松浦三千男
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県掛川市 |
生年月日 | 1937年5月8日(87歳) |
身長 体重 |
176 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1956年 |
初出場 | 1957年5月14日 |
最終出場 | 1957年5月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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松浦 三千男(まつうら みちお、1937年5月8日 - )は、静岡県掛川市出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]静岡商業高では、2年生時の1954年に1年上の横山俊雄(のち静岡商監督)と投の二本柱を組み、夏の甲子園に出場。大会では先発を任され、2回戦(初戦)で田中尊がいた高松商に競り勝ち波に乗る。準々決勝では泉陽高に辛勝。準決勝は高知商のエース片田謙二と投げ合い逆転勝ち。決勝に進出するが中京商の中山俊丈に0-3で完封され敗退、準優勝にとどまる。他の1年上のチームメイトに一塁手、四番打者の興津達雄、捕手の瀧英男(後に大阪タイガースでもチームメイトになる)[1]がいた。
翌1955年春の選抜にも出場。2回戦(初戦)で初出場の明星高(大阪府)に敗退。高校同期に左翼手の大木利男(瀧と共に、のち大阪でチームメイトになる)[1]がいる。
1956年に大阪タイガースに入団。スピードのある本格派右腕として期待されたが、右膝を故障。これが命取りとなり、プロでの登板は、1957年5月14日の広島戦(観音球場)のみ[2]に留まった。1958年限りで退団。
1959年に社会人野球の鐘化カネカロンに入団すると、瞬く間に実力を開花させた。ドロップやシュートを武器に、1960年の都市対抗では、松下電器の補強選手になり、エースとして起用され勝ち進む。決勝では熊谷組に延長10回サヨナラ負けを喫するが、チームの準優勝に貢献。同大会の久慈賞も受賞した。大会終了後の全日本ハワイ遠征選抜メンバーにも選出されている。翌1961年の都市対抗にも出場。1回戦で積水化学に9回裏サヨナラ負けを喫する。この時のチームメイトに大根晃(元阪神。1956年の1年だけチームメイトだった)がいる。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1957 | 大阪 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 9 | 2.0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 2.50 |
NPB:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 9 | 2.0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 2.50 |
背番号
[編集]- 33 (1956年 - 1958年)