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[[File:Yayoi people Restoration model.jpg|200px|right|thumb|弥生人 国立科学博物館展示]]
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'''弥生人'''(やよいじん、Yayoi people)は弥生時代に[[日本列島]]に居住した人々。大きく、弥生時代に[[中国大陸]]や[[朝鮮半島]]等から日本列島に渡来してきた「大陸系弥生人」、縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」、および両者の混血である「混血系弥生人」とに分けられる。
'''弥生人'''(やよいじん[[弥生時代]]に[[日本列島]]に居住した人々。大きく、弥生時代に[[中国大陸]]や[[朝鮮半島]]等から[[日本列島]]に渡来してきた「大陸系弥生人」、[[縄文人]]が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」、および両者の混血である「混血系弥生人」とに分けられる。


==概要==
==概要==
縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められないが、広義の弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人や縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)、{{要検証範囲|[[古墳時代]]の墳墓から抜け出てきたような弥生人(新弥生人)、さらに南九州には[[琉球]]諸島の[[沖縄貝塚文化|貝塚人]]に似た弥生人(南九州弥生人)がいた|date=2020年7月}}<ref>[[片山一道]]『骨が語る日本人の歴史』</ref>。
縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められないが、広義の弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人や縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)、{{要検証範囲|[[古墳時代]]の墳墓から抜け出てきたような弥生人(新弥生人)、さらに南九州には[[琉球]]諸島の[[沖縄貝塚文化|貝塚人]]に似た弥生人(南九州弥生人)がいた|date=2020年7月}}<ref>[[片山一道]]『骨が語る日本人の歴史』</ref>。


近年の[[ミトコンドリアDNAハプログループ]]や[[Y染色体ハプログループ]]の研究によって、[[日本人]]と[[中国人]]・[[韓国人|朝鮮人]]とのY染色体には違いがみられ、弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、融和、混血していったものと考えられる<ref>溝口優司(国立科学博物館人類研究部長)『日本人の成り立ちについての3つの仮説(P173)』</ref>。また[[日本列島]]には[[縄文時代]]以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。
近年の[[ミトコンドリアDNAハプログループ]]や[[Y染色体ハプログループ]]の研究によって、[[日本人]]と[[中国人]]・[[朝鮮民族|朝鮮人]]とのY染色体には違いがみられ、弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、融和、混血していったものと考えられる<ref>溝口優司(国立科学博物館人類研究部長)『日本人の成り立ちについての3つの仮説(P173)』</ref>。また[[日本列島]]には[[縄文時代]]以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。


国立遺伝学研究所集団遺伝研究室の斎藤成也教授等によると、縄文系弥生人や渡来系弥生人の混血は古墳時代から始まり、その後に現代日本人が誕生した。現代日本人には14パーセントから20パーセントほどしか縄文人の血が入っていないという推定値が出ている。
国立遺伝学研究所集団遺伝研究室の斎藤成也教授等によると、縄文系弥生人や渡来系弥生人の混血は古墳時代から始まり、その後に現代日本人が誕生した。現代日本人には14パーセントから20パーセントほどしか縄文人の血が入っていないという推定値が出ている。
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一般には、弥生人は朝鮮半島、山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。[[崎谷満]]によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのは[[ハプログループO-M176 (Y染色体)|Y染色体ハプログループO1b2]]に属す集団である。O1b2系統は、[[オーストロアジア語族]]の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、[[満州]]や朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷は[[ハプログループO-M268 (Y染色体)|O1b系統]](O1b1/O1b2)はかつては[[長江文明]]の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し[[百越]]と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、[[山東省]]、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている<ref name=崎谷>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。しかしながら、長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視する見方や、上記の説より遥か早期に北上したという見方もある。
一般には、弥生人は朝鮮半島、山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。[[崎谷満]]によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのは[[ハプログループO-M176 (Y染色体)|Y染色体ハプログループO1b2]]に属す集団である。O1b2系統は、[[オーストロアジア語族]]の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、[[満州]]や朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷は[[ハプログループO-M268 (Y染色体)|O1b系統]](O1b1/O1b2)はかつては[[長江文明]]の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し[[百越]]と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、[[山東省]]、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている<ref name=崎谷>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。しかしながら、長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視する見方や、上記の説より遥か早期に北上したという見方もある。
[[File:Migration map of Y-DNA haplogroups in East Asia.png|thumb|250px|right|弥生人に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動]]
[[File:Migration map of Y-DNA haplogroups in East Asia.png|thumb|250px|right|弥生人に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動]]
[[土井ヶ浜遺跡]]の弥生人が[[北部モンゴロイド]]の特徴を持つことや、日本人にみられる[[ミトコンドリアDNAハプログループ]]や[[日本人バイカル湖畔起源説|Gm遺伝子]]が北方型であることなどから、弥生人の起源地を[[沿海州]]南部(ロシア)に求める見方もある。[[岡正雄]]の日本人起源説の「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」<ref>異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成 言叢社 1979</ref><ref>『異人その他 他十二篇 岡正雄論文集』岩波文庫、1994年</ref>、[[鳥居龍蔵]]説の「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」<ref>『鳥居龍蔵全集』第1巻、朝日新聞社、1975年</ref>がこれに対応すると思われる。東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認され、弥生時代に広くみられる[[刻目突帯文土器]]と似たタイプの土器が[[沿海州]]南西部の[[シニ・ガイ文化]]にもみられること<ref>{{cite web|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=66|title=ロシア極東新石器時代研究の新展開|author=福田正宏|publisher=|date=2003-05-17|accessdate=2018-06-21}}</ref>から、近年ではこちらの説を推す声も多くなっている。
[[土井ヶ浜遺跡]]の弥生人が[[北部モンゴロイド]]の特徴を持つことや、日本人にみられる[[ミトコンドリアDNAハプログループ]]や[[日本人バイカル湖畔起源説|Gm遺伝子]]が北方型であることなどから、弥生人の起源地を[[沿海州]]南部(ロシア)に求める見方もある。{{独自研究範囲|[[岡正雄]]の日本人起源説の「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」<ref>異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成 言叢社 1979</ref><ref>『異人その他 他十二篇 岡正雄論文集』岩波文庫、1994年</ref>、[[鳥居龍蔵]]説の「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」<ref>『鳥居龍蔵全集』第1巻、朝日新聞社、1975年</ref>がこれに対応すると思われる。|date=2020年7月}}東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認され、弥生時代に広くみられる[[刻目突帯文土器]]と似たタイプの土器が[[沿海州]]南西部の[[シニ・ガイ文化]]にもみられること<ref>{{cite web|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=66|title=ロシア極東新石器時代研究の新展開|author=福田正宏|publisher=|date=2003-05-17|accessdate=2018-06-21}}</ref>{{出典無効|title=当該リンク先に弥生文化との関連の記述はない。独自研究の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に抵触|date=2020年7月}}から、近年ではこちらの説を推す声も多くなっている{{誰2|date=2020年7月}}


また、日本人の約20%に見られる[[ハプログループO-M122 (Y染色体)|O2系統]]も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。O2はその後の[[ヤマト王権]]の成立に前後する[[渡来人]]によるものだとする見方<ref name=崎谷/>も強い。
また、日本人の約20%に見られる[[ハプログループO-M122 (Y染色体)|O2系統]]も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。O2はその後の[[ヤマト王権]]の成立に前後する[[渡来人]]によるものだとする見方<ref name=崎谷/>も強い。
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*[[イネ]] - 渡来系である弥生人が持ってきた。
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2020年7月22日 (水) 08:24時点における版

ファイル:Yayoi people Restoration model.jpg
弥生人 国立科学博物館展示

弥生人(やよいじん)は弥生時代日本列島に居住した人々。大きく、弥生時代に中国大陸朝鮮半島等から日本列島に渡来してきた「大陸系弥生人」、縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」、および両者の混血である「混血系弥生人」とに分けられる。

概要

縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められないが、広義の弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人や縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)、古墳時代の墳墓から抜け出てきたような弥生人(新弥生人)、さらに南九州には琉球諸島の貝塚人に似た弥生人(南九州弥生人)がいた[要検証][1]

近年のミトコンドリアDNAハプログループY染色体ハプログループの研究によって、日本人中国人朝鮮人とのY染色体には違いがみられ、弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、融和、混血していったものと考えられる[2]。また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。

国立遺伝学研究所集団遺伝研究室の斎藤成也教授等によると、縄文系弥生人や渡来系弥生人の混血は古墳時代から始まり、その後に現代日本人が誕生した。現代日本人には14パーセントから20パーセントほどしか縄文人の血が入っていないという推定値が出ている。

起源

弥生時代は一般に2400年前ほどに開始したとされてきた。そもそも弥生時代とは、弥生土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる[3][4]。しかし、現在では放射性炭素年代測定では、土器等に付着する塩分などの海産物による海洋リザーバー効果により年代が約400年古く推定されることが明らかになっており、再度年代についての論争は続いている[5]。なお、水稲には朝鮮半島から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。

一般には、弥生人は朝鮮半島、山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。O1b2系統は、オーストロアジア語族の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、満州や朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷はO1b系統(O1b1/O1b2)はかつては長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[6]。しかしながら、長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視する見方や、上記の説より遥か早期に北上したという見方もある。

弥生人に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動

土井ヶ浜遺跡の弥生人が北部モンゴロイドの特徴を持つことや、日本人にみられるミトコンドリアDNAハプログループGm遺伝子が北方型であることなどから、弥生人の起源地を沿海州南部(ロシア)に求める見方もある。岡正雄の日本人起源説の「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」[7][8]鳥居龍蔵説の「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」[9]がこれに対応すると思われる。[独自研究?]東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認され、弥生時代に広くみられる刻目突帯文土器と似たタイプの土器が沿海州南西部のシニ・ガイ文化にもみられること[10][出典無効]から、近年ではこちらの説を推す声も多くなっている[誰によって?]

また、日本人の約20%に見られるO2系統も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。O2はその後のヤマト王権の成立に前後する渡来人によるものだとする見方[6]も強い。

なお、渡来した弥生人は単一民族ではなく複数の系統が存在するという説も主流である[11][12][13]

特徴

頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代の河南省、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった[14]

また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも高い。しかしながら、こうしたの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。[15]

一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが中国大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し[16]、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた[17]。その後の調査で、前述のように中国山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた[18]

佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が弥生人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている[19]

下戸

弥生人に関連する体質として、下戸が存在する。下戸遺伝子の持ち主は中国南部と日本に集中しており、水耕栽培の発祥と推測される中国南部での、水田農耕地帯特有の感染症に対する自然選択の結果ではないかとも推測されている[20]

脚注

  1. ^ 片山一道『骨が語る日本人の歴史』
  2. ^ 溝口優司(国立科学博物館人類研究部長)『日本人の成り立ちについての3つの仮説(P173)』
  3. ^ 春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたが、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。(『歴博特別講演会配布資料弥生時代の開始年代-AMS年代測定法の現状と可能性-AMS年代測定法の現状と可能性 -』)。
  4. ^ 中国(長江文明)における稲作は、長江中流域における陸稲が約10000 - 12000年前に遡り、同下流域の水稲(水田)は約6000 - 7000年前に遡ると言われている。
  5. ^ 中村俊夫 名古屋大学年代測定総合研究センター. “C年代の暦年代較正と海洋リザーバー効果 (第16回名古屋大学タンデトロン加速器質量分析計シンポジウム平成15(2003)年度報告)2004-3”. 2019年8月20日閲覧。
  6. ^ a b 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)
  7. ^ 異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成 言叢社 1979
  8. ^ 『異人その他 他十二篇 岡正雄論文集』岩波文庫、1994年
  9. ^ 『鳥居龍蔵全集』第1巻、朝日新聞社、1975年
  10. ^ 福田正宏 (2003年5月17日). “ロシア極東新石器時代研究の新展開”. 2018年6月21日閲覧。
  11. ^ 岡正雄『異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成』 言叢社 1979
  12. ^ 徳永勝士 (2008)「HLA遺伝子:弥生人には別ルートをたどってやってきた四つのグループがあった!」『日本人のルーツがわかる本』逆転の日本史編集部,東京:宝島社,p264-p280
  13. ^ 徳永勝士 (2003)「HLA と人類の移動」『Science of humanity Bensei 』(42), 4-9, 東京:勉誠出版
  14. ^ 中国江南・江淮の古人骨-渡来系弥生人の原郷をたずねる-山口 敏・中嶋孝博 2007年
  15. ^ 「なぜ農耕文化は終わったのか」岡村道雄『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年4月
  16. ^ 東アジアと『半島空間』―山東半島と遼東半島 千田 稔 ,宇野 隆夫
  17. ^ 金関の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。
  18. ^ 今日の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。
  19. ^ 佐原真「農業の開始と階級社会の形成」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年
  20. ^ 日本人は酒に弱くなるように“進化”…「下戸遺伝子」の研究者が語る“弱い方がいい理由” - FNN.jpプライムオンライン

関連項目