グラナダ王国

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1400年のイベリア半島。緑がグラナダ王国の版図

グラナダ王国は、グラナダ首都とした王国(ムワッヒド朝、ナスル朝など)の呼称。

概要[編集]

ナスル朝の旗

この呼称は、ナスル朝グラナダ王国を指すことが多い。後ウマイヤ朝が衰えた11世紀始めにズィール朝の一族(グラナダのズィーリー朝)がこの地を征服し、1013年タイファ諸国の1つであるグラナダ王国として独立した。しかし、11世紀ムラービト朝に、12世紀ムワッヒド朝に征服された。1232年ムハンマド1世ナスル朝グラナダ王国を建国した。ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として約250年間存続し繁栄した。カスティーリャ王国アラゴン王国の連合王国によって1492年1月2日にグラナダ王国は滅亡した。これによって、イベリア半島からイスラム勢力が駆逐され、ヨーロッパからイスラム勢力が完全に消え去った。

歴史[編集]

ムワッヒド朝
グラナダの開城を描いた油絵。左の馬に乗った人物がムハンマド11世。手にはアルハンブラ宮殿の鍵を持ち降伏の意を表している。19世紀ごろ、フランシスコ・プラディーリャ・オルティス作。[1]


13世紀初め頃まで、アンダルス地方を支配していたのは、アフリカのベルベル人系の王朝・ムワッヒド朝であった。

しかし、13世紀末頃になると、新たに勃興したハフス朝マリーン朝との抗争に追われることとなり、アンダルスから事実上の撤退といった状況となった。この結果、ムワッヒド朝はますます求心力を失い、地方でもハフス朝が独立するなど[2]、版図は急速に縮小して現在のモロッコ周辺を支配するのみとなった。1269年、新興のマリーン朝がマラケシュを征服し、ムワッヒド朝は滅亡した[3]。これにより、アンダルスは混乱の時代を迎え、都市有力者のマーリク派法学者やアンダルス系軍事小集団の指導者の政権が乱立することとなったのであった。

その中でもレコンキスタまで存続することとなったのは、アルハンブラ宮殿を建造したことで著名な、「ナスル朝」であった。初代国王・ムハンマド1世は、ハエン近くのアルホーナ(Arjona)で蜂起し、ターイファ(イスラム教小王国)の1国となったのだった。

そののち、ムハンマド1世はハフス朝に従っていたが、その宗主権を認める相手をアッバース朝、ムワッヒド朝と状況に合わせて変えながら、周囲の勢力の間をぬって国を発展させていった。全盛期には、アルハンブラ宮殿などの秀逸な建築物をはじめ、新たな文化を創造し、大いに栄えたのだった。

しかし、そんな栄ある時代は終焉を迎え、内紛などから衰退の一途をたどることとなる。

1482年、最後の君主・ムハンマド11世(أبو عبد الله محمد الثاني عشر)は、父ムレイ・アブル・ハッサン(アブルハサン・アリー)との対立の中、グラナダの王位を自称した。その後も父および叔父ムハンマド12世と対立と抗争を続け[4]、ナスル朝の国力は、ますます衰えた。

一方、カトリック両王によるレコンキスタが進められる中、ムハンマド王は二度もカスティーリャ軍の捕虜となり、最終的に1491年にカトリック両王にグラナダを引き渡す協定に調印した[5]。そして翌1492年1月2日、ボアブディルはカトリック両王にアルハンブラ宮殿の鍵を引き渡した[5]


1492年1月2日にグラナダは無血開城しレコンキスタが完了した[* 1] [6]

1499年10月にグラナダに赴任した枢機卿シスネロスムデハルスペイン語版(キリスト教徒支配下のイスラーム教徒)に対し強制的な手法(クルアーンの焼却など)を用いたために反乱を招くこととなった[7]。この反乱を開城時の協定に対する違反と見たカトリック両王は、1502年にカスティーリャ王国(この段階でのスペイン帝国は連合王国であり、そのうちのカスティーリャを指す[* 2])でムデハルに改宗を迫る法令を出し、後にスペイン全域にまで拡大された[8]。これらの連続したイスラム教徒迫害によって、イスラムの勢力は、アンダルシアから、完全に駆逐されたのであった。

文化[編集]

国直が衰えた時期であったため、大規模な建築は行われなかった。しかし、アルハンブラ宮殿に代表されるような、精緻で華麗な様式を残したのだった。

建築[編集]

アルハンブラ宮殿

国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。

イスラーム建築の様式が、宮殿や庭園をはじめ教会やシナゴーグにも取り入れられた事も、また特徴の一つである。なかでもコルドバに建設され、内乱で破壊されたザフラー宮殿がよく知られる。現在でも、様々な宮殿やモスク(現在はキリスト教の教会となっているものがほとんどである)等の建造物が保存されている。

キリスト教の支配下となったのちは「ムデハル様式」としてイスラム教の建築様式を今に残した。その中でも、トレドのトランシト教会(Sinagoga del Tránsito)や、世界遺産アラゴンのムデハル様式の建築物などに見てとれ、著名である。

その他[編集]

建築様式の他にも、グラナダ王国の支配は多くの遺産を残した。イスラム文学や、文様などがその代表といえる。

脚注[編集]

  1. ^ この時の協定では、ムスリムに対し、残留する者には信仰と財産の保全が許され、イベリア半島から退去する者にはその財産処分の自由が与えられた。
  2. ^ ナスル朝の領域はカスティーリャ王国組み込まれた[7]
  1. ^ 祝田 (2013)、p.107
  2. ^ 私市 (2002)、pp.236-237.
  3. ^ 那谷 (1984)、p.163
  4. ^ 関 他、p. 259
  5. ^ a b 関 他、p. 128
  6. ^ 大内 (2008)、p.257
  7. ^ a b 大内 (2008)、p.258
  8. ^ 大内 (2008)、pp.258-259.

関連項目[編集]

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