「フェルナンド1世 (アラゴン王)」の版間の差分

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'''フェルナンド1世'''([[カスティーリャ語]]:Fernando I、[[アラゴン語]]:Ferrando I フェランド1世 [[1380年]][[11月27日]] - [[1416年]][[4月2日]])は、[[アラゴン王国|アラゴン]][[アラゴン君主一覧|]]、[[バレンシア王国|バレンシア]]、[[バルセロナ]][[バルセロナ伯|伯]]、および[[シチリア王国|シチリア]][[ナポリとシチリアの君主一覧|]](在位:[[1412年]] - 1416年)。[[カタルーニャ語]]名では'''フェラン1世'''(Ferran I)、[[イタリア語]]名では'''フェルディナンド1世'''(Ferdinando I)。'''フェルナンド・デ・アンテケーラ'''(Fernando de Antequera)と呼ばれたが、これは即位前の[[1410年]]に[[グラナダ王国]]の支配下にあった[[アンテケーラ]]を征服したことによる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]と王妃[[レオノール・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃)|レオノール]](アラゴン王[[ペドロ4世 (アラゴン王)|ペドロ4世]]の娘)の次男として、[[メディナ・デル・カンポ]](現在の[[バリャドリッド県]])で生まれた。
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カスティーリャ王位は[[1390年]]に兄[[エンリケ3世 (カスティーリャ王)|エンリケ3世]]が継いだが、[[1406年]]に27歳で早世し、甥で2歳足らずの遺児[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]が王位につくと、その母后[[カタリナ・デ・ランカステル|カタリナ]]と共に摂政を務めた<ref name="関180">関、P180。</ref>。摂政としての事績は[[レコンキスタ]]を主導したことが挙げられ、[[1407年]]から[[ナスル朝]]グラナダを西から攻撃して{{仮リンク|サアーラ・デ・ラ・シエーラ|en|Zahara de la Sierra|label=サアーラ}}を攻略、一旦引き上げた後の1410年に北西からグラナダへ再進出、9月にアンテケーラも落とし名声を獲得した。また、息子たちもカスティーリャにおける影響力を持ち、宮廷で増大する親フェルナンド派に圧迫されたフアン2世とその支持者たちは、後に寵臣政治を展開して彼等に対抗していくことになる<ref>ローマックス、P229、関、P180 - P181、西川、P186 - P189。</ref>。
カスティーリャ王位は[[1390年]]に兄[[エンリケ3世 (カスティーリャ王)|エンリケ3世]]が継いだが、[[1406年]]に27歳で早世し、甥で2歳足らずの遺児[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]が王位につくと、その母后[[カタリナ・デ・ランカステル|カタリナ]]と共に摂政を務めた<ref name="関180">関、P180。</ref>。摂政としての事績は[[レコンキスタ]]を主導したことが挙げられ、[[1407年]]から[[ナスル朝]]グラナダを西から攻撃して{{仮リンク|サアーラ・デ・ラ・シエーラ|en|Zahara de la Sierra|label=サアーラ}}を攻略、一旦引き上げた後の1410年に北西からグラナダへ再進出、9月にアンテケーラも落とし名声を獲得した。また、息子たちもカスティーリャにおける影響力を持ち、「アラゴンの王子たち」と呼ばれた。宮廷で増大する親フェルナンド派に圧迫されたフアン2世とその支持者たちは、後に寵臣政治を展開して彼等に対抗していくことになる<ref>ローマックス、P229、関、P180 - P181、西川、P186 - P189。</ref>。


母方の伯父にあたるアラゴン王[[マルティン1世 (アラゴン王)|マルティン1世]](シチリア王としてはマルティーノ2世)が1410年に嗣子のないまま亡くなると、[[カスペの妥協]]によって1412年にアラゴン王として選ばれた。これには、[[対立教皇]][[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]とその腹心である[[ビセンテ・フェレール]]の工作、および外国人なら都合が良いと考える[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]やアラゴン貴族の意向が働いていた<ref name="関180">関、P180。</ref><ref>田澤、P179 - P182、西川、P198 - P202。</ref>。
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フェルナンド1世の業績で知られるのは、王位継承候補者の一人ウルジェイ伯ジャウマ2世が起こした[[1413年]]の反乱を鎮圧、カタルーニャを始め[[アラゴン連合王国]]を構成する各国の自治を尊重したこと、[[コンスタンツ公会議]]が宣言した対立教皇ベネディクトゥス13世の廃位を1416年に受け入れ、40年にも及んだ[[教会大分裂]]を終わらせたことである。フェルナンドの即位を支持したベネディクトゥス13世はこの裏切りを深く恨み、[[破門]]に処したばかりか繰り返し呪詛し続けたという。
フェルナンド1世の業績で知られるのは、王位継承候補者の一人ウルジェイ伯ジャウマ2世が起こした[[1413年]]の反乱を鎮圧、カタルーニャを始め[[アラゴン連合王国]]を構成する各国の自治を尊重したこと、[[コンスタンツ公会議]]が宣言した対立教皇ベネディクトゥス13世の廃位を1416年に受け入れ、40年にも及んだ[[教会大分裂]]を終わらせたことである。フェルナンド1世の即位を支持したベネディクトゥス13世はこの裏切りを深く恨み、彼を[[破門]]に処したばかりか繰り返し呪詛し続けたという。


即位から4年後の1416年、[[イグアラダ]](現在の[[バルセロナ県]])にて35歳で死去した<ref>田澤、P182 - P184、関、P239 - P240、西川、P202 - P203。</ref>。
即位から4年後の1416年、[[イグアラダ]](現在の[[バルセロナ県]])にて35歳で死去した<ref>田澤、P182 - P184、関、P239 - P240、西川、P202 - P203。</ref>。


== 子女 ==
== 子女 ==
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*[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]](1394年 - 1458年) - アラゴン王、シチリア王、[[ナポリ王国|ナポリ]]王。
*[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]](1394年 - 1458年) - アラゴン王、シチリア王、[[ナポリ王国|ナポリ]]王。
*[[マリア・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃)|マリア]](1396年 - 1445年) - カスティーリャ王[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]の最初の王妃。息子[[エンリケ4世 (カスティーリャ王)|エンリケ4世]]は一時アラゴン王とバルセロナ伯の位を叔父(マリアの弟)のフアンと争った。
*[[マリア・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃)|マリア]](1396年 - 1445年) - カスティーリャ王[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]の最初の王妃。息子[[エンリケ4世 (カスティーリャ王)|エンリケ4世]]は一時アラゴン王とバルセロナ伯の位を叔父(マリアの弟)のフアンと争った。
*[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]](1397年 - 1479年) - [[ナバラ王国|ナバラ]]王、アラゴン王、シチリア王、ナポリ王。
*[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]](1397年 - 1479年) - [[ナバラ王国|ナバラ]]王、アラゴン王、シチリア王。
*エンリケ(1400年 - 1445年) - ビリェーナ公、アルブルケルケ伯、[[サンティアゴ騎士団]]総長(在任:1400年 - 1445年)
*エンリケ(1400年 - 1445年) - ビリェーナ公、アルブルケルケ伯、[[サンティアゴ騎士団]]総長(在任:1400年 - 1445年)
*[[レオノール・デ・アラゴン (ポルトガル王妃)|レオノール]](1402年 - 1445年) - [[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ1世]]妃。
*[[レオノール・デ・アラゴン (ポルトガル王妃)|レオノール]](1402年 - 1445年) - [[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ1世]]妃。

2018年3月21日 (水) 08:56時点における版

フェルナンド1世
Fernando I
アラゴン王
シチリア王
在位 1412年 - 1416年
別号 バルセロナ伯
バレンシア王
マヨルカ王

出生 1380年11月27日
メディナ・デル・カンポ
死去 1416年4月2日
イグアラダ
埋葬  
ポブレー修道院
配偶者 レオノール・デ・アルブルケルケ
子女 一覧参照
家名 トラスタマラ家
王朝 トラスタマラ朝
父親 カスティーリャ王フアン1世
母親 レオノール・デ・アラゴン
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フェルナンド1世カスティーリャ語:Fernando I、アラゴン語:Ferrando I フェランド1世 1380年11月27日 - 1416年4月2日)は、アラゴンバレンシア王バルセロナ、およびシチリア(在位:1412年 - 1416年)。カタルーニャ語名ではフェラン1世(Ferran I)、イタリア語名ではフェルディナンド1世(Ferdinando I)。フェルナンド・デ・アンテケーラ(Fernando de Antequera)と呼ばれたが、これは即位前の1410年グラナダ王国の支配下にあったアンテケーラを征服したことによる。

生涯

カスティーリャフアン1世と王妃レオノール(アラゴン王ペドロ4世の娘)の次男として、メディナ・デル・カンポ(現在のバリャドリッド県)で生まれた。

カスティーリャ王位は1390年に兄エンリケ3世が継いだが、1406年に27歳で早世し、甥で2歳足らずの遺児フアン2世が王位につくと、その母后カタリナと共に摂政を務めた[1]。摂政としての事績はレコンキスタを主導したことが挙げられ、1407年からナスル朝グラナダを西から攻撃してサアーラ英語版を攻略、一旦引き上げた後の1410年に北西からグラナダへ再進出、9月にアンテケーラも落とし名声を獲得した。また、息子たちもカスティーリャにおける影響力を持ち、「アラゴンの王子たち」と呼ばれた。宮廷で増大する親フェルナンド派に圧迫されたフアン2世とその支持者たちは、後に寵臣政治を展開して彼等に対抗していくことになる[2]

母方の伯父にあたるアラゴン王マルティン1世(シチリア王としてはマルティーノ2世)が1410年に嗣子のないまま亡くなると、カスペの妥協によって1412年にアラゴン王として選ばれた。これには、対立教皇ベネディクトゥス13世とその腹心であるビセンテ・フェレールの工作、および外国人なら都合が良いと考えるカタルーニャやアラゴン貴族の意向が働いていた[1][3]

フェルナンド1世の業績で知られるのは、王位継承候補者の一人ウルジェイ伯ジャウマ2世が起こした1413年の反乱を鎮圧、カタルーニャを始めアラゴン連合王国を構成する各国の自治を尊重したこと、コンスタンツ公会議が宣言した対立教皇ベネディクトゥス13世の廃位を1416年に受け入れ、40年にも及んだ教会大分裂を終わらせたことである。フェルナンド1世の即位を支持したベネディクトゥス13世はこの裏切りを深く恨み、彼を破門に処したばかりか繰り返し呪詛し続けたという。

即位から4年後の1416年、イグアラダ(現在のバルセロナ県)にて35歳で死去した[4]

子女

1394年、カスティーリャ王族のレオノール・デ・アルブルケルケサンチョ・デ・アルブルケルケの長女で、父の従妹(従叔母)に当たる)と結婚した。2人の間の子は以下の通り。

脚注

  1. ^ a b 関、P180。
  2. ^ ローマックス、P229、関、P180 - P181、西川、P186 - P189。
  3. ^ 田澤、P179 - P182、西川、P198 - P202。
  4. ^ 田澤、P182 - P184、関、P239 - P240、西川、P202 - P203。

参考文献

先代
マルティン1世
アラゴン王
バルセロナ伯
バレンシア王
マヨルカ王
シチリア王
1412年 - 1416年
次代
アルフォンソ5世