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学習院旧制中等科了後に海軍兵学校に進み海軍将校となる。[[侍従武官]]などを務めた他、自ら希望して潜水艦畑を進み[[太平洋戦争]]では潜水艦戦の専門家として第5潜水戦隊司令官、第6艦隊司令長官などを歴任。謹厳実直で部下からの信頼が篤かったが終戦直前には[[回天|回天特別攻撃隊]]の事で悩んでいたという。
学習院旧制中等科了後に海軍兵学校に進み海軍将校となる。[[侍従武官]]などを務めた他、自ら希望して潜水艦畑を進み[[太平洋戦争]]では潜水艦戦の専門家として第5潜水戦隊司令官、第6艦隊司令長官などを歴任。謹厳実直で部下からの信頼が篤かったが終戦直前には[[回天|回天特別攻撃隊]]の事で悩んでいたという。


戦後「[[ポンティアナック事件]]」(ポンティアナ事件)の容疑者として戦犯指名され、[[オランダ]]軍の報復裁判により死刑判決を受け公開銃殺刑にされた。反対尋問も証人喚問も許されない3時間の即決裁判であり冤罪であるのは明白であった。
戦後「[[ポンティアナック事件]]」(ポンティアナ事件)の容疑者として戦犯指名され、[[オランダ]]軍の報復裁判により死刑判決を受け公開銃殺刑にされた。反対尋問も証人喚問も許されない3時間の即決裁判であり冤罪であるのは明白であった。

2010年5月21日 (金) 21:39時点における版

醍醐忠重
1891年10月15日 - 1947年12月6日
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海軍中将 醍醐忠重
生誕 東京都千代田区
死没 インドネシア
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 海軍中将
指揮 第5潜水戦隊司令官
第11潜水戦隊司令官
第6艦隊司令長官
戦闘 太平洋戦争
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醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年(明治24年)10月15日 - 1947年(昭和22年)12月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将東京都千代田区出身。侯爵

略歴

学習院旧制中等科より海軍兵学校第40期入校。入校時成績順位は150名中第126位、卒業時成績順位は144名中第17位。

東京市麹町区元園町に公卿華族清華家の名門醍醐侯爵家の嫡子として生まれる。父醍醐忠敬戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めたが、忠重8歳の時に家督相続に絡む怨恨が原因で従兄弟の格太郎に射殺され、当時一大スキャンダルとなり醍醐家は没落。忠重は公卿摂家一条家に引取られて養育された。賀陽宮恒憲王は従兄弟である。

学習院旧制中等科修了後に海軍兵学校に進み海軍将校となる。侍従武官などを務めた他、自ら希望して潜水艦畑を進み太平洋戦争では潜水艦戦の専門家として第5潜水戦隊司令官、第6艦隊司令長官などを歴任。謹厳実直で部下からの信頼が篤かったが終戦直前には回天特別攻撃隊の事で悩んでいたという。

戦後「ポンティアナック事件」(ポンティアナ事件)の容疑者として戦犯指名され、オランダ軍の報復裁判により死刑判決を受け公開銃殺刑にされた。反対尋問も証人喚問も許されない3時間の即決裁判であり冤罪であるのは明白であった。

靖国神社遊就館には遺品の軍帽が展示されている。

年譜

参考文献

関連項目