ジュバランド

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ジュバランド
Jubaland
の旗
地域の旗
地域の標語:不明
地域の歌:不明
の位置
公用語 不明
主都 キスマヨ
最大の都市 キスマヨ
政府
大統領 サーラ・アーメド・アリ
首相等 不明
面積
総計 87,000km2N/A
水面積率 不明
人口
総計(2005年 1,300,000人(N/A
人口密度 xxx人/km2
独立
独立宣言 1998
消滅 ジュババレー連合により 1999
通貨 不明(???
時間帯 UTC 不明(DST:不明)
ISO 3166-1 不明
ccTLD 不明
国際電話番号 不明

ジュバランドソマリ語:Jubbaland、トランスジュバとも)はソマリア南西部を流れるジュバ川西部、ケニアに接する地域をさす呼称である。中心都市はキスマヨ1925年6月29日イギリス植民地であったケニアからイタリア領ソマリランドに譲渡された。

総人口は130万人と推計され、その内訳は2005年の調査時[1]ゲド下部ジュバ中部ジュバのそれぞれの行政区で690,000人、400,000人、240,000人とされた。地域の大きさは8,7000キロ平方メートル(33,000平方マイル)で首都はジュバ川河口近くの海岸に位置するキスマヨ

この地域は現在まで続くソマリア内戦の数多くの戦いのあった場所である。地域は1998年から1999年には国家独立を宣言していた。2008年現在、地域は名目上ソマリア暫定連邦政府の管理下に置かれているが、その多くはアル・シャバブ実効支配している。

歴史[編集]

植民化以前[編集]

ジュバランドはザンジバル・スルターン国マスカットオマーンから分裂し、そのアフリカの領土権を与えられたとき、1836年から1861年までマスカット・オマーン土侯国(現在のオマーン)に統治されていた。

イギリスとイタリアによる支配[編集]

1890年11月7日、ザンジバルイギリスの保護領になり、1895年7月1日にはアフリカ東の沿岸部の領土をイギリスに割譲した。ジュバランドはザンジバルのほかの領土とともにイギリス領東アフリカ(現在のケニア)の植民地となる。

1926年のトランス・ジュバ切手.

その後、1925年6月29日にジュバランドはイタリアに割譲される、その割譲は第一次世界大戦で連合国側に参戦したことへの報酬であるとされた。ジュバランドはコラド・ゾリ総督のもとイタリア植民地トランス・ジュバ(イタリア語でOltre Giuba)となった。イタリアは1925年にジュバランドで初の郵便切手を発行した。イタリア語で"OLTRE GIUBA"(トランス・ジュバ)と印刷されていた。1926年7月30日に隣接するイタリア領ソマリランドに合併される。植民地の広さは87,000平方キロメートル(33,000平方マイル)あり、1926年の総人口は120,000人だった。

ソマリアの一部としてのジュバランド[編集]

1960年7月1日にジュバランドはイタリア領ソマリランドイギリス領ソマリランドとともにソマリア共和国の一部となる。1960年のソマリ独立以降の国内での人口移動はこの地域の重大な歴史的出来事としてあげられる。ジュバ地域にはソマリア・オガデン族マレハン族が住んでいた。

1974年のダバデア飢饉の被害を受けた人々の再定住[編集]

1969年にクーデターで政権を取った第3代大統領モハメド・シアド・バーレは、1974年にソマリア北部やソマリア西部を襲った大飢饉の被害を受けた人のために再定住計画を策定した。このプログラムにより農村コミュニティが下部ジュバ中部ジュバに生まれた。この再定住プログラムはダンワダアガハや「コレクティブ・ドューティ」として知られる。農村コミュニティは北のイサック氏族ダルバハンテ氏族が主な構成員を占めた。

ソビエト連邦はソマリアと戦略的な関係を持っていたため、ソマリア空軍とともに飢饉の被害を受けたホビョ族カイナダ族な どを下部ジャバ地域にある政府の難民キャンプに運んだ。飢饉難民は当初モガディッシュから遠くない北東にあるジャウハーに運ばれた。人々はジャウハーから はモガディッシュ・キスマヨ回廊を軍用トラックで運ばれた。道路は荷物や家畜などを抱える人を運ぶ軍用トラックがあふれかえったため、移動には丸1日かかった。ダジューマサブラーレクンツワーレイの3カ所の再定住地域に加えダジューマ近くのホログレが4つめの定住地となる。

ホログレは川に流れ込む湖の名である。ダジューマは中部ジュバ地域にある。1970年代の再定住プログラムによって定住先で自分や家族の生活を確立したが、以前の居住先に戻っている。

ソマリア内戦勃発[編集]

1993年12月にモハメッド・セイド・ヘルジ率いる軍がキスマヨを制圧し、駐留していたベルギーの国連平和維持軍の撤退を要求した。彼の軍が国連が駐留していたことを利用し、モハメッド・ファッラ・アイディードとともに軍を再武装、再編成させた[1]マレハン族の支援を受けモハメッド・セイド・ヘルジ1999年までキスマヨを制圧下に置いていた。その間、ヘルジ・モーガンは以前の敵、ソマリア救国民主戦線(SSDF)と協力していた。モハメッド・セイド・ヘルジはケニア国境地域でも活動していた。彼の軍はそこで活動していたシアド・フセインオマー・ジェスアーメッド・ハッシの軍と戦うことは稀であった。彼らはほとんどの労力を国内避難民や難民のために祈ることに使った。ドブリー難民キャンプ周辺地はもっとも危険で暴力的な地域になり、民兵による女性の強姦、支援物資を乗せた車の襲撃、難民へのゆすり・たかりなどは日常茶飯事だった[2]

ソマリア地図

一時的な独立宣言[編集]

ソマリ国民戦線がマレハン族とほかの勢力に分裂した後、ヘルジはリーダーの地位を失う。 彼はその後、ソマリ愛国運動に加わる。ソマリ愛国運動はダロッド氏族民兵、ラハンウェイン抵抗軍南部ソマリ国民運動(SSNM)から構成されていた。

ヘルジ・モーガンは自分がジュバランドと呼ぶ国の首長を1998年9月3日から1999年7月11日までつとめた。しかし1999年にアーメッド・ウォーサメのジュババレー連合に領土を奪われ、2001年8月6日から7日にかけてキスマヨもあっさり占領されてしまう。キスマヨは2006年までジュババレー連合に占領される。

ジュババレー連合による支配[編集]

ジュババレー連合はモハメッド・セイド・ヘルジ・モーガン将軍と戦った。 ジュババレー連合のリーダー、バレ・アダン・シャイア・ヒイラアレ大佐は後にソマリア暫定連邦政府の防衛大臣になる。ジュババレー連合の軍司令官はアブドゥラ・シェイク・イスマエル・ファラタグだった。ジュババレー連合治安 アーメド・モハメッド・ガノフはキスマヨにとどまった。

2001年6月18日、各部族の代表11人からなる代表はジュババレー連合と暫定連邦政府との同盟を決定した[3][4]。以後は形式的にはソマリア暫定連邦政府領となる。ただし実効支配は、南部のいくつかのイスラーム武装勢力とたびたび争われることになる。

2001年8月6日、40台の戦闘車両と1000人の民兵を投入した10日間の戦闘の後、ジュババレー連合はキスマヨから北に移動し、ソマリア和解と再生評議会(SRRC)からジリブを奪う[5]。2002年には暫定連邦政府と敵対していたソマリア和解と再生評議会と戦闘を行い、ブロ・ハワから6000人の難民が発生した。2003年にキスマヨには国内避難民(IDPs)15000人が収容されていた。

2004年までにソマリア南部と中央部の戦闘によって国内避難民は86000人にまで増加した[6]ジュババレー連合とソマリア和解再生評議会間の戦闘による問題として地雷について言及されている[7]

最終的にソマリア和解再生評議会(SRRC)の指導者モハメッド・ファッラ・アイディードはジュババレー連合と暫定国民政府と和解し、2004年には暫定連邦政府の内務大臣になる。この暫定連邦政府は後に暫定国民政府を引き継ぐ。

イスラム法廷連合の興亡[編集]

2006年8月、突如として力を付けたイスラム法廷連合は重要都市キスマヨを含む、下部ジュバ・中部ジュバを占領し、自治政府を打ち立てた。ジュババレー連合(JVA)は2006年9月のイスラム法廷連合との戦闘でキスマヨを失い、10月にはジュババレーを奪われる[8][9][10]

ジュババレー連合(JVA)、すなわち暫定連邦政府(TFG)の支配地域はゲドの一部のみとなり、指揮官や民兵の不足で苦戦を強いられたが、2006年12月にはエチオピアの軍事支援を受け、ジュババレーを奪還した。バイドアの戦闘後(12月20日から26日まで)、ジュババレー連合はジュ ババレーの占領を再度宣言した。12月27日、イスラム法廷連合はブアアラ北のサラグレとサコウを放棄した[11]。イスラム法廷連合はその後ジラブでの戦闘に敗北し、2007年1月1日キスマヨは軍事衝突なしで暫定連邦政府とエチオピア軍の手により占領される。

アル・シャバブの台頭[編集]

その後、イスラム法廷連合は消滅し、その残党がヒズブル・イスラムアル・シャバブとなって活動を続ける。アル・シャバブは勢力を拡大し、ヒズブル・イスラムを吸収して、ジュバランドを中心としたソマリア南部を実効支配している。アル・シャバブは2011年時点でも、暫定連邦政府やその支援団体と戦いを続けている。

脚注[編集]

座標: 北緯1度56分00秒 東経42度12分34秒 / 北緯1.933227度 東経42.209473度 / 1.933227; 42.209473