相国寺
相国寺 | |
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法堂(重要文化財) | |
所在地 | 京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701 |
位置 | 北緯35度1分59秒 東経135度45分44.45秒 / 北緯35.03306度 東経135.7623472度座標: 北緯35度1分59秒 東経135度45分44.45秒 / 北緯35.03306度 東経135.7623472度 |
山号 | 萬年山 |
宗派 | 臨済宗相国寺派 |
寺格 |
大本山 京都五山二位 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 永徳2年(1382年) |
開山 | 夢窓疎石 |
開基 | 足利義満 |
正式名 | 萬年山 相国承天禅寺 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道 第99番 |
文化財 |
無学祖元墨蹟(国宝) 法堂・紙本墨画猿猴竹林図ほか(重要文化財) |
公式サイト | 臨済宗相国寺派 |
法人番号 | 7130005001271 |
相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院[1]。山号は萬年山(まんねんざん)。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
歴史
永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。
義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。3世住職にはもう1人の禅の師である義堂周信の推挙によって空谷明応が任じられた[注釈 1]。空谷明応は3度住持を務め、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)の火災で伽藍の大半が焼失した際も義満に乞われて住職に復帰して再建にあたっている。
火災はその後も多々起こり、応永32年(1425年)にも再度全焼している。応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。
また、義満によって応永6年(1399年)に建てられた七重大塔も、応永10年(1403年)に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。大正3年(1914年)の日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。七重大塔は北山山荘(後の鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が義満没後の応永23年(1416年)に再び落雷で焼失、その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建された3代目の塔も文明2年(1470年)にまたもや落雷で焼失している[2][3]。
伽藍
境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。
- 法堂(重要文化財) :「無畏堂」とも言い、慶長10年(1605年)、豊臣秀頼の寄進によって再建された。日本にある法堂建築としては最古のものである。天井にある龍の絵は狩野光信の手になる。特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれる。
- 開山塔(開山堂) :開山・夢窓疎石の像を祀る堂で、桃園天皇の皇后である恭礼門院の女院御所内の御殿を文化4年(1807年)に下賜されたもの。
- 方丈 :文化4年(1807年)の再建。
- 庫裏 :文化4年(1807年)の再建。
- 承天閣美術館 :相国寺と関連寺院(鹿苑寺など)の文化財を収蔵展示する施設で、昭和59年(1984年)に開館した。
- 宣明(浴室) :応永7年(1400年)頃の創建。現在のものは慶長4年(1596年)の再建。蒸気浴をしながら柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされる。(右の画像参照)
- 鐘楼
- 勅使門
- 総門
- 相国寺本山墓地:足利義政、藤原定家、伊藤若冲、長州藩士の墓がある。
塔頭寺院
かつては臨済宗の事実上の最高機関として五山以下の諸寺を統括する役所鹿苑院があった。足利義満が鹿苑院の院主である絶海中津を僧録に任命して以来、その院主が僧録を兼務し鹿苑僧録として権勢を振るうことになった。明治時代初期の廃仏毀釈の嵐に見舞われて廃絶。
山内塔頭
- 大光明寺
- 林光院 - 足利義嗣の菩提を弔うため、夢窓疎石を勧請開山として創建。元は二条西ノ京にあった紀貫之邸宅跡にあったが、移転を繰り返した後、豊臣秀吉の命により山内に移った。明治時代には荒廃し廃院となっていたが、大正8年(1919年)橋本獨山によって再興。建物は仁正寺藩藩邸を買い取り移築。南庭の鶯宿梅には、平安時代の村上天皇の代に清涼殿の梅が枯れたので紀内侍(紀貫之娘)宅の梅を移植したが、「勅なればいともかしこし鶯の 宿はととはばいかがこたえん」という別れを惜しむ娘の和歌短冊が添えられ、これに心打たれた天皇は梅を返したという逸話が残る(『大鏡』[注釈 2])。大正4(1915)年に境外墓所に「甲子役戊辰役薩藩戦死者墓」が建てられた。この墓は甲子役すなわち禁門の変(元治元(1864)年と戊辰戦争(特に鳥羽伏見の戦い)に関わって亡くなった方を弔ったものである[4]。
- 般若林
- 玉龍院
- 普広院
- 慈雲院
- 慈照院
- 豊光寺 - 西笑承兌が豊臣秀吉追善のため創建。天明の大火で焼失し、廃絶の危機にあったが、明治15年(1882年)荻野独園が、慧林院とその子院霊香軒の客殿を移築し再興。
- 長得院
- 養源院
- 光源院
- 瑞春院 - 水上勉が幼い時に暮らし、小説『雁の寺』のモデルになった。
- 大通院
山外塔頭
かつての山内塔頭
文化財
承天閣美術館収蔵品については、同美術館の項を参照。以下には相国寺伝来品のみを掲げる。
国宝
重要文化財
- 本堂(法堂)附 玄関廊
- 紙本墨画猿猴竹林図 長谷川等伯筆 六曲屏風一双
- 絹本著色十六羅漢像 陸信忠筆 16幅
- 絹本著色鳴鶴図 文正筆 2幅
- 絹本墨画淡彩 鳳凰図 林良筆
- 紙本墨画 山水図 絶海中津の賛あり
- 子元祖元高峰顕日問答語
- 十牛頌(伝・絶海中津筆)10幅
- 明主勅書 永楽五年五月二十五日とあり(1407年)
- 異国通船朱印状 13通
- 普広院指図
京都市指定文化財
- 名勝
- 相国寺裏方丈庭園 - 1985年(昭和60年)6月1日指定。
アクセス
- 鉄道
- バス
- 京都市営バス59・201・203系統「同志社前」下車2分。
- 自動車道
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脚注
注釈
- ^ 義満が春屋妙葩と義堂周信に寺院建立の意思を表明した際には自らが修行するための小規模な堂宇の建立を考えていたが、義堂は円覚寺や天龍寺に並ぶ寺院を建てるべきだと述べたと伝えられる(『空華日用工夫略集』永徳2年9月29日・10月3日条)。その経緯から義満は春屋妙葩の後任に義堂周信を考えていたが、彼が南禅寺の住職との兼務は難しいと答えたため、代わりに彼の推挙する空谷明応を住職にしたという[2]。
- ^ 鶯宿梅の逸話については、菅原利晃「貫之の娘「鶯宿梅」歌説話小考 歌徳と教訓をめぐって」(PDF)『札幌国語研究』8号、道教育大学国語国文学会、2003年、35-57頁。でまとめられている。
出典
参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、足立巻一、有馬頼底著『古寺巡礼京都2 相国寺』淡交社、1976年。
- 現行(『古寺巡礼京都8 相国寺』淡交社、2007年4月。ISBN 4-473-03358-9。)
- 竹村俊則『昭和京都名所図会5 洛中』駸々堂、1984年11月。ISBN 4-397-50131-9。
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』61号、朝日新聞社、1998年。
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』平凡社、2001年7月。ISBN 4-582-91012-2。
- 『角川日本地名大辞典 京都府』角川書店、1982年7月。
- 『国史大辞典』吉川弘文館。
- 桃崎有一郎; 山田邦和 編『室町政権の首府構想と京都-室町・北山・東山-』文理閣、2016年。ISBN 978-4-89259-798-5。