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レンジャーは空母[[ラングレー (CV-1)|ラングレー]]と同様に艦橋を持たず、ラングレーと大差ない排水量の小型空母だった。後に建造される[[ヨークタウン級航空母艦]]は排水量が10,000トン以上重い中型空母で、より能力を高めることに成功し、レンジャーはその土台となった。
レンジャーは空母[[ラングレー (CV-1)|ラングレー]]と同様に艦橋を持たず、ラングレーと大差ない排水量の小型空母だった。後に建造される[[ヨークタウン級航空母艦]]は排水量が10,000トン以上重い中型空母で、より能力を高めることに成功し、レンジャーはその土台となった。

アメリカ海軍の他の空母と異なり、レンジャーはほとんどの間[[大西洋]]で従軍した。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==

2011年2月28日 (月) 12:12時点における版

USS Ranger CV-4
艦歴
発注 1930年11月1日
起工 1931年9月26日
進水 1933年2月25日
就役 1934年6月4日
退役 1946年10月18日
除籍 1946年10月29日
その後 スクラップとして売却
性能諸元
排水量 基準:14,500 トン
満載:17,577 トン
全長 233.4 m
艦幅 24.4 m
全幅 33.4 m
吃水 6.7 m
最大速度 29.25ノット
乗員 士官、兵員1,788名
兵装 5インチ砲 8基
搭載機 86機
航空兵装 エレベーター
カタパルト 3基

レンジャー (USS Ranger, CV-4) は、アメリカ海軍航空母艦アメリカ海軍で当初から航空母艦正規空母)として設計された最初の艦。アメリカ海軍においてレンジャーの名を受け継いだ艦としては7隻目にあたる。

レンジャーは空母ラングレーと同様に艦橋を持たず、ラングレーと大差ない排水量の小型空母だった。後に建造されるヨークタウン級航空母艦は排水量が10,000トン以上重い中型空母で、より能力を高めることに成功し、レンジャーはその土台となった。

アメリカ海軍の他の空母と異なり、レンジャーはほとんどの間大西洋で従軍した。

艦歴

1933年2月25日バージニア州ニューポート・ニューズ造船所で進水するレンジャー

1931年9月26日バージニア州ニューポートニューズニューポートニューズ造船所で起工される。1933年2月25日フーヴァー大統領夫人のルー・ヘンリー・フーヴァーによって進水し、1934年6月4日ノーフォーク海軍造船所で初代艦長アーサー・L・ブリストル大佐の指揮下就役する。

1934年8月6日にヘンリー岬の近海でレンジャーは航空機発着を行い、慣熟訓練のため17日にノーフォークからリオデジャネイロブエノスアイレスモンテビデオなどへ航海に出た。10月4日にノーフォークへ戻り、1935年3月28日には太平洋に向かうためバージニア岬を発った。4月7日にパナマ運河を通過し、15日にサンディエゴに到着した。約4年の間、レンジャーはハワイ西海岸の沿岸に留まり、艦隊に加わって南はペルーのカイヤオ、北はワシントン州シアトルにも足を伸ばした。

第二次世界大戦

1939年1月4日キューバのグアンタナモ湾で冬季艦隊行動を実施するためサンディエゴを発った。その後、4月18日にノーフォークに帰還した。カリブ海東海岸の沿岸で航海を行った。1939年の秋にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、レンジャーはバミューダ諸島を拠点に通商航路の中立哨戒を開始した。中部大西洋とニューファンドランド、アメリカ東海岸からアルゼンチンといった海域で哨戒を行った。

1941年12月7日日本真珠湾攻撃太平洋戦争)により太平洋も戦場になるとトリニダード・トバゴのポート・オブ・スペインでの哨戒任務からノーフォークへ戻った。12月8日にノーフォークに到着し、21日に南部大西洋で哨戒するため出港した。その後、1942年3月22日に修理のためノーフォーク海軍工廠に入渠した。

同年4月22日にロードアイランド州クォンセット・ポイントを発って戦闘機P-40を装備するアメリカ陸軍第33飛行隊の輸送を行い、7月にもP-40の輸送を行った。それらの戦闘機はフライング・タイガースとして中国を支援した。また、10月にはバミューダでタンカーから改造されたサンガモン級護衛空母4隻と航空隊を強化するため訓練を実施した。

アメリカ海軍大西洋艦隊で唯一の正規空母であるレンジャーは任務部隊を構成し、サンガモンスワニーシェナンゴサンティーらと協同で1942年11月8日ヴィシー・フランスモロッコへ上陸した連合国軍の航空支援を行った(トーチ作戦)。

航空攻撃を実施する当日の6時15分、カサブランカ沖北西30マイルの地点からレンジャーは攻撃隊を発進させた。発進した戦闘機F4F ワイルドキャットはラバトの飛行場とリョーテの飛行場を空襲し、カサブランカ湾のフランス海軍艦艇にも攻撃を加えた。

対潜警戒の為レンジャーの上空を飛行する、海軍第42偵察飛行隊(VS-42)所属のSB2U ヴィンディケイター 1941年12月の撮影 レンジャーの起倒式煙突が倒されているのに注目

1942年11月11日、カサブランカのヴィシー・フランスは連合国のアメリカ軍に降伏し、レンジャーは11月12日にモロッコ沿岸を発って23日にノーフォークへ帰還した。

チェサピーク湾で訓練を行った後、レンジャーは1942年12月16日から1943年2月7日までノーフォーク海軍工廠に入渠してオーバーホールを実施した。オーバーホールを終えると陸軍の戦闘機P-40L 75機を搭載し、2月23日にアフリカのカサブランカへ輸送した。さらにニューイングランドの沿岸を哨戒を兼ねて飛行隊の訓練を行い、ハリファックスに向かった。8月11日にはハリファックスを出発してスコットランドのスカパ・フローに向かい、イギリス海軍本国艦隊の指揮下に入って北大西洋を哨戒した。

10月2日に本国艦隊はドイツの海上輸送路を攻撃するためスカパ・フローから出撃した。察知されることなく、レンジャーの任務部隊は10月4日にヴェストフィヨルド (Vestfjord) へ到着し、6時18分に爆撃機SBD ドーントレス20機と護衛の戦闘機F4F ワイルドキャット8機を発進させた。1つの爆撃機部隊はボド港の8,000トン貨物船ラプラタを攻撃している間、残りは北に位置するドイツの輸送船団を攻撃した。輸送船団の10,000トンタンカーを大破させ、小型の船舶にも打撃を与えた。ボド港を攻撃した部隊も4隻の小型商船を沈めた(リーダー作戦)。

レンジャーの雷撃機TBF アヴェンジャー10機と戦闘機F4F ワイルドキャット6機からなる第2次攻撃隊は、貨物船の小型の貿易船を爆撃した。対空砲火で3機のレンジャー搭載機が失われた。

レンジャーは1943年10月6日にスカパ・フローに帰還した。イギリス海軍の第2戦艦部隊とアイスランド沖で哨戒を行った後、ハヴァルフィヨルド (Hvalfjord) を出発し、11月26日にボストンに着いた。

1944年1月3日、訓練用の空母となったレンジャーはクォンセット・ポイントを出発したが、4月20日にレンジャーがスタテン島へ到着した際、カサブランカへ陸軍の戦闘機P-38 76機とフランス海軍の兵員などを輸送するため任務は中止となった。4月24日に出航したレンジャーは5月4日にカサブランカに到着し、軍の兵員と修理を必要とする航空機を搭載してニューヨークへ戻るため出航した。

改装を終え、迷彩を施されたレンジャー(1944年7月)。

1944年5月16日、ニューヨークに戻ったレンジャーはノーフォーク海軍工廠に入渠した。飛行甲板の強化と夜間戦闘機の訓練をできるように新型のカタパルト、着艦用機器とレーダーを装備した。7月11日にノーフォークを出発してパナマ運河を渡り、パナマシティバルボアで陸軍の兵員を乗船させてサンディエゴに向かった。レンジャーは7月25日にサンディエゴに到着し、海兵隊と航空機を搭載して7月28日にハワイへと向かった。

8月3日にハワイの真珠湾へ到着し、それから3ヶ月の間、レンジャーは夜間戦闘機部隊の訓練任務に従事した。レンジャーは戦闘任務向けの訓練のため、10月18日に真珠湾を発ち、カリフォルニア沿岸で終戦まで訓練を続けた。

戦後

1945年9月30日にサンディエゴを出港し、バルボアで軍人及び民間人を乗船させるとルイジアナ州ニューオーリンズに向かい、10月18日に到着する。ニューオーリンズで海軍記念式典に参加した後、10月30日に出港しフロリダ州ペンサコラで短期の作戦活動に従事し、その後ノーフォークを訪問した後オーバーホールのため11月18日にフィラデルフィア海軍工廠に入る。1946年10月18日にノーフォーク海軍工廠で退役するまでレンジャーは東海岸に留まった。1946年10月29日に除籍され、1947年1月28日ペンシルベニア州チェスターのサン・シップビルディング・アンド・ドライドック社にスクラップとして売却された。

レンジャーは開戦前に建造された空母のうち生き残った3隻の1つで、第二次世界大戦での戦功により2つの従軍星章を受章した。

関連項目

外部リンク