「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の版間の差分

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* 足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない(アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが分かった)。
* 足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない(アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが分かった)。


小原は、以前の取り調べと同じように相手をはぐらかすような受け答えを続けるが、最終的に自供したのは、刑事の平塚八兵衛による、徹底的なアリバイの洗い直しと供述の矛盾を突く粘り強い取り調べの結果であった。1965年7月、取調べ期間の最終日に、小原の「日暮里大火<ref>火災発生は1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話がかかって来た時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、吉展ちゃんの祖母が覚えていた。[[本田靖春]]著『誘拐』(2005年、[[ちくま文庫]])P.308 - 309。</ref>を山手線の車中から見た<ref>供述通り福島県にいた場合、見ることができない。</ref>」という何気ない一言から犯行を認め、まもなく逮捕される。
小原は、以前の取り調べと同じように相手をはぐらかすような受け答えを続けるが、最終的に自供したのは、刑事の平塚八兵衛による、徹底的なアリバイの洗い直しと供述の矛盾を突く粘り強い取り調べの結果であった。1965年7月、取調べ期間の最終日に、小原の「[[日暮里大火]]<ref>火災発生は1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話がかかって来た時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、吉展ちゃんの祖母が覚えていた。[[本田靖春]]著『誘拐』(2005年、[[ちくま文庫]])P.308 - 309。</ref>を山手線の車中から見た<ref>供述通り福島県にいた場合、見ることができない。</ref>」という何気ない一言から犯行を認め、まもなく逮捕される。


こうして犯人は逮捕されたが、小原の供述から吉展ちゃんは誘拐直後に殺害されていたことがわかり、三ノ輪橋近くの[[円通寺 (荒川区)|円通寺]]([[荒川区]][[南千住]])の[[墓地]]から遺体で発見された<ref>この時捜査員は当初隣の寺を捜索したために遺体が見つからなかった。その後吉展ちゃんの供養のため、円通寺の境内には「よしのぶ地蔵」が建立され、奉られている。</ref>。
こうして犯人は逮捕されたが、小原の供述から吉展ちゃんは誘拐直後に殺害されていたことがわかり、三ノ輪橋近くの[[円通寺 (荒川区)|円通寺]]([[荒川区]][[南千住]])の[[墓地]]から遺体で発見された<ref>この時捜査員は当初隣の寺を捜索したために遺体が見つからなかった。その後吉展ちゃんの供養のため、円通寺の境内には「よしのぶ地蔵」が建立され、奉られている。</ref>。

2009年5月31日 (日) 14:08時点における版

吉展ちゃん誘拐殺人事件(よしのぶちゃんゆうかいさつじんじけん)とは、1963年3月31日東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件

概要

日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件から、被害者やその家族に対しての被害拡大防止ならびにプライバシーの観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれた。また報道協定解除後の公開捜査においてテレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオで犯人からの電話を公開し、情報提供を求めるなどメディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあった。

犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したことなどから当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。

誘拐の経緯

1963年3月31日17:40頃から、近所の公園に遊びに出かけていた吉展ちゃん(当時4歳)が消息を絶つ。両親は迷子を疑い、警察に通報。新聞などで報じられる。

4月1日、警察の聞き込みの結果、公園で吉展ちゃんが30代の男性と会話していた目撃情報を得たことから、警視庁捜査一課誘拐の可能性ありとして、捜査本部を設置。4月2日、身代金を要求する電話が入る。警察は報道機関に対し報道の自粛を要請。「報道協定」が結ばれる。

4月4日にも身代金を要求する電話が入り、家族が吉展ちゃんの安否を確認させるよう求め電話を4分以上に引き延ばした結果、犯人からの通話の録音に成功する。後に公開された音声は、この通話の物である。技術的には逆探知も可能であったが、当時は法的に許可されていなかったため、犯人の居場所がつかめなかった。

4月7日、身代金の受け渡し方法を指示する電話が入る。犯人の指定場所である車の荷台に吉展ちゃんの母親が身代金を置いた後、警察は見張って犯人を逮捕しようとするが、受け渡しに使った自動車を見間違えて失敗する。警察が見張る前に、すでに犯人は身代金の奪取に成功して逃亡していた。以降、犯人からの連絡は途絶え、吉展ちゃんも帰ってこなかった。犯人を刺激しないため、偽物の紙幣ではなく本物の紙幣を用意した。

4月13日、原文兵衛警視総監がマスコミを通じて、犯人に吉展ちゃんを親に返してやってくれと呼びかける。4月19日、警察は公開捜査に切り替える。また犯人からの電話を公開し、情報提供を求めたところ1万件に及ぶ情報が寄せられる。寄せられた情報には、犯人に直接つながる有力情報もあったが、直後の逮捕にはつながらなかった。

捜査

捜査は長引き、犯人逮捕まで2年の歳月を要した。捜査が長引いた理由には次のようなものがある。

  • 人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。
  • 警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と報道協定を結んだ。
  • 当時はまだ、電話を逆探知することが法的に許されていなかった。
  • 当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかった。
  • 身代金の紙幣のナンバーを控えなかった。

結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼する。事件発生から2年が経過した1965年3月31日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者をあてる方式に切り替えた。警察庁科学警察研究所鈴木隆雄技官に録音の声紋鑑定依頼をしたが当時は技術が確立されず、刑事の地道な捜査から犯人からの電話の声が時計修理工の小原保(1933年1月26日 - 1971年12月23日)と良く似ているとされたことや、小原のアリバイに不明確な点があることを理由に事情聴取が行われる。

事件解決

それまでにも小原は容疑者の一人として捜査線上に上がっていた。1963年8月に小原は賽銭泥棒で懲役1年6ヶ月・執行猶予4年の判決を受け、執行猶予中の12月に小原は工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の刑が確定し、前橋刑務所に収容されていた。

警察は上記の窃盗容疑での拘留中の小原に対して取り調べも幾度か行われていたが、次の理由から決め手を欠いていた。

  • 犯行当時、福島県下にいたというアリバイを主張し、それを覆せる証拠がなかった。
  • 事件直後に大金を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
  • 脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定出来ない。
  • ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
  • 足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない(アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが分かった)。

小原は、以前の取り調べと同じように相手をはぐらかすような受け答えを続けるが、最終的に自供したのは、刑事の平塚八兵衛による、徹底的なアリバイの洗い直しと供述の矛盾を突く粘り強い取り調べの結果であった。1965年7月、取調べ期間の最終日に、小原の「日暮里大火[1]を山手線の車中から見た[2]」という何気ない一言から犯行を認め、まもなく逮捕される。

こうして犯人は逮捕されたが、小原の供述から吉展ちゃんは誘拐直後に殺害されていたことがわかり、三ノ輪橋近くの円通寺荒川区南千住)の墓地から遺体で発見された[3]

裁判

1966年3月17日東京地裁が小原に死刑を言い渡すが、弁護側が計画性はなかったとして控訴

同年9月から控訴審として計3回の公判を行うも、11月に東京高裁は控訴を棄却する。弁護側が上告するが、1967年10月13日最高裁は上告を棄却し死刑が確定する。4年後の1971年12月23日に死刑が執行される。享年38。

小原は処刑間際に「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」と言い残す。この言葉は、当時府中署の「三億円事件」の特捜本部にいた平塚に、看守により電話で伝えられる。

死刑確定後、ある僧侶に短歌を勧められた小原は、同人誌『土偶』に福島誠一というペンネームで投稿。1980年に出版された歌集『昭和万葉集』(講談社)に小原の短歌が掲載され、3年後の1983年に『氷歌 - 吉展ちゃん事件から20年 犯人小原保の獄中歌集』(中央出版)が出版される。

事件の影響

この事件の捜査で犯人を取り逃がした。ことが、狭山事件での強引な捜査に結びついたといわれる。

またこの事件を一つのきっかけとして、1964年、刑法の営利誘拐に「身の代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰を科すように改められる。

この事件を題材に本田靖春ノンフィクション『誘拐』を執筆、第39回文藝春秋読者賞と第9回講談社出版文化賞を受賞し、テレビドラマ化(1979年、『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』。小原役は泉谷しげる)もされた。

なお刑事ドラマなどでの容疑者取調べの際、カツ丼が定番メニューとなったのはこの事件がきっかけという説があり、小原が幼いころから貧しかったためにカツ丼のような高級品は食べたことがなく食べさせた途端に自供したという。しかしながら、小原を自供に追い込んだ平塚の回想にそうした話は一切出てこない[4]

小原が逮捕された翌朝の1965年7月5日にNHKが放送した『ついに帰らなかった吉展ちゃん』は、ビデオリサーチ・関東地区調べで59.0%の視聴率を記録する。これはワイドニュースの視聴率日本記録である。

事件直後の1963年5月に、文化放送が小原保にインタビューを行った音源が残されている。これは文化放送のある社員が行きつけの喫茶店で「声によく似た人を知っている」という話を聞きつけたことがきっかけで、小原がよく顔を出すという飲み屋に張り込みを行ってインタビューを実現させたもの。これはその後も同局の特番などの際に放送される。

1965年3月、この事件を主題とした楽曲『かえしておくれ今すぐに』(作詞:藤田敏雄、作曲:いずみたく)がフランク永井ザ・ピーナッツボニージャックス、市川染五郎(現松本幸四郎)の競作で発売される。まずザ・ピーナッツのバージョンが、2009年2月にフランク永井のバージョンがCD化された。事件の犯人に訴えかけたこの楽曲は、「たったひとりの人物に聴かせるために作られ、発売された歌」であり、小原は留置場ラジオで、この歌を聴いていたという。小原の逮捕・犯行自供後はラジオなどで流れなくなった[5]

脚注

  1. ^ 火災発生は1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話がかかって来た時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、吉展ちゃんの祖母が覚えていた。本田靖春著『誘拐』(2005年、ちくま文庫)P.308 - 309。
  2. ^ 供述通り福島県にいた場合、見ることができない。
  3. ^ この時捜査員は当初隣の寺を捜索したために遺体が見つからなかった。その後吉展ちゃんの供養のため、円通寺の境内には「よしのぶ地蔵」が建立され、奉られている。
  4. ^ 小原が拘置所の食事の準備を物音から察知して「食事の時間だから房に戻せ」と言ったという話が出てくる。
  5. ^ 石橋春海著『封印歌謡大全』(2007年4月、三才ブックス)P.66 - 67。

関連項目

  • 天国と地獄 (映画) - 小原が犯行に当たってこの映画の予告編を観たことを思い出し、ヒントにしたといわれる
  • 鈴木隆雄 - 元科警研副所長で、当時、声紋鑑定をしていなかったことを説明する
  • 金田一春彦 - 犯人の声が報道された際、テレビ番組でそのアクセント等から出身地を推理し、犯人逮捕後、その分析の的確さが立証される
  • 萩原聖人 - テレビ朝日開局50周年記念ドラマ『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』で小原を演じる

外部リンク

  • 円通寺 - 境内に「よしのぶ地蔵」が奉られている。