を開いて陶芸家としての一歩を踏み出した。後に7代乾山の名を免許された。

この時リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、リーチは1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスに移り日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いた。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮日本中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターした。

彼らは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていたが西洋人の多くは陶芸を一段低い芸術と考え、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしていた。1934年、リーチはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し再び来日し日本民藝館設立を目指していた柳に協力した。イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はリーチの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を明らかにした本でリーチの名を知らしめるもとになった。

リーチは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護した。リーチは陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えた。このため、リーチの制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカ合衆国カウンターカルチャーモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼした。リーチは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望していた。世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていった。例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(Warren MacKenzie、彼もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいる。ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しリーチと働いて大きな影響を受けた。また長年リーチの助手だったマイケル・カーデューオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めた。またたびたび来日し各地で作陶したほか、『Unknown Craftsman』(知られざる職人)などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介、展覧会も開きその理論を解説した。

リーチは1940年、アメリカ人画家マーク・トビーとの交友を通じバハーイー教に入信していた。1954年イスラエルハイファにある寺院に巡礼に行ったリーチは、「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したい」との感を強くした[1]

リーチは1972年まで制作を続け、なお世界を旅して回ることをやめようとしなかった。また、リーチは視力を失っても陶芸に関する著述をやめなかった。1963年大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年には国際交流基金賞を受賞した。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館1977年にリーチの大規模回顧展を開いたが、リーチはその2年後逝去した。リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、リーチやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。

参考文献[編集]

  • 鈴木禎宏 『バーナード・リーチの生涯と芸術』 ミネルヴァ書房、2006年
  • バーナード・リーチ述 柳宗悦編著 『焼物の本』 共同通信社、 1985年
  • バーナード・リーチ・福田陸太郎訳  『バーナード・リーチ詩画集』五月書房 、1974年
  • バーナード・リーチ・福田陸太郎訳  『東と西を超えて 自伝的回想』 日本経済新聞出版社 1982年
  • 『バーナード・リーチ日本絵日記』 柳宗悦訳、水尾比呂志補訳 講談社学術文庫 2002年
    • エドモンド・ドゥ・ヴァール 『バーナード・リーチ再考』 金子賢治ほか訳 思文閣出版 2007年 ※論議を呼んだ大著。

脚注[編集]

  1. ^ Weinberg, Robert (ed.)(1999). Spinning the Clay into Stars, Bernard Leach and the Bahá'í Faith. pp. 21 & 29. George Ronald, Oxford. ISBN 0-85398-440-9

関連項目[編集]

外部リンク[編集]