「高木俊朗」の版間の差分

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なお、『抗命』の初版には秋山修道の同名書と同じく「烈師団長発狂す」との副題がつけられている(文庫版ではこの副題は削除された)。実際には第31師団長、[[佐藤幸徳]]は上官である[[牟田口廉也]]の上申で確かに[[精神鑑定]]を受けることになったものの、作戦中も、その後の精神状態も正常との結論が下されており、医学的にはこの表現は誤りである。高木は『イムパール』の終盤で佐藤を「きちがいになった-しかし真相は別にある」と書いており、「これが、実は牟田口中将の目的であった」と牟田口の責任回避策である旨を明言していた<ref>『イムパール』P367、P369</ref>。その後、[[高度経済成長]]期に入ると部隊史が相次いで刊行され、資料が充実した為、高木は数年の準備期間をかけ再取材を実施し、[[東京新聞]]に1966年7月5日から10月8日まで『抗命』の連載を行った。更に書籍化の企画が文藝春秋より持ち込まれたため、出版に際して誤認訂正と大幅な加筆を実施している<ref>これらの経緯は「あとがき」『抗命 インパール』にて高木自身が記している。</ref>。そのため、文庫版などでは軍医が正常と診断した旨についても明記されている。一方、鑑定を行った精神科医(当時[[軍医]]大尉)山下實六は『抗命』の調査への努力は評価しているものの、当時を回顧する講演でこの誤解に触れ、この表題をつけた作者の一人として高木を名指ししている<ref>山下實六「インパール作戦における烈兵団長の精神鑑定」『九州神経精神医学』24巻1号 1978年4月</ref>。
なお、『抗命』の初版には秋山修道の同名書と同じく「烈師団長発狂す」との副題がつけられている(文庫版ではこの副題は削除された)。実際には第31師団長、[[佐藤幸徳]]は上官である[[牟田口廉也]]の上申で確かに[[精神鑑定]]を受けることになったものの、作戦中も、その後の精神状態も正常との結論が下されており、医学的にはこの表現は誤りである。高木は『イムパール』の終盤で佐藤を「きちがいになった-しかし真相は別にある」と書いており、「これが、実は牟田口中将の目的であった」と牟田口の責任回避策である旨を明言していた<ref>『イムパール』P367、P369</ref>。その後、[[高度経済成長]]期に入ると部隊史が相次いで刊行され、資料が充実した為、高木は数年の準備期間をかけ再取材を実施し、[[東京新聞]]に1966年7月5日から10月8日まで『抗命』の連載を行った。更に書籍化の企画が文藝春秋より持ち込まれたため、出版に際して誤認訂正と大幅な加筆を実施している<ref>これらの経緯は「あとがき」『抗命 インパール』にて高木自身が記している。</ref>。そのため、文庫版などでは軍医が正常と診断した旨についても明記されている。一方、鑑定を行った精神科医(当時[[軍医]]大尉)山下實六は『抗命』の調査への努力は評価しているものの、当時を回顧する講演でこの誤解に触れ、この表題をつけた作者の一人として高木を名指ししている<ref>山下實六「インパール作戦における烈兵団長の精神鑑定」『九州神経精神医学』24巻1号 1978年4月</ref>。


高木は特攻関係者を、著作『知覧』や『陸軍特別攻撃隊』により激しく糾弾したが、その記述については必ずしも事実ではないとの指摘もあっている。『知覧』において、終戦後に第6航空軍司令の菅原が、参謀長の[[川嶋虎之輔]]少将と協議していたときに、参謀[[鈴木京]]大佐が、「軍司令官閣下もご決心なさるべきかとおもいます。重爆一機用意しました。鈴木もお供します」と菅原も責任をとるべきだと詰め寄ったが、菅原は「自分は、これからあとの始末が大事と思う。死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それよりは、後の始末をよくしたいと思う」などと特攻出撃を拒否し、それを聞いた鈴木が「この人は到底死ねる人ではない」と呆れたとするエピソードが語られているが<ref>[[高木俊朗]]『知覧』電子版P.2505</ref>、菅原は、生前、毎日克明な日記を書いており、この日の記述によれば、鈴木が「閣下も征かれますならお供します」と言ってきたが、躊躇することなく「否、軍は先刻発令の通り」と、[[玉音放送]]による天皇陛下からの停戦命令の通りに一切の軍事行動は罷り成らずと言い放ったと書いている{{Sfn|深堀道義|2001|p=330}}。戦時中に[[時事通信社]]の報道班員であった軍事評論家[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]の取材によれば、第101振武隊の特攻隊員数名も鈴木と同じように菅原に一緒特攻出撃を促しており、「宇垣中将は沖縄へ特攻出撃されました。閣下はどうされますか。吾々は何時でもお供出来るように用意しております」と、海軍の[[宇垣纏]]が終戦後に中津留達雄大尉らを連れて「私兵特攻」出撃したことを受けて、陸軍側も同様特攻指揮官と出撃申し出たが、菅原は十数秒間黙考したのち「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と振武隊員らを諭したとしている。菅原も伊藤の著書を読み「伊藤氏の如き著名な大記者がそのときの光景を正しく書いたことに感謝している」と述べている{{Sfn|深堀道義|2001|p=331}}。高木は、自分で直接取材をしていないことでもを小説のように記述することがあり、エピソードも菅原を始め旧軍に批判的な高木が意図的に悪く書いたとの指摘もある{{Sfn|深堀道義|2001|p=333}}。
高木は特攻関係者を、著作『知覧』や『陸軍特別攻撃隊』により激しく糾弾したが、その記述については必ずしも事実ではないとの指摘もあっている。『知覧』において、終戦後に第6航空軍司令の菅原が、参謀長の[[川嶋虎之輔]]少将と協議していたときに、参謀[[鈴木京]]大佐が、「軍司令官閣下もご決心なさるべきかとおもいます。重爆一機用意しました。鈴木もお供します」と菅原も特攻出撃して責任をとるべきだと詰め寄ったが、菅原は「自分は、これからあとの始末が大事と思う。死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それよりは、後の始末をよくしたいと思う」などと泣き言を言って特攻出撃を拒否し、それを聞いた鈴木が「この人は到底死ねる人ではない」と呆れたとするエピソードが語られているが<ref>[[高木俊朗]]『知覧』電子版P.2505</ref>、菅原は、毎日克明な日記を書いており、この日の日記の記述によれば、鈴木が「閣下も征かれますならお供します」と言ってきたが、躊躇することなく「否、軍は先刻発令の通り」と、[[玉音放送]]による天皇陛下からの停戦命令の通りに一切の軍事行動は罷り成らずと言い放ったと書いている{{Sfn|深堀道義|2001|p=330}}。戦時中に[[時事通信社]]の報道班員であった軍事評論家[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]の取材によれば、第101振武隊の特攻隊員数名も鈴木と同じように菅原に一緒特攻出撃しようと詰め寄っており、「宇垣中将は沖縄へ特攻出撃されました。閣下はどうされますか。吾々は何時でもお供出来るように用意しております」と、海軍の[[宇垣纏]]が終戦後に中津留達雄大尉らを連れて「私兵特攻」出撃したこと、陸軍側も同様特攻指揮官と特攻隊員で一緒に出撃すべしと申し出たが、菅原は十数秒間黙考したのち「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と、鈴木のときと同様に、天皇陛下の命令を守り、一人の死者も出せないと振武隊員らを諭したとしている。菅原も伊藤の著書を読み「伊藤氏の如き著名な大記者がそのときの光景を正しく書いたことに感謝している」と述べている{{Sfn|深堀道義|2001|p=331}}。高木は、自分で直接取材をしていないことでもを小説のように記述することがあり、菅原が特攻出撃を泣き言を言って拒否したとされる高木記述は、菅原を始め旧軍に批判的な高木が意図的に悪く書いたとの指摘もある{{Sfn|深堀道義|2001|p=333}}。


高木が事実に脚色して書いた例としては、初の[[神風特別攻撃隊]]の指揮官となった[[関行男]]大尉に、[[同盟通信社]]の記者で海軍報道班員の小野田政が取材に行ったところ、顔面蒼白となった関から[[拳銃]]を突きつけられ「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴られたと、[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]1975年6月号に記述したことが挙げられる<ref>{{Harvnb|森本忠夫|1992|pp=130-133}}</ref>。これは小野田本人から、このような事実はなかったと否定されており、戦後に何らかの機会で高木と小野田が面談した際の雑談の中から思いついたものと推測されている<ref>{{Harvnb|深堀道義|2001|pp=278-279}}</ref>。また、『陸軍特別攻撃隊』において、訓練中に不注意で叱責のために殴られたのが、この著作の主要登場人物[[佐々木友次]]伍長であったのにも関わらず<ref>{{Harvnb|大東亜戦史③|1969|p=381}}</ref>、他の「[[万朶隊]]」隊員の[[近藤行雄]]伍長にされていたり<ref>{{Harvnb|高木俊朗㊤|1983|p=292}}</ref>、「万朶隊」初出撃の際に、佐々木が自ら出撃を直訴して出撃が決定したように記述しているが<ref>{{Harvnb|高木俊朗㊤|1983|p=297}}</ref>、実際は佐々木は当初から出撃が決定しており、出撃を直訴したのは佐々木ではなく、負傷離脱していた[[鵜沢邦夫]]軍曹であったなど、他の隊員の武勇伝や美談を佐々木のものにすり替えるような記述がされている<ref>{{Harvnb|現代読本④|1956|p=252}}</ref>。
高木が事実に脚色して書いた例としては、初の[[神風特別攻撃隊]]の指揮官となった[[関行男]]大尉に、[[同盟通信社]]の記者で海軍報道班員の小野田政が取材に行ったところ、顔面蒼白となった関から[[拳銃]]を突きつけられ「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴られたと、[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]1975年6月号に記述したことが挙げられる<ref>{{Harvnb|森本忠夫|1992|pp=130-133}}</ref>。これはのちに小野田本人から、このような事実はなかったと否定されており、戦後に何らかの機会で高木と小野田が面談した際の雑談の中から思いついたものと推測されている<ref>{{Harvnb|深堀道義|2001|pp=278-279}}</ref>。また、『陸軍特別攻撃隊』において、訓練中に不注意で叱責のために殴られたのが、この著作の主要登場人物[[佐々木友次]]伍長であったのにも関わらず<ref>{{Harvnb|大東亜戦史③|1969|p=381}}</ref>、他の「[[万朶隊]]」隊員の[[近藤行雄]]伍長にされていたり<ref>{{Harvnb|高木俊朗㊤|1983|p=292}}</ref>、「万朶隊」初出撃の際に、佐々木が自ら出撃を直訴して出撃が決定したように記述しているが<ref>{{Harvnb|高木俊朗㊤|1983|p=297}}</ref>、実際は佐々木は当初から出撃が決定しており、出撃を直訴したのは佐々木ではなく、負傷離脱していた[[鵜沢邦夫]]軍曹であったなど、他の隊員の武勇伝や美談を佐々木のものにすり替えるような記述がされている<ref>{{Harvnb|現代読本④|1956|p=252}}</ref>。


菅原については、高木が特攻の著作を書くに当たって、情報や資料を積極的に提供するなど、当初は親密な関係を構築していたが、1961年に高木の特攻隊に関する著作の映画化の話が持ち上がった際に<ref>1964年6月劇場公開「出撃」、配給:[[日活]]、監督:[[滝沢英輔]]、脚本:[[八住利雄]]、主演:[[浜田光夫]]</ref>、取材協力をしていた菅原が高木に「特攻作戦の施策に関して、当局や高級指揮官を苛烈に批判するのは構わないが、特攻勇士を揶揄したり冷笑したり英霊を冒涜することはやめてほしい」「特攻はあくまでも志願であった。当時の雰囲気で志願の強制に陥ったことは生存者の手記等で十分にうかがわれるが、極力、志願を根本としたことは、編成面や天皇への上奏で明らかである」「映画の観客に媚びるために多少の[[ラブシーン]]は仕方ないが、新鮮、清潔でほどほどにしてほしい」「できれば原稿を一覧させてほしい」などと要望の手紙を出したが、高木はこの手紙の内容を、旧軍人の権威主義に基づくおどしであり、検閲に等しいものだと激しく非難し、内容を暴露、特に「ラブシーンの抑制」の意見に関しては、特攻隊員が愛する女性への未練を残すような描写をすることは、特攻隊員を神扱いにし、祖国に対して未練も無く勇ましく出撃したという菅原ら旧軍人の理想像に反するから要望したと激しく批判した<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|pp=465-474}}</ref>。
菅原については、高木が特攻の著作を書くに当たって、情報や資料を積極的に提供するなど、当初は親密な関係を構築していたが、1961年に高木の特攻隊に関する著作の映画化の話が持ち上がった際に<ref>1964年6月劇場公開「出撃」、配給:[[日活]]、監督:[[滝沢英輔]]、脚本:[[八住利雄]]、主演:[[浜田光夫]]</ref>、取材協力をしていた菅原が高木に「特攻作戦の施策に関して、当局や高級指揮官を苛烈に批判するのは構わないが、特攻勇士を揶揄したり冷笑したり英霊を冒涜することはやめてほしい」「特攻はあくまでも志願であった。当時の雰囲気で志願の強制に陥ったことは生存者の手記等で十分にうかがわれるが、極力、志願を根本としたことは、編成面や天皇への上奏で明らかである」「映画の観客に媚びるために多少の[[ラブシーン]]は仕方ないが、新鮮、清潔でほどほどにしてほしい」「できれば原稿を一覧させてほしい」などと要望の手紙を出したが、高木はこの手紙の内容を、旧軍人の権威主義に基づくおどしであり、検閲に等しいものだと激しく非難し、内容を暴露、特に「ラブシーンの抑制」の意見に関しては、特攻隊員が愛する女性への未練を残すような描写をすることは、特攻隊員を神扱いにし、祖国に対して未練も無く勇ましく出撃したという菅原ら旧軍人の理想像に反するから要望したと激しく批判した<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|pp=465-474}}</ref>。
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『知覧』においても、高木が[[航空自衛隊]]に取材に訪れた際に、同席していた菅原から「特攻隊のことを書くのは結構だが、特攻観音のことも、大いに書いてもらいたい。わしは今日も、お参りに行くところだが、このことを、よく念を押そうと思って君がくるのを待っていたのだ」と話しかけられたことを、「特攻観音の建立に協力し慰霊もして罪の償いはできたとアピールしていると感じた」と、菅原ら元特攻関係者らが、責任逃れの一環として特攻隊員の慰霊活動をしているとする非難する記述を行った<ref>[[高木俊朗]]『知覧』電子版P.3838</ref>。特攻観音については、戦後に自費で全国の特攻隊員遺族巡りをしていた菅原が音頭をとって、元日本陸軍[[航空総軍]]司令官[[河辺正三]]や[[軍令部#歴代軍令部総長|軍令部総長]][[及川古志郎]]ら元軍幹部など「特攻平和観音奉賛会」を設立{{Sfn|佐藤|pp=239-255}}、[[法隆寺]]の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた<ref name="sinbup278">『特攻隊振武寮』p.278</ref>「特攻平和観音像」を4体建立し、うち1体を、陸軍航空隊の特攻基地であった[[知覧]]に祀りたいと申し出たものであり<ref>{{Harvnb|知覧高女なでしこ会 |1979|p=219}}</ref>、同時に、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のため[[知覧町]]に協力を要請し、日本全国でも寄付金を募った<ref>{{Cite journal|和書|author=知覧町 |title=母の像・特攻平和会館の由来 世界恒久平和を願って|url=http://www.honobono-taiken.net/kagoshima.attaka.minpaku/chirantokkoheiwakinenkan.annai.pdf |formt=PDF |page=12 |publisher=知覧町|date=1999年5月}}</ref>。地元知覧でも、「特攻の母」として高名であった[[鳥濱トメ]]が知覧町役場に協力を要請するなど積極的に行動していたが、観音堂建立の動きは戦後間もなくの反軍反戦の風潮のなか、[[平和運動|平和運動団体]]などから「戦争賛美」と批判されるなど大変な苦労をしており{{Sfn|福間|山口|2015|p=37}}、鳥濱ら関係者はその都度「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」とはっきり反論し、建立にこぎつけたものであった{{Sfn|佐藤|p=255}}。
『知覧』においても、高木が[[航空自衛隊]]に取材に訪れた際に、同席していた菅原から「特攻隊のことを書くのは結構だが、特攻観音のことも、大いに書いてもらいたい。わしは今日も、お参りに行くところだが、このことを、よく念を押そうと思って君がくるのを待っていたのだ」と話しかけられたことを、「特攻観音の建立に協力し慰霊もして罪の償いはできたとアピールしていると感じた」と、菅原ら元特攻関係者らが、責任逃れの一環として特攻隊員の慰霊活動をしているとする非難する記述を行った<ref>[[高木俊朗]]『知覧』電子版P.3838</ref>。特攻観音については、戦後に自費で全国の特攻隊員遺族巡りをしていた菅原が音頭をとって、元日本陸軍[[航空総軍]]司令官[[河辺正三]]や[[軍令部#歴代軍令部総長|軍令部総長]][[及川古志郎]]ら元軍幹部など「特攻平和観音奉賛会」を設立{{Sfn|佐藤|pp=239-255}}、[[法隆寺]]の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた<ref name="sinbup278">『特攻隊振武寮』p.278</ref>「特攻平和観音像」を4体建立し、うち1体を、陸軍航空隊の特攻基地であった[[知覧]]に祀りたいと申し出たものであり<ref>{{Harvnb|知覧高女なでしこ会 |1979|p=219}}</ref>、同時に、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のため[[知覧町]]に協力を要請し、日本全国でも寄付金を募った<ref>{{Cite journal|和書|author=知覧町 |title=母の像・特攻平和会館の由来 世界恒久平和を願って|url=http://www.honobono-taiken.net/kagoshima.attaka.minpaku/chirantokkoheiwakinenkan.annai.pdf |formt=PDF |page=12 |publisher=知覧町|date=1999年5月}}</ref>。地元知覧でも、「特攻の母」として高名であった[[鳥濱トメ]]が知覧町役場に協力を要請するなど積極的に行動していたが、観音堂建立の動きは戦後間もなくの反軍反戦の風潮のなか、[[平和運動|平和運動団体]]などから「戦争賛美」と批判されるなど大変な苦労をしており{{Sfn|福間|山口|2015|p=37}}、鳥濱ら関係者はその都度「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」とはっきり反論し、建立にこぎつけたものであった{{Sfn|佐藤|p=255}}。


高木に対しては、菅原も資料の提供などの協力を行っていたのに、高木の記述は必ずしも資料や証言通りではなかったので、菅原の周囲は高木に抗議すべきと促したが、菅原本人は「放っておけ、わかっている人はわかっているんだから」と意に介さず、「高木俊朗にはあること無いことを書かれてしまったよ」と笑いながら語り、敢て反論はしなかったという{{Sfn|深堀道義|2001|p=342}}。菅原に対する批判的な記述を著作にしていたのにも関わらず、高木は菅原の陸軍幼年学校からの永年の同窓で盟友でもある[[石原莞爾]]のこと書きして菅原に資料の提供を要請したときには、自分の批判に対する反論を控えていた菅原ではあったが、「君に資料を貸したら、全く逆のことを書かれてしまう。断る」ときっぱり拒絶したため、それ以降、前にも増して高木の著作に菅原を非難する記述が目立つようになった{{Sfn|深堀道義|2001|p=337}}。その後も『陸軍特別攻撃隊』などにより、菅原には「死を恐れて自決もしなかった愚将」という評価が定着していき、同じように戦後に自決することがなかった特攻隊指揮官[[富永恭次]]とともに強い非難受けたが、菅原がその悪評に対して積極的に反論することはなかった{{Sfn|深堀道義|2001|p=337}}。
高木に対しては、菅原も資料の提供などの協力を行っていたのに、高木の記述は必ずしも資料や証言通りではなかったので、菅原の周囲は高木に抗議すべきと促したが、菅原本人は「放っておけ、わかっている人はわかっているんだから」と意に介さず、「高木俊朗にはあること無いことを書かれてしまったよ」と笑いながら語り、敢て反論はしなかったという{{Sfn|深堀道義|2001|p=342}}。高木は、菅原に対する批判的な記述をしていたのにも関わらず、菅原の陸軍幼年学校からの永年の同窓で盟友でもある[[石原莞爾]]に関する著作執筆計画したときには、菅原に資料の提供を要請している。自分の批判に対する反論を控えていた菅原ではあったが、「君に資料を貸したら、全く逆のことを書かれてしまう。断る」と協力をきっぱり拒絶したため、それ以降、前にも増して高木の著作に菅原を非難する記述が目立つようになった{{Sfn|深堀道義|2001|p=337}}。その後も『陸軍特別攻撃隊』など高木の著作の引用などにより、菅原には「死を恐れて自決もしなかった愚将」という評価が定着していき、同じように戦後に自決することがなかった特攻隊指揮官[[富永恭次]]とともに強い批判浴びたが、菅原がその悪評に対して積極的に反論することはなかった{{Sfn|深堀道義|2001|p=337}}。


『陸軍特別攻撃隊』で強く批判された富永についても、戦後に[[ソビエト連邦]]に捕虜となった際に、ソ連側の尋問で、1941年のソ連攻撃計画(いわゆる[[関東軍特種演習]])について「私は宮中に行き、天皇と[[閑院宮載仁親王]]にこの計画を説明した」「数日後、天皇はこれを承認した」という自供をし、この自供は[[天皇の戦争責任]]を追求するためのソビエト連邦の[[プロパガンダ]]として利用されて、1946年8月31日にはモスクワから全世界に向けてラジオ放送されたとなどと記述しているが<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=425}}</ref>、富永が、対ソビエト謀略の最前線にいたことが多かったので、わざわざ[[モスクワ]]に護送され、[[ルビャンカ]]の監獄に拘置されて厳しい尋問を受けながら、富永がなかなか核心に触れなかったので、尋問は6年もの長きに渡ったことや<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>、その尋問の結果、1952年1月モスクワ軍管区の軍法会議にかけられ、当初は[[死刑]]を求刑されていたが、[[懲役]]75年の判決が確定して、[[シベリア鉄道]]と[[バイカル・アムール鉄道]](バム鉄道)の沿線となる[[タイシェット]]のラーゲリに送られたことは記述されていない。バム鉄道沿線のラーゲリの労働条件はもっとも厳しく、特にバム鉄道の建設に従事させられた抑留者は「枕木1本に日本人死者1人」と言われたぐらい死亡者が多かったという<ref>2014年10月19日付神奈川新聞『シベリア抑留 何があったのか(上)飢えと極寒、倒れる戦友』</ref>。そのような環境下で、富永は将官であったからといって特別扱いを受けることは無く、一般の兵士と同様に、材木の[[ノコギリ]]引き、[[建材]]製造、野菜の選別、雪かき、掃除等の重労働が課せられた。その後も、2年で4カ所の[[ラーゲリ]]を転々とさせられ、ラーゲリ内では[[看守]]から踏んだり蹴ったりという暴力を振るわれていた<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>。
『陸軍特別攻撃隊』で強く批判された富永についても、戦後に[[ソビエト連邦]]に捕虜となった際に、1941年のソ連攻撃計画(いわゆる[[関東軍特種演習]])についてソ連軍から尋問されて、「私は宮中に行き、天皇と[[閑院宮載仁親王]]にこの計画を説明した」「数日後、天皇はこれを承認した」という、天皇に戦争責任があるかのような自供をし、この自供は[[天皇の戦争責任]]を追求するためのソビエト連邦の[[プロパガンダ]]として利用されて、1946年8月31日にはモスクワから全世界に向けてラジオ放送されたとなどと記述しているが<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=425}}</ref>、富永が、対ソビエト謀略の最前線にいたことが多かったので、わざわざ[[モスクワ]]に護送され、[[ルビャンカ]]の監獄に拘置されて厳しい尋問を受けながら、なかなか核心に至る証言をしなかったので、尋問は6年もの長きに渡ったことや<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>、その尋問の結果、1952年1月モスクワ軍管区の軍法会議にかけられ、当初は[[死刑]]を求刑されていたが、[[懲役]]75年の判決が確定して、[[シベリア鉄道]]と[[バイカル・アムール鉄道]](バム鉄道)の沿線となる[[タイシェット]]の[[ラーゲリ]]に送られたことは記述されていない。バム鉄道沿線のラーゲリの労働条件はもっとも厳しく、特にバム鉄道の建設に従事させられた抑留者は「枕木1本に日本人死者1人」と言われたぐらい死亡者が多かったという<ref>2014年10月19日付神奈川新聞『シベリア抑留 何があったのか(上)飢えと極寒、倒れる戦友』</ref>。そのような環境下で、富永は将官であったからといって特別扱いを受けることは無く、一般の兵士と同様に、材木の[[ノコギリ]]引き、[[建材]]製造、野菜の選別、雪かき、掃除等の重労働が課せられた。その後も、2年で4カ所のラーゲリを転々とさせられ、ラーゲリ内では[[看守]]から踏んだり蹴ったりという暴力を振るわれていた<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>。


ラーゲリでは、ソ連側の政治教育が継続的に行われていたが、もっとも重要視されたのは、天皇制破壊、天皇制打倒だった。ソ連は教育を受け入れた者は早めに帰国させるという条件を出していたので、早く故国に帰りたいという一心でソ連の政治教育を受け入れた抑留者も多かったが、富永はそれをはねのけていたという。そのためか体調がすぐれない富永に他の健常者と同様な強制労働が課せられていたが、同じ抑留者たちが富永を支えてくれたので、どうにか生き長らえることができた。しかし、1954年春に[[高血圧症]]から[[脳溢血]]を発症して入院、医師の診断の結果、今後、強制労働につくのは無理とされて、裁判により釈放が決定された。富永はその判決を病院までわざわざ出向いてきた裁判官から直接聞かされたという<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>。
ラーゲリでは、ソ連側の政治教育が継続的に行われていたが、もっとも重要視されたのは、天皇制破壊、天皇制打倒だった。ソ連は教育を受け入れた者は早めに帰国させるという条件を出していたので、早く故国に帰りたいという一心でソ連の政治教育を受け入れた抑留者も多かったが、富永はそれをはねのけていたという。そのためか体調がすぐれない富永に他の健常者と同様な強制労働が課せられていたが、同じ抑留者たちが富永を支えてくれたので、どうにか生き長らえることができた。しかし、1954年春に[[高血圧症]]から[[脳溢血]]を発症して入院、医師の診断の結果、今後、強制労働につくのは無理とされて、裁判により釈放が決定された。富永はその判決を病院までわざわざ出向いてきた裁判官から直接聞かされたという<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>。


[[1955年]](昭和30年)4月18日、引揚船「[[興安丸]]」で[[舞鶴港]]に帰国し、多くの旧軍人ら関係者たちが出迎えた。10年間の抑留生活と脳溢血の影響ですっかりと身体は弱っており、ひとりで満足に歩行できず、しゃべるのも困難となっていたことについて高木は、そこまで体調は悪くないのではと疑問を投げかけているが、富永が脳溢血を発症したことには触れていない<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=429}}</ref>。また、帰国した富永は「シベリアでわが将兵、わが同胞が現在なお、いかに苦しい思いをしているかを説明し、帰還を促進してもらうよう陳情します」と、自分と同じ境遇ながらまだ帰国を果たせないシベリア抑留者の解放に向けて尽力することとし<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=429}}</ref>、[[国会]]で[[参考人]]として自身の体験を証言して、日本政府に問題解決を訴えているが、このことについても高木は無視している<ref>1955年(昭和30年)6月9日 第022回 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第003号</ref> 。
[[1955年]](昭和30年)4月18日、引揚船「[[興安丸]]」で[[舞鶴港]]に帰国し、多くの旧軍人ら関係者たちが出迎えた。富永は10年間の抑留生活と脳溢血の影響ですっかりと身体は弱っており、ひとりで満足に歩行できず、しゃべるのも困難となっていたことについて高木は、富永が船内で見栄のために服を着替えたことを取り上げて、そこまで体調は悪くないのではと疑問を投げかけているが、富永が脳溢血を発症して、健康面の問題から解放されたことには触れていない<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=429}}</ref>。また、帰国した富永は「シベリアでわが将兵、わが同胞が現在なお、いかに苦しい思いをしているかを説明し、帰還を促進してもらうよう陳情します」と、自分と同じ境遇ながらまだ帰国を果たせないシベリア抑留者の解放に向けて尽力することとし<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=429}}</ref>、[[国会]]で[[参考人]]として自身の体験を証言して、日本政府に問題解決を訴えているが、このことについても高木は無視している<ref>1955年(昭和30年)6月9日 第022回 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第003号</ref> 。


さらに国会で富永が、[[相馬助治]]参議院議員から、「率直に申して、あなたの評判はきわめてまずい。いわゆるフィリピンから引き揚げられたときのことがいろいろジャーナリストの諸君によってうわさされております。おそらく、あなた自身にしては御迷惑な思慮判断等によって不当の批判を受けている面もおありと私は思うのです」と、帰国後に雑誌[[サンデー毎日]]などから、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]司令官時の作戦指揮について批判されていることへの質問がなされているが、富永は「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところと、深く皆様方を初め国民の各位におわびを申すほかはございません。みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません」「この点は、私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております」「この間のサンデー毎日なんかにも、私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。私が皆悪いために、ああいう批評を受ける次第でございます。どうかそのおつもりで、私の周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます。この点はくれぐれも御了承をお願いいたします。」と答え、敗軍の将の自分が語ることはなにもないが、全ては自分の責任であったと陳謝し<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>、新聞の投書で富永を擁護した長女に「余計なことをするな」と叱りつけるなど、沈黙を貫いたのにも関わらず<ref>『サンデー毎日 1955年5月8日号』 p.83</ref>、唯一、戦時中の回想として書いた「比島航空作戦の回顧」という回顧録の記述を持って、高木は富永が保身に汲々としているとも批判している<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=439}}</ref>。この回想録についても、「少しも戦場における勘の鋭さがなく、神通力という域にはおよそ縁遠い幼稚な観察眼だと笑われても一言もない」「馬車馬的な視野狭少の感あり、心を込めて幕僚の具申に相済まぬことをしたとと自らの不明を恥じている」「私の不徳、私の連携の不十分の致すところ、これまた恐悦至極の至りである」と富永は懺悔の言葉を並べている{{Sfn|戦史叢書48|1971|p=付録}}。
さらに国会で富永が、[[相馬助治]]参議院議員から、「率直に申して、あなたの評判はきわめてまずい。いわゆるフィリピンから引き揚げられたときのことがいろいろジャーナリストの諸君によってうわさされております。おそらく、あなた自身にしては御迷惑な思慮判断等によって不当の批判を受けている面もおありと私は思うのです」と、帰国後に雑誌[[サンデー毎日]]などから、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]司令官時の作戦指揮について批判されていることへの質問がなされているが、富永は「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところと、深く皆様方を初め国民の各位におわびを申すほかはございません。みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません」「この点は、私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております」「この間のサンデー毎日なんかにも、私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。私が皆悪いために、ああいう批評を受ける次第でございます。どうかそのおつもりで、私の周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます。この点はくれぐれも御了承をお願いいたします。」と答え、敗軍の将の自分が語ることはなにもないが、全ては自分の責任であったと陳謝し<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>、新聞の投書で富永を擁護した長女に「余計なことをするな」と叱りつけるなど、沈黙を貫いたのにも関わらず<ref>『サンデー毎日 1955年5月8日号』 p.83</ref>、唯一、富永が戦時中の回想として書いた「比島航空作戦の回顧」という回顧録の記述を持って、高木は富永が保身に汲々としているとも批判している<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=439}}</ref>。この回想録についても、「少しも戦場における勘の鋭さがなく、神通力という域にはおよそ縁遠い幼稚な観察眼だと笑われても一言もない」「馬車馬的な視野狭少の感あり、心を込めて幕僚の具申に相済まぬことをしたとと自らの不明を恥じている」「私の不徳、私の連携の不十分の致すところ、これまた恐悦至極の至りである」と富永は懺悔の言葉を並べている{{Sfn|戦史叢書48|1971|p=付録}}。


また、知覧町の知名度向上には、『知覧』が大いに貢献し、高木は「特攻の母」こと[[鳥濱トメ]]や[[鹿児島県立薩南工業高等学校|知覧高等女学校]]の女生徒で編成された[[勤労奉仕隊]]「なでしこ隊」の元女学生ら知覧町の人たちと良好な関係を構築し、知覧町の町報に鳥濱トメ宅で、笑顔で会食する高木と元女学生の写真が掲載されたりしていたが{{Sfn|福間|山口|2015|p=46}}、特攻の慰霊施設を観光資源とし知覧の観光地化を進め、「特攻平和観音像」建立の発起人として、自ら[[ガリ版]]刷りで案内状を印刷するなど主導的な立場で、特攻隊員の慰霊・顕彰に尽力し成果を挙げていた菅原<ref name="特攻92号p13">{{Cite journal|和書|author=水町博勝 |title=菅原道煕顧問追悼の記 |url=http://www.tokkotai.or.jp/files/kikanshi/tokko_pdf/tokko_92.pdf |formt=PDF |journal=[http://www.tokkotai.or.jp/backnumber90.html 特攻] |issue=92 |page=13 |publisher=公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会|date=2012年8月}}</ref>ら旧軍人とも良好な関係を築いていた知覧町の人たちに対して、旧軍人や特攻には徹底して批判的であった高木は次第に苛立ちを募のらせていく{{Sfn|福間|山口|2015|p=50}}。当時の旧軍人と知覧町の関係については、菅原らの慰霊祭への参列がたびたび知覧町の町報で報じられており、良好な関係がうかがえる{{Sfn|福間|山口|2015|p=62}}。高木が知覧町が開設した[[知覧特攻平和会館|知覧特攻遺品館]]を訪れた際には、特攻の概要の音声説明に高木の著作の記述の一部が無断で使用されていたり、また遺品の展示の仕方や施設の運営のあり方も高木の理想とはほど遠かったため、「特攻遺品館は、低俗、後進意識で運営されている」「特攻を観光化して不潔」などと激しい言葉で非難{{Sfn|福間|山口|2015|p=83}}、また以前は懇意にしていた「なでしこ隊」の元女学生らが出版した「知覧特攻基地」という著作を「私の著作に反論し、特攻を肯定する著作だ」と激しく非難した<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|pp=561-562}}</ref>。ただし、「知覧特攻基地」は「なでしこ隊」の女生徒自らの戦中戦後の手記や、特攻隊員の遺書等をまとめたもので、具体的な高木に対する反論の記述はない<ref>{{Harvnb|知覧高女なでしこ会 |1979|pp=216-281}}</ref>。
知覧町の知名度向上には、高木の著作『知覧』が大いに貢献し、高木は「特攻の母」こと[[鳥濱トメ]]や[[鹿児島県立薩南工業高等学校|知覧高等女学校]]の女生徒で編成された[[勤労奉仕隊]]「なでしこ隊」の元女学生ら知覧町の人たちと良好な関係を構築し、知覧町の町報に鳥濱トメ宅で、笑顔で会食する高木と元女学生の写真が掲載されたりしていたが{{Sfn|福間|山口|2015|p=46}}、特攻の慰霊施設を観光資源とし知覧の観光地化を進め、「特攻平和観音像」建立の発起人として、自ら[[ガリ版]]刷りで案内状を印刷するなど主導的な立場で、特攻隊員の慰霊・顕彰に尽力し成果を挙げていた菅原<ref name="特攻92号p13">{{Cite journal|和書|author=水町博勝 |title=菅原道煕顧問追悼の記 |url=http://www.tokkotai.or.jp/files/kikanshi/tokko_pdf/tokko_92.pdf |formt=PDF |journal=[http://www.tokkotai.or.jp/backnumber90.html 特攻] |issue=92 |page=13 |publisher=公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会|date=2012年8月}}</ref>ら旧軍人とも良好な関係を築いていた知覧町の人たちに対して、旧軍人や特攻には徹底して批判的であった高木は次第に苛立ちを募のらせていく{{Sfn|福間|山口|2015|p=50}}。当時の旧軍人と知覧町の関係については、菅原らの慰霊祭への参列がたびたび知覧町の町報で報じられており、良好な関係がうかがえる{{Sfn|福間|山口|2015|p=62}}。高木が知覧町が開設した[[知覧特攻平和会館|知覧特攻遺品館]]を訪れた際には、特攻の概要の音声説明に高木の著作の記述の一部が無断で使用されていたり、また遺品の展示の仕方や施設の運営のあり方も高木の理想とはほど遠かったため、「特攻遺品館は、低俗、後進意識で運営されている」「特攻を観光化して不潔」などと激しい言葉で批判{{Sfn|福間|山口|2015|p=83}}、また以前は懇意にしていた「なでしこ隊」の元女学生らが出版した「知覧特攻基地」という著作を「私の著作に反論し、特攻を肯定する著作だ」と激しく非難した<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|pp=561-562}}</ref>。ただし、「知覧特攻基地」は「なでしこ隊」の女生徒自らの戦中戦後の手記や、特攻隊員の遺書等をまとめたもので、具体的な高木に対する反論の記述はない<ref>{{Harvnb|知覧高女なでしこ会 |1979|pp=216-281}}</ref>。


一方で、高木が著書の中に掲載した「なでしこ隊」の女学生が作ったとする[[短歌]]が、実は高木自身が作ったものであり、短歌の作者として実在の女学生の名前を勝手に使用していたということが判明したり{{Sfn|深堀道義|2004|p=242}}、当初は快く高木の取材を受けていた鳥濱が、話したことと著作の記述があまりにも違っていたり、著書には記述しないと約束していた[[プライバシー]]に関することを、鳥濱の許可なく記述されたりしたことが続いたため{{Sfn|佐藤|p=232}}、不信感を募らせてすっかり取材嫌いとなってしまい、後年は高木を含むジャーナリズムに関係する人間の取材を「あんたらに話すことはなにもないよ」と一切拒否するようになってしまった。鳥濱は心を許していた元特攻隊員に「世の中には我が事ばかり考えて、人様の迷惑は顧みない人が多い」とこぼしていたという{{Sfn|深堀道義|2004|pp=247-248}}。高木が激しい言葉で非難した「知覧特攻遺品館」においても、高木が自身の著作の販売を申し入れしたところ、当時の館長がその申し入れを拒否しているなど{{Sfn|深堀道義|2004|p=243}}、高木と知覧町の人たちは、最後には完全に袂を分かつこととなっている{{Sfn|福間|山口|2015|p=50}}。
一方で、高木が著書の中に掲載した「なでしこ隊」の女学生が作ったとする[[短歌]]が、実は高木自身が作ったものであり、短歌の作者として実在の女学生の名前を勝手に使用していたということが判明したり{{Sfn|深堀道義|2004|p=242}}、当初は快く高木の取材を受けていた鳥濱が、話したことと著作の記述があまりにも違っていたり、著書には記述しないと約束していた[[プライバシー]]に関することを、鳥濱の許可なく記述されたりしたことが続いたため{{Sfn|佐藤|p=232}}、不信感を募らせてすっかり取材嫌いとなってしまい、後年は高木を含むジャーナリズムに関係する人間の取材を「あんたらに話すことはなにもないよ」と一切拒否するようになってしまった。鳥濱は心を許していた元特攻隊員に「世の中には我が事ばかり考えて、人様の迷惑は顧みない人が多い」とこぼしていたという{{Sfn|深堀道義|2004|pp=247-248}}。高木が激しい言葉で批判した「知覧特攻遺品館」においても、高木が自身の著作の販売を申し入れしたところ、当時の館長がその申し入れを拒否しているなど{{Sfn|深堀道義|2004|p=243}}、高木と知覧町の人たちは、最後には完全に袂を分かつこととなっている{{Sfn|福間|山口|2015|p=50}}。


<!--{{要検証範囲|筆者が上原良司の遺族である上原清子 氏にお聴きした事実によると|date=2010年11月}}特攻隊の事やインパール作戦の実態を、良い事も悪い事もジャーナリズムの観点から、腐敗した当事の軍司令官や軍幹部を筆誅とする批判を行い、戦後になって菅原道大ら高級将校らが指揮した特攻作戦を正当化・美化せんと基地の存在の歴史事実を利用した、いわゆる町おこしのような意味合いを持つに至るハコモノである、知覧特攻平和会館の建設などを著作『特攻基地知覧』([[角川文庫]])あとがきにおいて痛烈に批判するなど、知覧町の観光地化批判を書き過ぎた為に、知覧町民や菅原道大ら当時の作戦立案とその実行指揮命令者ら関係者の恨みを買い、正に言論袋叩きに遭い、その後は一度も知覧には訪問しなかったとの事。詳しくは『特攻基地知覧』([[角川文庫]])を参照のこと。-->
<!--{{要検証範囲|筆者が上原良司の遺族である上原清子 氏にお聴きした事実によると|date=2010年11月}}特攻隊の事やインパール作戦の実態を、良い事も悪い事もジャーナリズムの観点から、腐敗した当事の軍司令官や軍幹部を筆誅とする批判を行い、戦後になって菅原道大ら高級将校らが指揮した特攻作戦を正当化・美化せんと基地の存在の歴史事実を利用した、いわゆる町おこしのような意味合いを持つに至るハコモノである、知覧特攻平和会館の建設などを著作『特攻基地知覧』([[角川文庫]])あとがきにおいて痛烈に批判するなど、知覧町の観光地化批判を書き過ぎた為に、知覧町民や菅原道大ら当時の作戦立案とその実行指揮命令者ら関係者の恨みを買い、正に言論袋叩きに遭い、その後は一度も知覧には訪問しなかったとの事。詳しくは『特攻基地知覧』([[角川文庫]])を参照のこと。-->

==著作==
==著作==
*『イムパール』雄鶏社、1949
*『イムパール』雄鶏社、1949

2020年2月17日 (月) 03:55時点における版

高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年7月18日 - 1998年6月25日)は、日本映画監督脚本家ノンフィクション作家である。

略歴

東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業、松竹蒲田撮影所に入社、清水宏に師事。その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作する。太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシアインドネシアタイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意する。

戦争末期、1945年鹿児島県知覧町(現南九州市)の航空基地に転属、特攻隊員たちとの交流を通じて、かれらに人間的苦悩にふれて、その真実を書き留めようと戦記作家として執筆活動をはじめる。

知覧駐在中、慶應義塾大学経済学部より学徒出陣させられた陸軍特別攻撃隊員、上原良司(第56振武隊特別操縦見習士官、階級は少尉)にその出撃前夜、絶筆となった所感の執筆を依頼。戦死直後の6月には軍部の検閲の眼を盗み、直接遺族の両親と妹達に届けた。戦後、『きけ わだつみのこえ』に寄稿し、上原の手記が巻頭を飾る事になった。

1951年、フリーの映画製作者となり、主として記録映画の脚本、監督にあたる。1952年ブラジルの移民史映画製作のため、3月ブラジルに渡航。しかし受け入れ側の契約不履行によって、映画の製作は中止となったか、当地の日系人社会において敗戦を認めない勝ち組と敗戦を認める負ち組が対立して、大混乱に陥っていることを知る。その真相を突き止めるため、10ヶ月間ブラジルに滞在して取材活動を続ける。1954年製作の映画『白き神々の座 日本ヒマラヤ登山隊の記録』(演出を担当)はブルーリボン賞を受賞。

1957年刊行の『遺族』(出版協同社)、および『知覧』(朝日新聞社、1965年)、『陸軍特別攻撃隊』(文藝春秋、1974-75年)などとともに、特攻隊員の筆舌に尽くしがたい悲しみや、陸軍第4航空軍司令官富永恭次中将と第6航空軍司令官菅原道大中将ら、特攻隊の出撃計画を練り上げて指揮命令した者たちの腐敗の実態を、闇に葬り去らせることなく衆目に曝すこととなった。1975年、『陸軍特別攻撃隊』で菊池寛賞を受賞。学徒出陣や特攻隊をテーマに数多くの講演会に講師として参加。1989年、千葉朝日カルチャー・センターのノンフィクション講座講師をつとめる。

1963年に朝日新聞社が、大阪本社創刊85年、東京本社創刊75周年を記念する事業として一千万円懸賞小説を募集した時にくしくも2席に入賞した。この時の優勝作品は三浦綾子の『氷点』だった。

1998年6月、右腎臓癌のため逝去、享年89。本人の遺志で葬儀・告別式は行なわれなかった(「朝日新聞」1998年7月7日付)。墓所は静岡県駿東郡小山町冨士霊園の文学者之墓。

著述活動

1949年に第33師団を主題とした『イムパール』を執筆した。以降、『抗命』『戦死』『全滅』『憤死』などインパール5部作、『陸軍特別攻撃隊』1~3、『狂信 ブラジル日本移民の騒乱』などの多くの戦争記録文学作品を発表した。

なお、『抗命』の初版には秋山修道の同名書と同じく「烈師団長発狂す」との副題がつけられている(文庫版ではこの副題は削除された)。実際には第31師団長、佐藤幸徳は上官である牟田口廉也の上申で確かに精神鑑定を受けることになったものの、作戦中も、その後の精神状態も正常との結論が下されており、医学的にはこの表現は誤りである。高木は『イムパール』の終盤で佐藤を「きちがいになった-しかし真相は別にある」と書いており、「これが、実は牟田口中将の目的であった」と牟田口の責任回避策である旨を明言していた[1]。その後、高度経済成長期に入ると部隊史が相次いで刊行され、資料が充実した為、高木は数年の準備期間をかけ再取材を実施し、東京新聞に1966年7月5日から10月8日まで『抗命』の連載を行った。更に書籍化の企画が文藝春秋より持ち込まれたため、出版に際して誤認訂正と大幅な加筆を実施している[2]。そのため、文庫版などでは軍医が正常と診断した旨についても明記されている。一方、鑑定を行った精神科医(当時軍医大尉)山下實六は『抗命』の調査への努力は評価しているものの、当時を回顧する講演でこの誤解に触れ、この表題をつけた作者の一人として高木を名指ししている[3]

高木は特攻関係者を、著作『知覧』や『陸軍特別攻撃隊』により激しく糾弾したが、その記述については必ずしも事実ではないとの指摘もあっている。『知覧』において、終戦後に第6航空軍司令の菅原が、参謀長の川嶋虎之輔少将と協議していたときに、参謀鈴木京大佐が、「軍司令官閣下もご決心なさるべきかとおもいます。重爆一機用意しました。鈴木もお供します」と菅原も特攻出撃して責任をとるべきだと詰め寄ったが、菅原は「自分は、これからあとの始末が大事と思う。死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それよりは、後の始末をよくしたいと思う」などと泣き言を言って特攻出撃を拒否し、それを聞いた鈴木が「この人は到底死ねる人ではない」と呆れたとするエピソードが語られているが[4]、菅原は、毎日克明な日記を書いており、この日の日記の記述によれば、鈴木が「閣下も征かれますならお供します」と言ってきたが、躊躇することなく「否、軍は先刻発令の通り」と、玉音放送による天皇陛下からの停戦命令の通りに一切の軍事行動は罷り成らずと言い放ったと書いている[5]。戦時中に時事通信社の報道班員であった軍事評論家伊藤正徳の取材によれば、第101振武隊の特攻隊員数名も鈴木と同じように、菅原に一緒に特攻出撃しようと詰め寄っており、「宇垣中将は沖縄へ特攻出撃されました。閣下はどうされますか。吾々は何時でもお供出来るように用意しております」と、海軍の宇垣纏が終戦後に中津留達雄大尉らを連れて「私兵特攻」出撃したことで、陸軍側も同様に特攻指揮官と特攻隊員で一緒に出撃すべしと申し出たが、菅原は十数秒間黙考したのち「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と、鈴木のときと同様に、天皇陛下の命令を守り、一人の死者も出せないと振武隊員らを諭したとしている。菅原も伊藤の著書を読み「伊藤氏の如き著名な大記者がそのときの光景を正しく書いたことに感謝している」と述べている[6]。高木は、自分で直接取材をしていないことでもを小説のように記述することがあり、菅原が特攻出撃を泣き言を言って拒否したとされる高木の記述は、菅原を始め旧軍に批判的な高木が意図的に悪く書いたとの指摘もある[7]

高木が事実に脚色して書いた例としては、初の神風特別攻撃隊の指揮官となった関行男大尉に、同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政が取材に行ったところ、顔面蒼白となった関から拳銃を突きつけられ「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴られたと、文藝春秋1975年6月号に記述したことが挙げられる[8]。これはのちに小野田本人から、このような事実はなかったと否定されており、戦後に何らかの機会で高木と小野田が面談した際の雑談の中から思いついたものと推測されている[9]。また、『陸軍特別攻撃隊』において、訓練中に不注意で叱責のために殴られたのが、この著作の主要登場人物佐々木友次伍長であったのにも関わらず[10]、他の「万朶隊」隊員の近藤行雄伍長にされていたり[11]、「万朶隊」初出撃の際に、佐々木が自ら出撃を直訴して出撃が決定したように記述しているが[12]、実際は佐々木は当初から出撃が決定しており、出撃を直訴したのは佐々木ではなく、負傷離脱していた鵜沢邦夫軍曹であったなど、他の隊員の武勇伝や美談を佐々木のものにすり替えるような記述がされている[13]

菅原については、高木が特攻の著作を書くに当たって、情報や資料を積極的に提供するなど、当初は親密な関係を構築していたが、1961年に高木の特攻隊に関する著作の映画化の話が持ち上がった際に[14]、取材協力をしていた菅原が高木に「特攻作戦の施策に関して、当局や高級指揮官を苛烈に批判するのは構わないが、特攻勇士を揶揄したり冷笑したり英霊を冒涜することはやめてほしい」「特攻はあくまでも志願であった。当時の雰囲気で志願の強制に陥ったことは生存者の手記等で十分にうかがわれるが、極力、志願を根本としたことは、編成面や天皇への上奏で明らかである」「映画の観客に媚びるために多少のラブシーンは仕方ないが、新鮮、清潔でほどほどにしてほしい」「できれば原稿を一覧させてほしい」などと要望の手紙を出したが、高木はこの手紙の内容を、旧軍人の権威主義に基づくおどしであり、検閲に等しいものだと激しく非難し、内容を暴露、特に「ラブシーンの抑制」の意見に関しては、特攻隊員が愛する女性への未練を残すような描写をすることは、特攻隊員を神扱いにし、祖国に対して未練も無く勇ましく出撃したという菅原ら旧軍人の理想像に反するから要望したと激しく批判した[15]

『知覧』においても、高木が航空自衛隊に取材に訪れた際に、同席していた菅原から「特攻隊のことを書くのは結構だが、特攻観音のことも、大いに書いてもらいたい。わしは今日も、お参りに行くところだが、このことを、よく念を押そうと思って君がくるのを待っていたのだ」と話しかけられたことを、「特攻観音の建立に協力し慰霊もして罪の償いはできたとアピールしていると感じた」と、菅原ら元特攻関係者らが、責任逃れの一環として特攻隊員の慰霊活動をしているとする非難する記述を行った[16]。特攻観音については、戦後に自費で全国の特攻隊員遺族巡りをしていた菅原が音頭をとって、元日本陸軍航空総軍司令官河辺正三軍令部総長及川古志郎ら元軍幹部など「特攻平和観音奉賛会」を設立[17]法隆寺の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた[18]「特攻平和観音像」を4体建立し、うち1体を、陸軍航空隊の特攻基地であった知覧に祀りたいと申し出たものであり[19]、同時に、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のため知覧町に協力を要請し、日本全国でも寄付金を募った[20]。地元知覧でも、「特攻の母」として高名であった鳥濱トメが知覧町役場に協力を要請するなど積極的に行動していたが、観音堂建立の動きは戦後間もなくの反軍反戦の風潮のなか、平和運動団体などから「戦争賛美」と批判されるなど大変な苦労をしており[21]、鳥濱ら関係者はその都度「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」とはっきり反論し、建立にこぎつけたものであった[22]

高木に対しては、菅原も資料の提供などの協力を行っていたのに、高木の記述は必ずしも資料や証言通りではなかったので、菅原の周囲は高木に抗議すべきと促したが、菅原本人は「放っておけ、わかっている人はわかっているんだから」と意に介さず、「高木俊朗にはあること無いことを書かれてしまったよ」と笑いながら語り、敢て反論はしなかったという[23]。高木は、菅原に対する批判的な記述をしていたのにも関わらず、菅原の陸軍幼年学校からの永年の同窓で盟友でもある石原莞爾に関する著作の執筆を計画したときには、菅原に資料の提供を要請している。自分の批判に対する反論を控えていた菅原ではあったが、「君に資料を貸したら、全く逆のことを書かれてしまう。断る」と協力をきっぱりと拒絶したため、それ以降、前にも増して高木の著作に菅原を非難する記述が目立つようになった[24]。その後も『陸軍特別攻撃隊』など高木の著作の引用などにより、菅原には「死を恐れて自決もしなかった愚将」という評価が定着していき、同じように戦後に自決することがなかった特攻隊指揮官富永恭次とともに強い批判を浴びたが、菅原がその悪評に対して積極的に反論することはなかった[24]

『陸軍特別攻撃隊』で強く批判された富永についても、戦後にソビエト連邦に捕虜となった際に、1941年のソ連攻撃計画(いわゆる関東軍特種演習)についてソ連軍から尋問されて、「私は宮中に行き、天皇と閑院宮載仁親王にこの計画を説明した」「数日後、天皇はこれを承認した」という、天皇に戦争責任があるかのような自供をし、この自供は天皇の戦争責任を追求するためのソビエト連邦のプロパガンダとして利用されて、1946年8月31日にはモスクワから全世界に向けてラジオ放送されたとなどと記述しているが[25]、富永が、対ソビエト謀略の最前線にいたことが多かったので、わざわざモスクワに護送され、ルビャンカの監獄に拘置されて厳しい尋問を受けながらも、なかなか核心に至る証言をしなかったので、尋問は6年もの長きに渡ったことや[26]、その尋問の結果、1952年1月モスクワ軍管区の軍法会議にかけられ、当初は死刑を求刑されていたが、懲役75年の判決が確定して、シベリア鉄道バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の沿線となるタイシェットラーゲリに送られたことは記述されていない。バム鉄道沿線のラーゲリの労働条件はもっとも厳しく、特にバム鉄道の建設に従事させられた抑留者は「枕木1本に日本人死者1人」と言われたぐらい死亡者が多かったという[27]。そのような環境下で、富永は将官であったからといって特別扱いを受けることは無く、一般の兵士と同様に、材木のノコギリ引き、建材製造、野菜の選別、雪かき、掃除等の重労働が課せられた。その後も、2年で4カ所のラーゲリを転々とさせられ、ラーゲリ内では看守から踏んだり蹴ったりという暴力を振るわれていた[28]

ラーゲリでは、ソ連側の政治教育が継続的に行われていたが、もっとも重要視されたのは、天皇制破壊、天皇制打倒だった。ソ連は教育を受け入れた者は早めに帰国させるという条件を出していたので、早く故国に帰りたいという一心でソ連の政治教育を受け入れた抑留者も多かったが、富永はそれをはねのけていたという。そのためか体調がすぐれない富永に他の健常者と同様な強制労働が課せられていたが、同じ抑留者たちが富永を支えてくれたので、どうにか生き長らえることができた。しかし、1954年春に高血圧症から脳溢血を発症して入院、医師の診断の結果、今後、強制労働につくのは無理とされて、裁判により釈放が決定された。富永はその判決を病院までわざわざ出向いてきた裁判官から直接聞かされたという[29]

1955年(昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国し、多くの旧軍人ら関係者たちが出迎えた。富永は10年間の抑留生活と脳溢血の影響ですっかりと身体は弱っており、ひとりで満足に歩行できず、しゃべるのも困難となっていたことについて高木は、富永が船内で見栄のために服を着替えたことを取り上げて、そこまで体調は悪くないのではと疑問を投げかけているが、富永が脳溢血を発症して、健康面の問題から解放されたことには触れていない[30]。また、帰国した富永は「シベリアでわが将兵、わが同胞が現在なお、いかに苦しい思いをしているかを説明し、帰還を促進してもらうよう陳情します」と、自分と同じ境遇ながらまだ帰国を果たせないシベリア抑留者の解放に向けて尽力することとし[31]国会参考人として自身の体験を証言して、日本政府に問題解決を訴えているが、このことについても高木は無視している[32]

さらに国会で富永が、相馬助治参議院議員から、「率直に申して、あなたの評判はきわめてまずい。いわゆるフィリピンから引き揚げられたときのことがいろいろジャーナリストの諸君によってうわさされております。おそらく、あなた自身にしては御迷惑な思慮判断等によって不当の批判を受けている面もおありと私は思うのです」と、帰国後に雑誌サンデー毎日などから、第4航空軍司令官時の作戦指揮について批判されていることへの質問がなされているが、富永は「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところと、深く皆様方を初め国民の各位におわびを申すほかはございません。みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません」「この点は、私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております」「この間のサンデー毎日なんかにも、私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。私が皆悪いために、ああいう批評を受ける次第でございます。どうかそのおつもりで、私の周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます。この点はくれぐれも御了承をお願いいたします。」と答え、敗軍の将の自分が語ることはなにもないが、全ては自分の責任であったと陳謝し[33]、新聞の投書欄で富永を擁護した長女に「余計なことをするな」と叱りつけるなど、沈黙を貫いたのにも関わらず[34]、唯一、富永が戦時中の回想として書いた「比島航空作戦の回顧」という回顧録の記述を持って、高木は富永が保身に汲々としているとも批判している[35]。この回想録についても、「少しも戦場における勘の鋭さがなく、神通力という域にはおよそ縁遠い幼稚な観察眼だと笑われても一言もない」「馬車馬的な視野狭少の感あり、心を込めて幕僚の具申に相済まぬことをしたとと自らの不明を恥じている」「私の不徳、私の連携の不十分の致すところ、これまた恐悦至極の至りである」と富永は懺悔の言葉を並べている[36]

知覧町の知名度向上には、高木の著作『知覧』が大いに貢献し、高木は「特攻の母」こと鳥濱トメ知覧高等女学校の女生徒で編成された勤労奉仕隊「なでしこ隊」の元女学生ら知覧町の人たちと良好な関係を構築して、知覧町の町報に鳥濱トメ宅で、笑顔で会食する高木と元女学生の写真が掲載されたりしていたが[37]、特攻の慰霊施設を観光資源とし知覧の観光地化を進め、「特攻平和観音像」建立の発起人として、自らガリ版刷りで案内状を印刷するなど主導的な立場で、特攻隊員の慰霊・顕彰に尽力し成果を挙げていた菅原[38]ら旧軍人とも良好な関係を築いていた知覧町の人たちに対して、旧軍人や特攻には徹底して批判的であった高木は次第に苛立ちを募のらせていく[39]。当時の旧軍人と知覧町の関係については、菅原らの慰霊祭への参列がたびたび知覧町の町報で報じられており、良好な関係がうかがえる[40]。高木が知覧町が開設した知覧特攻遺品館を訪れた際には、特攻の概要の音声説明に高木の著作の記述の一部が無断で使用されていたり、また遺品の展示の仕方や施設の運営のあり方も高木の理想とはほど遠かったため、「特攻遺品館は、低俗、後進意識で運営されている」「特攻を観光化して不潔」などと激しい言葉で批判[41]、また以前は懇意にしていた「なでしこ隊」の元女学生らが出版した「知覧特攻基地」という著作を「私の著作に反論し、特攻を肯定する著作だ」と激しく非難した[42]。ただし、「知覧特攻基地」は「なでしこ隊」の女生徒自らの戦中戦後の手記や、特攻隊員の遺書等をまとめたもので、具体的な高木に対する反論の記述はない[43]

一方で、高木が著書の中に掲載した「なでしこ隊」の女学生が作ったとする短歌が、実は高木自身が作ったものであり、短歌の作者として実在の女学生の名前を勝手に使用していたということが判明したり[44]、当初は快く高木の取材を受けていた鳥濱が、話したことと著作の記述があまりにも違っていたり、著書には記述しないと約束していたプライバシーに関することを、鳥濱の許可なく記述されたりしたことが続いたため[45]、不信感を募らせてすっかり取材嫌いとなってしまい、後年は高木を含むジャーナリズムに関係する人間の取材を「あんたらに話すことはなにもないよ」と一切拒否するようになってしまった。鳥濱は心を許していた元特攻隊員に「世の中には我が事ばかり考えて、人様の迷惑は顧みない人が多い」とこぼしていたという[46]。高木が激しい言葉で批判した「知覧特攻遺品館」においても、高木が自身の著作の販売を申し入れしたところ、当時の館長がその申し入れを拒否しているなど[47]、高木と知覧町の人たちは、最後には完全に袂を分かつこととなっている[39]


著作

  • 『イムパール』雄鶏社、1949
    • 『インパール』文藝春秋、1968 のち文庫 
  • 『遺族 戦歿学徒兵の日記をめぐって』出版協同社、1957
  • 『知覧』朝日新聞社、1965。「特攻基地知覧」角川文庫、1973 
  • 『抗命 インパール作戦 烈師団長発狂す』文藝春秋、1966 のち文庫
  • 『戦死』朝日新聞社、1967。「戦死 インパール牽制作戦」文春文庫
  • 『全滅 インパール作戦 戦車支隊の最期』文藝春秋、1968 のち文庫 
  • 『憤死 インパール作戦-痛根の祭師団参謀長』文藝春秋、1969 のち文庫 
  • 『神風特攻隊の出撃 太平洋戦史 4』小野田俊・絵 偕成社、1970
  • 『狂信』朝日新聞社、1970、「狂信 ブラジル日本移民の騒乱」角川文庫、ファラオ企画
  • 『焼身 長崎・純女学徒隊殉難の記録』毎日新聞社、1972 のち角川文庫 
  • 『陸軍特別攻撃隊』全2巻、文藝春秋、1974-75 のち全3巻、文庫、文春学藝ライブラリー  
  • 『ルソン戦記 ベンゲット道』文藝春秋、1985 のち文庫 
  • 『戦記作家高木俊朗の遺言』1・2、文藝春秋企画出版部、2006

脚注

  1. ^ 『イムパール』P367、P369
  2. ^ これらの経緯は「あとがき」『抗命 インパール』にて高木自身が記している。
  3. ^ 山下實六「インパール作戦における烈兵団長の精神鑑定」『九州神経精神医学』24巻1号 1978年4月
  4. ^ 高木俊朗『知覧』電子版P.2505
  5. ^ 深堀道義 2001, p. 330.
  6. ^ 深堀道義 2001, p. 331.
  7. ^ 深堀道義 2001, p. 333.
  8. ^ 森本忠夫 1992, pp. 130–133
  9. ^ 深堀道義 2001, pp. 278–279
  10. ^ 大東亜戦史③ 1969, p. 381
  11. ^ 高木俊朗㊤ 1983, p. 292
  12. ^ 高木俊朗㊤ 1983, p. 297
  13. ^ 現代読本④ 1956, p. 252
  14. ^ 1964年6月劇場公開「出撃」、配給:日活、監督:滝沢英輔、脚本:八住利雄、主演:浜田光夫
  15. ^ 高木俊朗③ 2018, pp. 465–474
  16. ^ 高木俊朗『知覧』電子版P.3838
  17. ^ 佐藤, pp. 239–255.
  18. ^ 『特攻隊振武寮』p.278
  19. ^ 知覧高女なでしこ会 1979, p. 219
  20. ^ 知覧町「母の像・特攻平和会館の由来 世界恒久平和を願って」、知覧町、1999年5月。 
  21. ^ 福間 & 山口 2015, p. 37.
  22. ^ 佐藤, p. 255.
  23. ^ 深堀道義 2001, p. 342.
  24. ^ a b 深堀道義 2001, p. 337.
  25. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 425
  26. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  27. ^ 2014年10月19日付神奈川新聞『シベリア抑留 何があったのか(上)飢えと極寒、倒れる戦友』
  28. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  29. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  30. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 429
  31. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 429
  32. ^ 1955年(昭和30年)6月9日 第022回 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第003号
  33. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  34. ^ 『サンデー毎日 1955年5月8日号』 p.83
  35. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 439
  36. ^ 戦史叢書48 1971, p. 付録.
  37. ^ 福間 & 山口 2015, p. 46.
  38. ^ 水町博勝「菅原道煕顧問追悼の記」『特攻』第92号、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会、2012年8月、13頁。 
  39. ^ a b 福間 & 山口 2015, p. 50.
  40. ^ 福間 & 山口 2015, p. 62.
  41. ^ 福間 & 山口 2015, p. 83.
  42. ^ 高木俊朗③ 2018, pp. 561–562
  43. ^ 知覧高女なでしこ会 1979, pp. 216–281
  44. ^ 深堀道義 2004, p. 242.
  45. ^ 佐藤, p. 232.
  46. ^ 深堀道義 2004, pp. 247–248.
  47. ^ 深堀道義 2004, p. 243.

参考文献

  • 戦記作家 高木俊朗の遺言』1・2 (文藝春秋企画出版部、2006年) ISBN 4-16-008024-3
  • 高木俊朗『知覧』朝日新聞社、1965年。ASIN B000JACPKY 
    • 高木俊朗『特攻基地知覧』角川書店角川文庫〉、1979年。ISBN 4-04-134501-4 (1965年版の再版・修正版)
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊 上巻』文藝春秋、1983年。ISBN 978-4163381800 
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊 下巻』文藝春秋、1983年。ISBN 978-4163381909 
    • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊1』文藝春秋、2018年。ISBN 978-4168130779 
    • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊2』文藝春秋、2018年。ISBN 978-4168130786 
    • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊3』文藝春秋、2018年。ISBN 978-4168130793 
  • 森本忠夫『特攻 外道の統率と人間の条件文藝春秋、1992年。ISBN 4-16-346500-6 
  • 深堀道義『特攻の真実―命令と献身と遺族の心』原書房、2001年。ISBN 978-4562040957 
  • 深堀道義『特攻の総括―眠れ眠れ母の胸に』原書房、2004年。ISBN 978-4562037490 
  • 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死光人社〈光人社NF文庫〉、2007年。ISBN 978-4-7698-2529-6 
  • 知覧高女なでしこ会『知覧特攻基地』文和書房、1979年。ASIN B000J8EH70 
  • 福間良明、山口誠『「知覧」の誕生―特攻の記憶はいかに創られてきたのか』柏書房、2015年。ISBN 978-4760146109 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編 編『比島捷号陸軍航空作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書48〉、1971年。 
  • 池田佑 編 編『大東亜戦史』 3 フィリピン編、富士書苑、1969年。ASIN B07Z5VWVKM 
  • 日本文芸社 編 編『現代読本』 4 日本特攻隊総集版、日本文芸社、1956年。 

関連項目