「駅 (中森明菜の曲)」の版間の差分

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== 竹内まりやのセルフカバー ==
== 竹内まりやのセルフカバー ==
本作の2曲目に収録の「駅」は、作詞・作曲者の[[竹内まりや]]によってセルフカバーされ、翌1987年リリースのアルバム『[[REQUEST (竹内まりやのアルバム)|REQUEST]]』、および同年リリースの両A面シングル「[[AFTER YEARS/駅]]」に収録された。このセルフカバーは、本作での中森による楽曲の解釈に対して憤慨した[[山下達郎]]によって提案された経緯がある。竹内による「駅」は、1991年の映画『[[グッバイ・ママ]]』の主題歌にも用いられた。
本作の2曲目に収録の「駅」は、作詞・作曲者の[[竹内まりや]]によってセルフカバーされ、翌1987年リリースのアルバム『[[REQUEST (竹内まりやのアルバム)|REQUEST]]』、および同年リリースの両A面シングル「[[AFTER YEARS/駅]]」に収録された。このセルフカバーは、本作での中森による楽曲の解釈に対して憤慨した[[山下達郎]]によって提案された経緯がある。竹内による「駅」は、1991年の映画『[[グッバイ・ママ]]』の主題歌にも用いられた。

#*「元気を出して」と同じく竹内が歌っていたことで有名な曲だが、この曲も元々は「OH NO,OH YES!」と同じく中森のアルバム『CRIMSON』への提供曲。レコーディングの際は「明るく聞こえる声質だからつまらないと思って歌ってくれ」と山下達郎に注文された。同作はその楽曲の解釈から山下達郎が憤慨したとも言われており、竹内に対し提供曲のセルフカヴァーを提案していくきっかけになったとも言われる。

2015年12月19日 (土) 03:46時点における版

AFTER YEARS/駅
竹内まりやシングル
初出アルバム『Quiet Life(「AFTER YEARS」)
REQUEST(「駅」)』
リリース
ジャンル J-POP
レーベル MOON RECORDS
作詞・作曲 竹内まりや
プロデュース 山下達郎
チャート最高順位
  • 週間55位(オリコン
  • 週間18位(1991年盤・オリコン)
竹内まりや シングル 年表
夢の続き
1987年
AFTER YEARS/駅
(1987年)
元気を出して
1988年
テンプレートを表示
  • 「駅」は、駅で繰り広げられる男女の切ない恋の情景をマイナーコードにのせた曲であり、多くの人々の支持を獲得し、竹内の代表曲のひとつとなった[1]
    • 映画『グッバイ・ママ』の主題歌で、アルバム『REQUEST』からシングルカットされた曲。また、タイアップが縁でこの映画の終盤には竹内がすれ違う人として数秒出演している。
    • 元々は中森明菜に提供した曲(アルバム『CRIMSON』に収録)のセルフカバーである。山下達郎はこの曲が収録された中森のアルバムを聴き、楽曲の解釈に対して強い憤りを覚え、それをきっかけに「駅」のセルフカバーをしてみたらどうかと竹内に勧めた経緯があるという(このことは、竹内の代表作となったベストアルバム『Impressions』の山下によるライナーノーツに記載されている。当該部分では個人名は伏せられているが、これが明菜のことを指しているのは明白である)。その後、山下はラジオで「あれはアーティストが悪いんじゃなくアレンジ等のスタッフに対する意見です」と語っている。ちなみに、中森版の編曲を担当した椎名和夫は、山下の初期から中期のアルバムのリズムセクションの常連だった。
  1. REQUEST』(2.)
  2. Impressions』(2.)
  3. Expressions』(2.)

脚注

  1. ^ 2008年に公式HPで行われた楽曲のファン投票では1位となった

竹内まりやのセルフカバー

本作の2曲目に収録の「駅」は、作詞・作曲者の竹内まりやによってセルフカバーされ、翌1987年リリースのアルバム『REQUEST』、および同年リリースの両A面シングル「AFTER YEARS/駅」に収録された。このセルフカバーは、本作での中森による楽曲の解釈に対して憤慨した山下達郎によって提案された経緯がある。竹内による「駅」は、1991年の映画『グッバイ・ママ』の主題歌にも用いられた。

    • 「元気を出して」と同じく竹内が歌っていたことで有名な曲だが、この曲も元々は「OH NO,OH YES!」と同じく中森のアルバム『CRIMSON』への提供曲。レコーディングの際は「明るく聞こえる声質だからつまらないと思って歌ってくれ」と山下達郎に注文された。同作はその楽曲の解釈から山下達郎が憤慨したとも言われており、竹内に対し提供曲のセルフカヴァーを提案していくきっかけになったとも言われる。