テックス・アヴェリー

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テックス・アヴェリー(Frederick Bean "Fred/Tex" Avery、1908年2月26日 - 1980年8月26日)は、アメリカ合衆国テキサス州出身のアニメーターハリウッドにおけるカートゥーン黄金時代を築いたアニメーター、アニメ監督のひとり。

ワーナー・ブラザーズメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)のために最高の仕事をし、バッグス・バニーダフィー・ダックドルーピーなどの人気キャラクターを生み出した。1940年代から1950年代のほとんど全てのカートゥーンに彼の影響を見ることが出来る。

ファミリーネームの仮名表記にはエイヴリー(エイブリー)やアベリーとされているものもある。実際の発音は「エイヴァリー」に近い。

特徴[編集]

彼のスタイルは、ウォルト・ディズニーによって確立されたウルトラ・リアリズム映画白雪姫』などに見られる、実写フィルムから1コマずつセルを描き起こし、フルアニメーションを作成する手法)をぶち壊し、実写映画の亜流になりかけていたアニメーションをその限界から解き放つものであった。彼の残した有名な言葉に「カートゥーンの世界では不可能なことなど無い」があり、彼の作品は文字通りそれを実践したものであった。

彼の作品の中では、人格をもつキャラクターを含む全ての物体が、ゴムのように自在に伸び縮みし、ガラスのように砕け、鋼鉄のように固くなった。また物理法則はやすやすと無視され、どんな暴力が行われても(たとえ腹中に飲み込んだダイナマイトが爆発しても)キャラクターが死ぬことはなかった。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

テックス・アヴェリーは、テキサス州テイラー(Taylor)の町で、アラバマ州生まれの父ジョージ・ウォルトン・アヴェリーとミシシッピ州生まれの母メアリー・オーガスタ・「ジェシー」・ビーンの間に生まれた。彼の先祖はロイ・ビーン(Roy Bean、テキサスのバーのマスターで治安判事(justice of the peace)として数々の伝説を残した人物)と言われ、さらに家族はダニエル・ブーンの末裔であると自称していたがどちらも定かではない。

アヴェリーはテイラーで育ち当地の高校を出た。高校での流行り言葉だった「What's up, doc?」は、後に1940年代の『ルーニー・テューンズ』でのバッグス・バニーの台詞「どったの、センセー?(What's up, doc?)」に流用されている。

アヴェリーは1930年代初頭、ウォルター・ランツ・スタジオ(Walter Lantz studio)で『Oswald the Lucky Rabbit』の製作にかかわり、アニメーターとしての最初の一歩を踏み出している。このスタジオ勤務時代、スタジオでのバカ騒ぎの最中にアヴェリーの左目に紙バサミが飛び込み、以降左目の視力をほとんど失った。このため彼は立体的な視野や奥行きの感覚を失い、結果奇妙なアニメーションのキャラクターデザインや演出が生まれたと見る者もいる。

「ターマイト・テラス」[編集]

アヴェリーは1935年末にレオン・シュレジンガー・スタジオ(Leon Schlesinger studio)に移ったが、初対面のレオン・シュレジンガーを相手に、自分自身をアニメーター達のユニットの責任者にして自分の作りたいアニメーションを作らせてほしいと説得する。シュレジンガーは納得させられてしまい、ボブ・クランペット(Bob Clampett)やチャック・ジョーンズ(Chuck Jones)ら後にアヴェリーを支えるアニメーター達からなるアヴェリー班を発足させた。サンセット大通りのワーナー・ブラザーズのスタジオのバックロット(オープンセット用の広大な用地)にあった五部屋のバンガローで、アヴェリー班はテクニカラーの『メリー・メロディー』ではなく白黒の『ルーニー・テューンズ』を製作するよう命じられた。彼らの別棟はやがて、シロアリ(termite)の多さから「ターマイト・テラス」(Termite Terrace)の異名で呼ばれるようになる。

ターマイト・テラスは、後にシュレジンガーおよびワーナーのアニメスタジオの別名となった。これはひとえにアヴェリー班が「ワーナー・ブラザーズのカートゥーン」というものを定義する作品を作り出したことによる。彼らの初の短編、『Golddiggers of '49』はポーキー・ピッグ(Porky Pig)をスターにした最初の作品で、アヴェリーのアニメーションにおける実験もここから始まっていた。

アヴェリーと、クランペットやジョーンズ、さらに新しい共同監督フランク・タシュリン(Frank Tashlin)は新しいアニメーションの基礎を作り、ウォルト・ディズニー・スタジオを短編アニメーション映画の王座から引き降ろし、バッグス・バニーダフィー・ダックなど21世紀の現在もその名をとどろかせるカートゥーン・キャラクターを多く生み出した。完璧主義者のアヴェリーはこれらに深く関わった。ギャグをコンスタントに作り続け、自ら声優も務め(彼のトレードマークは、腹から出る笑い声だった)、細かいタイミングなど演出や動画をコントロールし、ギャグのタイミングを外したと思ったらネガが完成していても自ら編集しなおすほどだった。ただしアヴェリーはバッグス・バニーの映画のうち4作品しか監督を完遂していない。最後の作品、『The Heckling Hare』(『いぢわる小兎』)のギャグをめぐって、過激さを追求したアヴェリーとこれに手を入れたシュレジンガーの間で争いが起き、アヴェリーは着手していた3作品を残したまま1941年末にスタジオを去ってMGMへ移った。

シュレジンガーの下にいる間、アヴェリーは動物の実写映像に、アニメーションで唇の動きを追加して話しているように見せるというアイデアを作り上げた。シュレジンガーはアヴェリーのアイデアに心を動かされなかったので、アヴェリーは友人でパラマウント映画のために短編映画『Unusual Occupations』シリーズをプロデュースしているジェリー・フェアバンクス(Jerry Fairbanks)に声をかけた。フェアバンクスはこのアイデアを気に入り、『動物たちのおしゃべり(Speaking of Animals)』シリーズを開始した。アヴェリーがワーナーを去ると、彼はMGMへ合流する前にパラマウントに直行して3本の短編を作った。

MGM時代[編集]

1942年にはアヴェリーはMGMの従業員となっており、フレッド・クインビー(Fred Quimby)指揮下のカートゥーン部門で働いた。シュレジンガーの下で窒息しそうな気分になっていたアヴェリーはMGM在籍時に創作力を爆発させた。彼のカートゥーンはペースの早さと気の狂ったようなナンセンスなギャグ、およびアニメーションや映画という媒体自体を使った遊びや楽屋落ちなどで有名となった。MGMはアヴェリーにワーナー時代以上の予算を与えよりクオリティの高い映画を求めた。こうした環境の変化は彼のMGM時代最初の短編映画『The Blitz Wolf』(『うそつき狼』)に明らかである。アドルフ・ヒトラーに対する風刺であったこの映画は1942年のアカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされた。

アヴェリーのMGM時代におけるもっとも有名なキャラクター、ドルーピー(Droopy Dog)は1943年の『Dumbhounded』(『つかまるのはごめん』)で登場した。当時「ハッピー・ハウンド」と呼ばれていたこの犬は、アヴェリーの登場キャラクターには少ない、物静かでしゃべり方も歩き方ものっそりとしたキャラクターだった。またアヴェリーは同時にきわどいキャラクターも作り出している。1943年の『Red Hot Riding Hood』(『「おかしな赤頭巾」』)には、赤ずきん(Red Riding Hood)の代わりにピンナップガールのようにセクシーなナイトクラブの女性が登場し、当時の少年たち(未来のアニメーターたちも含む)の心に性的トラウマを残した。その他、凶暴な「人の悪いリス」(Screwball "Screwy" Squirrel)、『二十日鼠と人間』にインスパイアされた「デカ吉チビ助」(George and Junior)の二人組などのキャラクターが生まれている。

アヴェリーがMGMで手がけた有名な作品には『Bad Luck Blackie』(呪いの黒猫)、『Magical Maestro』(へんてこなオペラ)、『Lucky Ducky』(ウルトラ子がも)、『King-Size Canary』(太りっこ競争)などがある。MGM在籍当初は豊かな色彩とリアルな背景を作品の特徴としていたアヴェリーは、しだいにこれらを捨ててリアリズムから離れたより狂的なスタイルをとるようになった。彼の新しいスタイリッシュな映像は、後にリミテッド・アニメーションを生むユナイテッド・プロダクション・オブ・アメリカUPA、United Productions of America)に影響を与えた。動きや背景や色彩のリアルさがそぎ落とされていった背景には、カートゥーンの予算が高まるにつれコスト削減の必要も高まったことがあるほか、アヴェリー自身が実写映画のリアリティに基づかないアニメーション表現を求めていたこともある。技術の進んだ未来を予測した当時の短編ニュース映画を風刺した「未来シリーズ」の諸作品、『The House of Tomorrow』(こんなお家は)、『Car of Tomorrow』(ステキな自動車)、『TV of Tomorrow』(うらやましいテレビ)はこの時期に作られた。またゆっくりしたしゃべり方をする狼のキャラクターは、MGM出身のハンナ・バーベラ・プロダクションのキャラクター「Huckleberry Hound」(珍犬ハックル)の原型となった。

アヴェリーは1950年に1年間の休暇年度をとったが、この間にウォルター・ランツ・スタジオから移ったディック・ランディー(Dick Lundy)がアヴェリーの制作班を引き継ぎドルーピーの短編を作った。アヴェリーは1951年秋のスタジオ復帰後、『DEPUTY DROOPY』(呼べど叫べど)、『CELLBOUND』(逃げてはみたけど)の二本を作り、1953年に完成させた(公開は1955年)。これらはのちの彼の作品同様、アヴェリーの班にいたアニメーター、マイケル・ラー(Michael Lah)との共同監督作品であった。ラーは以後、ドルーピーシリーズのシネマスコープ映画を多数監督する。燃え尽きたアヴェリーは1953年にMGMを退社してウォルター・ランツ・スタジオに戻った。

MGM以後[編集]

アヴェリーのウォルター・ランツ・スタジオでの日々は短かった。彼は1954年から1955年に『Crazy Mixed-Up Pup』『Shh-h-h-h-h』『I'm Cold』『The Legend of Rockabye Point』の4本を監督した。ペンギンのチリー・ウィリー(Chilly Willy the penguin)のキャラクターを固めた『The Legend of Rockabye Point』と、もう一本『Crazy Mixed-Up Pup』はアカデミー賞にノミネートされたが、アヴェリーは給与をめぐる問題でスタジオを去り、以後劇場用作品を撮ることはなかった。

彼はアニメーションによるテレビ・コマーシャルの分野へ転じ、ジョンソンの殺虫剤「Raid」の虫のキャラクターや、フリトレーのキャラクター「Frito Bandito」(メキシコの盗賊風のキャラクターだったが、メキシコ系アメリカ人からステレオタイプであることを問題視され、1971年以後引退している)などの登場するテレビ・コマーシャルを製作した。また、かつてワーナーのターマイト・テラスに在籍していた当時のキャラクターを起用したフルーツドリンクの宣伝も製作した。

1960年代から1970年代、彼は同僚からの尊敬を受け続けていたが、徐々に控え目な性格となりうつ病を患うようになった。彼の最後に在籍した会社はハンナ・バーベラ・プロダクションであり、彼はここでテレビの土曜朝の子供向けアニメ(『Kwicky Koala』など)のためのギャグを書いていた。

1980年8月26日、彼はハンナ・バーベラでの仕事中に72歳で死去した。彼はその1年前から肺がんを患っていた。彼はロサンゼルスのハリウッドヒルズにあるForest Lawn Memorial Park に埋葬された。彼の作品は1980年代末のアメリカのアニメーション復興期に再発見され、世界中のアニメーション制作者やファンから尊敬を受け続けているが、彼自身はこれを生きて体験することはなかった。

製作スタッフ[編集]

MGM時代[編集]

アヴェリーの元には有能なスタッフが集い、アヴェリー作品にとっては欠かせない存在であった。1949年に公開された「呪いの黒猫」までの前期作品では主にプレストン・ブレアをはじめ、レイ・エイブラムズ、エド・ラブの「3人組」がアニメータとしてアヴェリーを補佐した。うちブレアはアヴェリーの片腕的な存在で、赤ずきんのパロディー的な作品に登場する美女などを生み出すのに貢献した。1946年からは「3人組」にウォルター・クリントンが加わった。

1948年にブレアがハンナ=バーベラ側のアニメータであったマイケル・ラーとともに新ユニットを結成し、クマのバーニー作品の製作を指揮するようになると、エイブラムズもブレアとラーの班に配属替えとなり、ラブもMGMを退社したためにアヴェリーを支え続けた「3人組」は解散したが、アヴェリーの班には新たにグラント・シモンズが配属され、ウォルター・ランツとの掛け持ちであったロバート・ベントレーらが補佐する体勢となった。この頃、脚本を担当していたヘック・アレンもMGMを去り、リッチ・ホーガンらが後を担うことになる(アレンは後に復帰)。

そんなブレアとラーの班が3作品という短命に終わると、エイブラムズはMGMを去るが、ブレアはそのままアヴェリーの班に復帰する。しかし、1949年に公開された「チャンピオン誕生」を最後にブレアもMGMを去ってしまうが、この作品からラーがアヴェリーの班に加わり、クリントンとシモンズともに再び「3人組」が結成される。その新「3人組」をベントレーとハンナ=バーベラ班との掛け持ちであったレイ・パターソンらで補佐する体制となる。トムとジェリーの真ん中で公開された作品の大半は「チャンピオン誕生」以降の後期作品であり、新「3人組」体勢以降は驚異的なペースで作品が量産され、前期作品を踏襲しつつもドルーピーをはじめブルドッグのスパイク、口笛を吹くオオカミなど個性的なキャラクター・作品が数多く生み出される。それらの作品のほか、アヴェリーが1950年に1年間MGMから離れている間にディック・ランディーにより再びクマのバーニー作品が製作されたが、それらも新「3人組」をはじめとするアヴェリーの班が担っていた。

アヴェリーが1953年にMGMを去ると、シモンズとクリントンもMGMを退社し、数多くの傑作を世に送り出したアヴェリーのアニメーション製作班も解散となった。MGMの経費削減策により、以後はハンナ=バーベラの班に一本化された。なお、MGMに残ったラーがハンナ=バーベラのプロデュースの元でアヴェリーの流れを汲むドルーピー作品を手がけ、MGMがアニメーション製作部門を閉鎖する1957年までに6本製作された。

主なシリーズ[編集]

日本では、TVアニメ『トムとジェリー』の番組内で、3本立ての2本目として放映されていたことで有名である。

作品一覧[編集]

※下記2作はアヴェリーのアシスタントをしていたマイケル・ラーMICHAEL LAH)との共同制作。

※下記2作はハンナ=バーベラによるリメイク作品(シネマスコープ)

※以下はディック・ランディーによる制作。参考のために記載。

  • メキシコ良いとこ Caballero Droopy 1952年9月27日(ドルーピー)(オオカミ)

※以下はマイケル・ラーによる制作。参考のために記載。

アヴェリーの作品では、エンドカードが統一デザインとなっている。また、「トムとジェリー」と同様、実写映画のクレジットやエンドカードに入っているMGMの社章は入らない。

関連商品[編集]

テックス・アヴェリー作品は「TEX AVERY'S SCREWBALL CLASSICS」というタイトルでVHSになっている(ただし英語で日本では未発売)が現在は廃盤。だが唯一フランスにのみDVDがある。日本では「楽しいハリウッドアニメ/ 月へ行った猫」というタイトルでVHSが発売された。もちろん吹き替え版。

また日本で現在パブリック・ドメインで発売されている「ドルーピーDVD BOX」は、アヴェリーによるドルーピーのほか、「赤ずきん」「小鴨」「黒猫」などアヴェリーの代表作が14本同時収録されており、実質的な「アヴェリー傑作選」となっている。

参考文献[編集]

  • 森卓也『定本 アニメーションのギャグ世界』アスペクト、2009年、ISBN 4757215371

関連事項[編集]

外部リンク[編集]