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興福寺奏状

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興福寺奏状(こうふくじそうじょう)は、鎌倉時代元久2年(1205年)に、興福寺衆徒法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書。法然弾劾の上奏文というべき性格を有していた[1]。全1巻。『大日本仏教全書』に収載されている[2]

概要

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興福寺奏状は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年10月興福寺奈良県奈良市)の寺僧らが法然坊源空の唱導する専修念仏の教えを糺し、その禁止を求めて朝廷に上奏した文書である。起草者は、法相宗中興の祖といわれる笠置寺京都府笠置町)の解脱坊貞慶(解脱上人)[注釈 1]であり、法然の教義(浄土宗)に対する9か条の批判より始まっている[2]。この奏状は、承元元年(1207年)の法然率いる吉水教団に対する弾圧(承元の法難)の一因となった[3]。また、同奏状中の「八宗同心の訴訟」という文言が、鎌倉仏教および日本仏教史研究家の田村圓澄によって注目され、日本の古代仏教に関して「八宗体制論」という理論的枠組みを生む契機となった[4]

ただし、奏状を構成する本文と副文(内容に関しては後述)の関しては次のような疑問も出されている。本来、副状とは本文内容を説明するために過去の文書などを引用するべき部分であるのに、興福寺奏状の副状の内容構成がそうした性格を有していない。また、副状を付けた場合でも、本文の末尾には日付を記入すべきであるのにそれが欠けているなど、当時の奏状の書式とは異なっており、副状とされている部分は同時期に出された別の文書の挿入であり、それが貞慶以外の者の手による可能性もあるというものである。その説に従えば、貞慶が執筆したと判断できるのは「誠惶誠恐謹言」までのいわゆる本文の部分に限定されることになる[5]

なお、興福寺奏状の出された前年の元久元年(1204年)には、比叡山延暦寺滋賀県大津市)の衆徒が天台座主真性に対し、専修念仏の禁止を要求しており(延暦寺奏状[3]、これに対して法然側も延暦寺にも弟子らとともに署名した怠状七箇条制誡)を送付している。

奏状の内容と性格

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奏状は、専修念仏を非難する理由として、

  1. 「新宗を立つる失」- 正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てること。
  2. 「新像を図する失」- 専修念仏の徒のみが救済されるという、根拠に乏しい図像を弄すること。
  3. 「釈尊を軽んずる失」- 阿弥陀如来のみを礼拝して仏教の根本を説いた釈迦を軽んずること。
  4. 「万善を妨ぐる失」- 称名念仏だけを重んじて造寺造仏などの善行を妨害すること。
  5. 「霊神に背く失」- 八幡神春日神など日本国を守護してきた神々を軽侮すること。
  6. 「浄土に暗き失」- 極楽往生にまつわる種々の教えのなかで特殊で偏向した立場に拘泥すること。
  7. 「念仏を誤る失」- さまざまな念仏のなかで、もっぱら称名念仏に限って偏重すること。
  8. 「釈衆を損ずる失」- 往生が決定したなどと公言して悪行をはたらくことをおそれない不心得な念仏者が多いこと。
  9. 「国土を乱る失」- 国を守護すべき仏法の立場をわきまえず、正しい仏法のあり方を乱してしまうこと。

という具体的で詳細な「9か条の失」を掲げた[2][3][6]

法然像「披講の御影」(藤原隆信画)
「智慧第一の法然坊」と称され、学識ほかに並ぶ者なしと言われた彼は専修念仏を説いた。

冒頭において奏状は、日本に古来あるのは八宗法相宗倶舎宗三論宗成実宗華厳宗律宗南都六宗および天台宗真言宗の平安二宗)のみであり、それ以外の新宗が立てられたことは今まで絶えてなかったと述べ、法然がいま無断に開宗することは不当であるとして、たとえ法然自身が立宗に堪えられるだけの智慧や能力を有していたとしても、朝廷に上奏して勅許を得て開宗するのが道理であると主張している[4]

また、副状が1通添えられており、その内容は専修念仏の停止と法然師弟の処罰を朝廷に請うものであった[2]。これは、専修念仏とそれによる他力往生の提唱が顕密諸宗に対して、きわめて大きな脅威をあたえていたことを示すものであり、攻撃対象は、法然その人ばかりではなく、むしろ法然に帰依した「無智不善の輩」に対して向けられていた[3][注釈 2]。というのも、3.、4.、5.、7.のように専修念仏の徒は念仏以外のいっさいの信仰を否定する傾向が顕著であり、8.にみられるように、極端な例では、罪業深き悪人でさえ救済されるのであるから、戒律道徳は無視してよいと考える狂信的な人びとを含んでいたからであった[3]

奏状はさらに、浄土宗の教えは京都周辺ではまだ穏やかなものだが、北陸地方東海地方などではさかんに破戒がおこなわれていると訴えている[3]。これは、1.、5.、9.で主張しているように、つねに国家と結びつき、「王法すなわち仏法」の立場に立って鎮護国家の思想を前面に打ち出していた既成の教団にとって強い危機感を生じさせるものであった[3]。ここには、八宗が並んで国を護ることが日本仏教のあるべき姿であるという主張と、すべての経典経論を見わたしたうえで、あらゆる立場に対しそれぞれ得るところありとするような教学大系の保持が尊重されるべきであり、特殊な教説を選択してそこに固執するという信仰姿勢は容認できない異端の説であるという主張がみとめられる[6]

一方、こうした見方に対する批判として、前後の文とのバランス上法諱(源空)を用いなければならない部分を除いて、本文中のおける法然への呼称は、「上人」か房号(法然)であって一定の敬意が払われている[注釈 3]こと、法然本人に対する非難は1.、2.、6.しか該当せず、もっぱら弟子の行動を問題視していることを挙げ、貞慶は法然本人よりも放埓不羈な行動を繰り返す弟子を批判するために奏状を出したもので、法然に対してはその行動の原因となっている専修念仏宗義の一部を見直してもらうように朝廷へ働きかけることが目的であったとする[7]

奏状の影響

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この奏状の影響もあって、承元の法難(建永の法難)と称される法然師弟に対する弾圧がなされた。

奏状の出された元久2年(1205年)の12月19日

頃年(このごろ)法然上人あまねく念仏をすすむ、道俗多く教化におもむく、而るに今彼の門弟の中に咎執の輩、名を専修にかるを以て咎を破戒にかへりみず、是偏に門弟の浅智により起こりて、かへりて源空が本懐に背く、偏執を禁遏の制に守るといふとも刑罰を誘論の輩に加ふるなかれ。

という宣旨が下された。悪いのは「門弟の浅智」であるとして、法然(源空)ら専修念仏を誘論した人びとを擁護する内容であった。これに対し、興福寺の衆徒らはいっそう激怒し、建永元年(1206年)、法本房行空と安楽房遵西の流罪を訴えた。同年2月、院宣が出されてこの両者の配流が決まったが、衆徒らはこの処分を不服とし、彼らの意を受けた興福寺の五師三綱[注釈 4]らが摂政九条良経らに対して法然らの処罰を要請した(興福寺奏状の副状は本来はこの時の奏状であったとする)[注釈 5]

承元の法難の直接のきっかけは、同じ年に起こった後鳥羽上皇熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった[3]。この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したというが流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである[3]

年明けて建永2年(1207年)に入るや、法然門下の僧侶は次々に逮捕され、峻厳な取り調べがなされて、拷問もおこなわれた[3]。風紀をみだす専修念仏の徒とみなされた遵西は京六条河原で斬首され、住蓮も近江国で死罪に処された。他に法然門下2名(西意善綽房・性願房)が極刑に処された[3]。法然の教団が民衆のあいだから起こって上下なく広がり、さらに全国的な展開を見せはじめたことについて、既成教団も為政者たる治天の君後鳥羽上皇も危惧の念をいだいたのである[3][注釈 6][注釈 7]

法然自身も責任を問われ、念仏は禁断され、法然および親鸞ら中心的な門弟7人は僧籍剥奪のうえ流罪に処された。法然は土佐国(のち讃岐国)に、親鸞は越後国配流され、2人はふたたび現世で相まみえることはなかった[8]

法然はのちに帰洛をゆるされ吉水にもどり、その翌年の建暦2年(1212年)に東山大谷(京都市東山区)で入寂した。同年、華厳宗の高僧として著名であった高山寺の明恵上人高弁は、法然批判であり『選択本願念仏集』批判の書である『摧邪輪』(正しくは『於一向専修宗選択集中摧邪輪』)を著している[3]

八宗体制論

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浄土教を中心とする鎌倉仏教の研究に大きな学績をのこした田村圓澄は、1969年昭和44年)の「鎌倉仏教の歴史的評価」において、奏状中の「八宗同心の訴訟」すなわち「伝統仏教八宗が心をひとつにしての訴え」という文言に注目し、八宗がそのように同心して法然を排撃しようとする背景には、法然の教義に対してみずからの有する特権を保守しようとする伝統仏教側の意図があったとみなし、そうした共通の利害にもとづく仏教界の古代的な秩序を「八宗体制」と名づけた[4]

また、奏状の第9条には「仏法王法なお身心のごとし、互いにその安否をみ、宜しくかの盛衰を知るべし」とあり、ここでいう「仏法」とは伝統八宗の説く仏法であり、そのような仏法と公家政権による王法とが並び立ち、たがいに支え合うことで共存共栄することができると説く論理もみられる[注釈 8]。田村によれば、八宗同心の訴訟が寄せられる公家政権は律令国家の系譜に連なる古代国家であり、それゆえ、国家との相補的な関係を理由に天皇の認可を立宗にともなう必須の条件とする興福寺奏状のロジックは、裏返せば、八宗体制の古代的な性格を示すものにほかならなかった[4]

八宗体制論は、鎌倉新仏教の成立を、それ以前の貴族的・護国的ないし祈祷的仏教に対し、個人の救済を主眼とする民衆仏教の成立ととらえる家永三郎井上光貞らの説いた定説とも調和し、1970年代以降の仏教史研究に大きな影響をあたえた。ただ、田村の所説は従来説とくらべ、それまで混乱と分裂のイメージでとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側に、共通の利害に由来した一定の秩序があることを指摘した点に違いがあり、これはやがて次代の鎌倉仏教研究に大きな課題をのこす結果となった[9][注釈 9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 貞慶は藤原氏一族の出身で、後白河法皇の側近で院の近臣として活躍し、平治の乱源義朝挙兵の際に殺された藤原通憲(信西)のにあたる。なお、興福寺は法相宗の大本山であると同時に、藤原氏の氏寺でもあった。貞慶は、平安時代末に興福寺で修行した実範による戒律の系譜(南京律)のなかで重要な位置を占めた。大隅(1989)p.208ほか
  2. ^ 「無智不善の輩」とは延暦寺奏状後の元文元年(1204年)に法然が門弟を諫めるために出した『七箇条制戒』のなかのことばである。法然はみずからの門下に専修念仏の教えを誤解する者があらわれていることを憂慮しており、それをこのような言葉で表現したのである。石井(1979)pp.318-320
  3. ^ これに対して副状における法然に対する呼称は「源空」であり、これが森説における別人筆者の根拠の1つとされている。
  4. ^ 摂関家家司であった三条長兼の『三長記』元久3年2月21日条によれば上洛した五師は4人、三綱は6人であり、不参しなかった者がいた。また、同日条の中で彼らが宣旨の中で法然を「上人」と呼称したことにも抗議をしているが、これは貞慶によって法然を「上人」と呼称した奏状(本文)が朝廷に出され、12月の宣旨がこれを受けたものであったという経緯を五師三綱側が把握していなかった可能性を示す。なお、森新之介は貞慶が五師三綱を介さずに奏状を出すことが困難なことから、不参した五師三綱の中に貞慶の奏状を実際に朝廷へ提出した者がいたとみる。森(2013)p.265-275
  5. ^ 興福寺奏状の本文と副状を別の作者とする森新之介の説に従えば、「貞慶が出した奏状(本文)は法然に弟子の綱紀粛正を求める内容であった→これを受けて出されたのが元久2年12月19日の宣旨である→ところが、この経緯を知らなかった強硬派(衆徒または五師三綱)が別途に法然らの処罰を求めて別の奏状(副状)を出した→後日、事情を知らない者が貞慶の奏状と衆徒の奏状を混同して整理してしまったためにあたかも1つの文書になってしまった」とする。森(2013)p.265-279・299ほか
  6. ^ 法然の専修念仏は、その時代における宗教的能力の平等を主張したものであった。承元の法難の原因となった事件からも、法然の教団が女人救済に努めていた事実を読み解くことができる。松尾(1995)p.31
  7. ^ なお、興福寺奏状の提出後、興福寺の衆徒が春日神木の入洛などの強硬策を採っていないこと、この時に念仏禁断が実際に出されたことが確認できる同時代の確実な史料が存在しないことを理由として、承元の法難はあくまでも女房たちの密通問題に対して法然の教団全体が責任を問われたに過ぎない(興福寺の動きとは無関係である)とする上横手雅敬の見解もある。上横手(2008)pp.235-260
  8. ^ 仏法と王法の相依相即を説き、両者はいわば運命共同体であったと主張するこのような論を、一般に「仏法王法相依論」と称する。仏法王法相依論については、黒田俊雄河音能平による研究がある。佐藤(1991)p.92
  9. ^ この奏状の経緯を検証した森論文は、興福寺奏状が八宗同心どころか、興福寺の五師三綱が寺内を統制しきれずに専修念仏に関する見解も分裂状態にあったために、彼らの知らないところで別の奏状(貞慶による「興福寺奏状」本文)が出されたと結論付けている。森(2013)p.299

参照

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  1. ^ 家永(1982)pp.128-129
  2. ^ a b c d 圭室「興福寺奏状」『日本歴史大事典』(1979)p.418
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 石井(1979)pp.317-323
  4. ^ a b c d 佐藤(1991)pp.91-92
  5. ^ 森(2013)pp.242-245
  6. ^ a b 大隅(1989)pp.209-210
  7. ^ 森(2013)pp.245-257
  8. ^ 石井(1979)pp.425-431
  9. ^ 佐藤(1991)pp.92-94

参考文献

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関連文献

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原文史料
八宗体制論について
仏法王法相依論について
  • 河音能平「王土思想と神仏習合」『岩波講座日本歴史4 古代』岩波書店、1976年。
  • 黒田俊雄『王法と仏法-中世史の構図』法蔵館<法蔵選書>、1983年7月。

関連項目

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