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[[ファイル:Ebla.jpg|thumb|エブラ遺跡]] |
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この地域は世界で最も古い歴史を持つ土地と言われ、紀元前1万年頃に[[氷河期]]が終わり、[[地球]]が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域では[[ムギ|麦]]による農耕が始められた。紀元前6000年ごろには「[[肥沃な三日月地帯]]」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした[[文明]]の萌芽があった。 |
この地域は世界で最も古い歴史を持つ土地と言われ、紀元前1万年頃に[[氷河期]]が終わり、[[地球]]が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域では[[ムギ|麦]]による農耕が始められた。紀元前6000年ごろには「[[肥沃な三日月地帯]]」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした[[文明]]の萌芽があった。 |
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===「肥沃な三日月地帯」=== |
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[[ファイル:Assyria map.png|thumb|left|古代中東地域の都市と諸勢力]] |
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紀元前3千年紀には[[エブラ]]、[[キシュ]]、[[アブツァラリク]]、[[マリ (シリア)|マリ]]など血縁によって結ばれた[[セム語]][[都市]]文明圏が成立し、そのうちエブラは[[大麦]]、[[オリーブ]]や織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、[[メソポタミア]]から[[パレスチナ]]、[[エジプト]]まで交易が営まれていた。エブラは紀元前2250年ごろに[[アッカド]]に滅ぼされる。またマリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850 |
紀元前3千年紀には[[エブラ]]、[[キシュ]]、[[アブツァラリク]]、[[マリ (シリア)|マリ]]など血縁によって結ばれた[[セム語]][[都市]]文明圏が成立し、そのうちエブラは[[大麦]]、[[オリーブ]]や織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、[[メソポタミア]]から[[パレスチナ]]、[[エジプト]]まで交易が営まれていた。エブラは紀元前2250年ごろに[[アッカド]]に滅ぼされる。またマリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850 |
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[[アッシリア]]王の[[シャムシ・アダド1世]]が[[ヤスマフ・アダド]]をマリ王にし間接支配を布いた。そして紀元前1759年には[[バビロニア]]の[[ハンムラビ]]に滅ぼされた。 |
[[アッシリア]]王の[[シャムシ・アダド1世]]が[[ヤスマフ・アダド]]をマリ王にし間接支配を布いた。そして紀元前1759年には[[バビロニア]]の[[ハンムラビ]]に滅ぼされた。 |
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その後紀元前15世紀に[[ミタンニ王国]]が成立。紀元前13世紀には[[アッシリア]]がミタンニ王国を滅ぼした。一方、海岸部では[[フェニキア人]]の植民が展開された。[[海の民]]によりヒッタイトが滅亡すると[[アラム人]]の小国が乱立。その後はアッシリアが[[ティグラト・ピレセル3世]]などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年[[アッシリア]]が統一。紀元前732年には北に位置する騎馬民族[[スキタイ]]に押されて南下した[[キンメリア]]人の侵攻を受けた。その後、アッシリア最後の偉大な王とされる[[アッシュールバニパル]](在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)が即位し、'''ニネヴェ図書館'''と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管した。これらは今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持つ。 |
その後紀元前15世紀に[[ミタンニ王国]]が成立。紀元前13世紀には[[アッシリア]]がミタンニ王国を滅ぼした。一方、海岸部では[[フェニキア人]]の植民が展開された。[[海の民]]によりヒッタイトが滅亡すると[[アラム人]]の小国が乱立。その後はアッシリアが[[ティグラト・ピレセル3世]]などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年[[アッシリア]]が統一。紀元前732年には北に位置する騎馬民族[[スキタイ]]に押されて南下した[[キンメリア]]人の侵攻を受けた。その後、アッシリア最後の偉大な王とされる[[アッシュールバニパル]](在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)が即位し、'''ニネヴェ図書館'''と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管した。これらは今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持つ。 |
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だが彼の死後、急速に衰退したアッシリアは[[紀元前612年]]に[[新バビロニア]]と[[メディア]]の攻撃を受けて滅亡。そして[[新バビロニア]]、[[メディア]]、[[リディア]]、[[エジプト]]などの強国が乱立するが、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]の[[キュロス2世]]がメソポタミア地域の統一、続く[[カンビュセス2世]]が[[古代エジプト]]を制圧し、ついに[[古代オリエント]]世界全域の支配に成功した。 |
だが彼の死後、急速に衰退したアッシリアは[[紀元前612年]]に[[新バビロニア]]と[[メディア]]の攻撃を受けて滅亡。そして[[新バビロニア]]、[[メディア]]、[[リディア]]、[[エジプト]]などの強国が乱立するが、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]の[[キュロス2世]]がメソポタミア地域の統一、続く[[カンビュセス2世]]が[[古代エジプト]]を制圧し、ついに[[古代オリエント]]世界全域の支配に成功した。 |
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===ギリシアとローマの支配 === |
===ギリシアとローマの支配 === |
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[[ファイル:Provincia Syria.png|thumb|160px|[[ローマ帝国]]の[[シリア属州]]]] |
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アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いたが、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]率いる[[マケドニア王国]]の征服を受けると、急速にギリシア化が進んだ。[[紀元前322年]]の[[ディアドコイ戦争]]でアレクサンドロス帝国は分裂し、[[紀元前301年]]に[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]が建国された。セレウコス朝シリアはインドからイランをへてトルコにいたる広大な領土を持っていたが、[[紀元前200年]]ころから[[パルティア|アルサケス朝パルティア]]、[[グレコ・バクトリア王国]]の侵食を受け縮小。さらに[[ポエニ戦争]]にかかわったことから[[古代ローマ]]([[共和政ローマ]])と[[ローマ・シリア戦争]]などで交戦状態となって衰退してゆき、[[紀元前64年]]に[[ローマ帝国]]に併合された。 |
アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いたが、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]率いる[[マケドニア王国]]の征服を受けると、急速にギリシア化が進んだ。[[紀元前322年]]の[[ディアドコイ戦争]]でアレクサンドロス帝国は分裂し、[[紀元前301年]]に[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]が建国された。セレウコス朝シリアはインドからイランをへてトルコにいたる広大な領土を持っていたが、[[紀元前200年]]ころから[[パルティア|アルサケス朝パルティア]]、[[グレコ・バクトリア王国]]の侵食を受け縮小。さらに[[ポエニ戦争]]にかかわったことから[[古代ローマ]]([[共和政ローマ]])と[[ローマ・シリア戦争]]などで交戦状態となって衰退してゆき、[[紀元前64年]]に[[ローマ帝国]]に併合された。 |
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===イスラム圏へ=== |
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[[ファイル:Omayyad mosque.jpg|thumb|[[ダマスカス]]の[[ウマイヤド・モスク]]([[7世紀]])]] |
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7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた。[[ウマイヤ朝]]のもとでは[[ダマスカス]]が首都とされた。その後[[754年]]に樹立された[[アッバース朝]]は[[バグダッド]]を首都としたため、シリア地方に転落した。しかし、バグダッドからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備された。中央アジアから[[トルコ系]]遊牧民が渡来し、[[セルジューク朝]]を樹立すると、シリアには[[シリア・セルジューク朝]]が成立した。その頃[[ヨーロッパ]]から[[十字軍]]が侵攻し激戦が展開された。さらに[[フレグ]]率いる[[モンゴル人]]がこの地を征服[[イル汗国]]を建国した。その後シリアは[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]の支配を受けることになった。北方で[[オスマン帝国]]が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった。 |
7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた。[[ウマイヤ朝]]のもとでは[[ダマスカス]]が首都とされた。その後[[754年]]に樹立された[[アッバース朝]]は[[バグダッド]]を首都としたため、シリア地方に転落した。しかし、バグダッドからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備された。中央アジアから[[トルコ系]]遊牧民が渡来し、[[セルジューク朝]]を樹立すると、シリアには[[シリア・セルジューク朝]]が成立した。その頃[[ヨーロッパ]]から[[十字軍]]が侵攻し激戦が展開された。さらに[[フレグ]]率いる[[モンゴル人]]がこの地を征服[[イル汗国]]を建国した。その後シリアは[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]の支配を受けることになった。北方で[[オスマン帝国]]が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった。 |
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==フランス占領期== |
==フランス占領期== |
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{{main|フランス委任統治領シリア}} |
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[[ファイル:French Mandate for Syria and the Lebanon map en.svg|thumb|left|[[フランス委任統治領シリア]]]] |
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[[1920年]][[3月8日]]、{{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria}}の独立は[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世]]が国王に即位することで達成された。 |
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しかし、{{仮リンク|フランス・シリア戦争|en|Franco–Syrian War}}([[:en:Battle of Tel Hai]]、{{仮リンク|マイサラムの戦い|en|Battle of Maysalun}}、[[:en:Siege of Damascus (1920)]])における{{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria|label=シリア・アラブ軍}}と[[フランス軍]]との間の衝突すると、[[7月24日]]にはファイサル1世のシリアにおける治世は四ヶ月あまりで終焉し、彼は後に[[イラク王国]]の王になる。 |
しかし、{{仮リンク|フランス・シリア戦争|en|Franco–Syrian War}}([[:en:Battle of Tel Hai]]、{{仮リンク|マイサラムの戦い|en|Battle of Maysalun}}、[[:en:Siege of Damascus (1920)]])における{{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria|label=シリア・アラブ軍}}と[[フランス軍]]との間の衝突すると、[[7月24日]]にはファイサル1世のシリアにおける治世は四ヶ月あまりで終焉し、彼は後に[[イラク王国]]の王になる。 |
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しかし。フランスは条約を reneged し、それを ratify するために拒否した。[[第2次世界大戦]]時、[[1940年]]の[[フランス陥落]]により、シリアは、[[1941年]]7月に[[イギリス軍]]と[[自由フランス]]軍に占領されるまで[[ヴィシー政権]]の統治下におかれた。 |
しかし。フランスは条約を reneged し、それを ratify するために拒否した。[[第2次世界大戦]]時、[[1940年]]の[[フランス陥落]]により、シリアは、[[1941年]]7月に[[イギリス軍]]と[[自由フランス]]軍に占領されるまで[[ヴィシー政権]]の統治下におかれた。 |
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シリアは[[1941年]]にその独立を宣言した。しかしそれが一共和国の独立宣言として認識されたのは[[1944年]]の7月のことであった。[[1945年]]2月、シリアは[[ドイツ]]と[[日本]]に宣戦布告をした。シリアの民族主義者グループからのプレッシャーの継続および英国からの圧力は、[[1946年]]4月にフランスをして同国軍を撤退せしめ、委任統治時、結成された共和国政府が掌握した国家が遺された。 |
シリアは[[1941年]]にその独立を宣言した。しかしそれが一共和国の独立宣言として認識されたのは[[1944年]]の7月のことであった。[[1945年]]2月、シリアは[[ドイツ]]と[[日本]]に宣戦布告をした。シリアの民族主義者グループからのプレッシャーの継続および英国からの圧力は、[[1946年]]4月にフランスをして同国軍を撤退せしめ、委任統治時、結成された共和国政府が掌握した国家が遺された。 |
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==関連項目== |
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* [[ダマスカス#歴史]] |
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* {{仮リンク|ダマスカスの統治者一覧|en|List of rulers of Damascus}} |
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* {{仮リンク|フランス・シリア独立条約|en|Franco-Syrian Treaty of Independence (1936)}} |
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* [[:en:Hashim al-Atassi]] |
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* [[:en:Shukri al-Kuwatli]] |
* [[:en:Shukri al-Kuwatli]] |
2013年4月8日 (月) 17:05時点における版
シリアの歴史を記す。この地域は世界的にも歴史の古い土地であり、古代オリエント時代においてもメソポタミア、アッシリア、バビロニア、さらにギリシア・ローマ、ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、今のようにイスラム世界に入ってからも、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝、などの各王朝からモンゴル人のイル汗国、オスマン帝国と支配者は変わった。近代には列強の争いの舞台となるなど、人類史の縮図といっていい。
概史
先史
この地域は世界で最も古い歴史を持つ土地と言われ、紀元前1万年頃に氷河期が終わり、地球が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域では麦による農耕が始められた。紀元前6000年ごろには「肥沃な三日月地帯」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした文明の萌芽があった。
「肥沃な三日月地帯」
紀元前3千年紀にはエブラ、キシュ、アブツァラリク、マリなど血縁によって結ばれたセム語都市文明圏が成立し、そのうちエブラは大麦、オリーブや織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、メソポタミアからパレスチナ、エジプトまで交易が営まれていた。エブラは紀元前2250年ごろにアッカドに滅ぼされる。またマリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850 アッシリア王のシャムシ・アダド1世がヤスマフ・アダドをマリ王にし間接支配を布いた。そして紀元前1759年にはバビロニアのハンムラビに滅ぼされた。
その後紀元前15世紀にミタンニ王国が成立。紀元前13世紀にはアッシリアがミタンニ王国を滅ぼした。一方、海岸部ではフェニキア人の植民が展開された。海の民によりヒッタイトが滅亡するとアラム人の小国が乱立。その後はアッシリアがティグラト・ピレセル3世などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年アッシリアが統一。紀元前732年には北に位置する騎馬民族スキタイに押されて南下したキンメリア人の侵攻を受けた。その後、アッシリア最後の偉大な王とされるアッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)が即位し、ニネヴェ図書館と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管した。これらは今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持つ。 だが彼の死後、急速に衰退したアッシリアは紀元前612年に新バビロニアとメディアの攻撃を受けて滅亡。そして新バビロニア、メディア、リディア、エジプトなどの強国が乱立するが、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がメソポタミア地域の統一、続くカンビュセス2世が古代エジプトを制圧し、ついに古代オリエント世界全域の支配に成功した。
ギリシアとローマの支配
アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いたが、アレクサンドロス大王率いるマケドニア王国の征服を受けると、急速にギリシア化が進んだ。紀元前322年のディアドコイ戦争でアレクサンドロス帝国は分裂し、紀元前301年にセレウコス朝シリアが建国された。セレウコス朝シリアはインドからイランをへてトルコにいたる広大な領土を持っていたが、紀元前200年ころからアルサケス朝パルティア、グレコ・バクトリア王国の侵食を受け縮小。さらにポエニ戦争にかかわったことから古代ローマ(共和政ローマ)とローマ・シリア戦争などで交戦状態となって衰退してゆき、紀元前64年にローマ帝国に併合された。
ローマ帝国の支配下ではパルミラなど諸都市が大いに栄えた。ローマ帝国が東西に分裂するとシリアは東ローマ帝国の版図に入る。
イスラム圏へ
7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた。ウマイヤ朝のもとではダマスカスが首都とされた。その後754年に樹立されたアッバース朝はバグダッドを首都としたため、シリア地方に転落した。しかし、バグダッドからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備された。中央アジアからトルコ系遊牧民が渡来し、セルジューク朝を樹立すると、シリアにはシリア・セルジューク朝が成立した。その頃ヨーロッパから十字軍が侵攻し激戦が展開された。さらにフレグ率いるモンゴル人がこの地を征服イル汗国を建国した。その後シリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受けることになった。北方でオスマン帝国が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった。
フランス占領期
1920年3月8日、シリア・アラブ王国の独立はハーシム家のファイサル1世が国王に即位することで達成された。 しかし、フランス・シリア戦争(en:Battle of Tel Hai、マイサラムの戦い、en:Siege of Damascus (1920))におけるシリア・アラブ軍とフランス軍との間の衝突すると、7月24日にはファイサル1世のシリアにおける治世は四ヶ月あまりで終焉し、彼は後にイラク王国の王になる。 国際連盟がシリアをフランスの委任統治下においたのち、フランス軍はシリアを占領した(フランス委任統治領シリア、1920年-1946年)。その後、フランス委任統治領シリアは、en:State of Damascus、en:State of Aleppo、en:Alawite State、en:Jabal Druze State、en:Sanjak of Alexandretta、大レバノンに分割・統治された。
フランスとシリアはフランス・シリア独立条約を1936年9月に交渉した、ファイサル王政下のシリア首相、ハシム・アル・アタシーは新政権下での新しい大統領に選ばれ、その結果、近代最初のシリア共和国が樹立された。 しかし。フランスは条約を reneged し、それを ratify するために拒否した。第2次世界大戦時、1940年のフランス陥落により、シリアは、1941年7月にイギリス軍と自由フランス軍に占領されるまでヴィシー政権の統治下におかれた。 シリアは1941年にその独立を宣言した。しかしそれが一共和国の独立宣言として認識されたのは1944年の7月のことであった。1945年2月、シリアはドイツと日本に宣戦布告をした。シリアの民族主義者グループからのプレッシャーの継続および英国からの圧力は、1946年4月にフランスをして同国軍を撤退せしめ、委任統治時、結成された共和国政府が掌握した国家が遺された。