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乙骨太郎乙

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乙骨 太郎乙(おつこつ たろうおつ、天保13年(1842年) - 大正11年(1922年7月19日)は、幕末明治時代の洋学者翻訳者江戸生まれ。漢、蘭、英語を修得。名は、通称太郎乙、号は華陽

略歴

執筆した文章

  • 海外記事の紹介(『学芸志林』)
  • 漢訳『地質浅釈』の訓点書

エピソード

国歌「君が代」の歌詞の提案者とも言われている。[2][3]

國歌「君が代」の歌詞選出の由来

即ち我が國歌に「君が代」の歌詞が選出されたのは、偶然の成行から來たものと云ふべきである。

老生が海軍省在勤中、屡々海軍造兵總監、原田宗助より承はつた國歌に君が代を採用した由來を記し、各位の御参考に供したい。

明治二己巳年、英國の貴賓を饗應する爲、場所は舊濱御殿(今の濱離官)内廷遼館と定め、当時太政官代はあったがまだ藩政時代なので、軍務官に於て萬事取計はるゝこととなり、先づ各藩より英語に堪能なものを選び、接伴掛を命ぜられた。鹿児島藩よりは原田宗助、静岡藩よりは乙骨太郎乙その他數名であった。

貴賓の来朝が程ちかくなった頃、英國赤隊の軍樂隊長フェントンより接伴掛へ間合せがあった。愈々の場合、日英兩國の國歌を奏する必要がある、日本の國歌は如何なるもので宜しいかとのことである。ところが英語は相當素養はあるがまだ國歌といふものを承知してゐない。且つ本邦に於てはこれの規定など耳にもしなかったので、何れも顔見あはせ、どうしようかと協議の上ヽ軍務官に伺出る外致し方がないと決定し、原田接件掛は直ちに指揮を仰ぐ爲、軍務官に駈付けたところが、折柄何か幹部は重要会議中であった。念用の旨を申入れたところが、川村純義が縁端に立出られ、原田より國歌について英國樂長よりの申出の委細を聞き取られ、些と興奮の気味合で、

「おはん方を接伴掛としたのは、今度来朝あらせらるゝ英國貴賓饗應に付て萬事不都合なかんごつ取計らって貰ふ爲ぢや。それを何ぞや、そげん事を一々問合はせに来る必要はない。何ごつによらず掛員が相談の上、饗應については手落なくよか様に處辨し、御來著も間近き事ぢやからその邊を心得、手落ちのないやう取計うてよか」

と、ケンモホロロの挨拶で急いで会議室へ行ってしまった。

原田接伴掛はやむなく濱御殿へ歸り、その旨委細を報告したので掛員は頗る閉口。然らぱどうしようかと種々協議の末、乙骨掛員の發意で何か古歌中より選定しようといへぱ、一同はこれに同意した。幸ひ乙骨掛員の思ひ俘ぺたのは、舊幕府時代に徳川將軍家大奥に於て、毎年元旦に施行された「おさゞれ石」の儀式である。その時唱ふる歌に、

「君が代は干代に八千代にさゞれ石の いはほとなりて苔のむすまで」

とある。これなら陛下に對し奉り聖寿萬歳を寿ふぎまつることになつて、最もよろしいだろうと評議が一決した。(この儀式は國主大名にも同様の行事があったと云ふ) 而してその歌飼の唱へ方はどうしようかといふことになり、原田掛員の申出に、我が鹿児島に於て演奏せる琵琶歌中に蓬莱山と云ふ古歌があり、それにも又君が代の歌飼がある。今は猶豫すべき時ではない。僕がその節で唱ってみようと、「君が代」は云々とこれを演じた。早速フェントン樂長を招き數囘繰かへす内に、樂長は節々に注意し、作曲出来せりといって樂隊員を集め、その練習を開始した。これが即ち我が國歌「君が代」が世の中に出現した由来である。

海軍七十年史談「國歌「君が代」の歌詞選出の由来」

家族・親族

弟の乙骨亘。横浜鎖港談判使節団参加時

脚注

  1. ^ 二等敎授後一等敎授 乙骨太郞乙『沼津兵学校と其人材』(大野虎雄, 1939)
  2. ^ 海軍七十年史談』「国歌「君が代」の歌詞選出の由来」、339~343頁
  3. ^ 小伝 乙骨家の歴史―江戸から明治へ
  4. ^ 中村孝子「乙骨耐軒の『瀛奎律髄刊誤條記』について」『学芸国語国文学』第48巻、2018年、144-149頁、doi:10.24672/gkokugokokubun.48.0_144 
  5. ^ 『小伝乙骨太郎乙の歴史』永井菊枝、フィリア、2006、p216-
  6. ^ a b c 水口隆博「『杉田玄白の子孫』甲子園に出場していた――中京大中京の2年生左腕」『「杉田玄白の子孫」甲子園に出場していた 中京大中京の2年生左腕 ― スポニチ Sponichi Annex 野球スポーツニッポン新聞社、2015年8月21日。
  7. ^ a b 『上田敏研究: その生涯と業績』安田保雄 有精堂書店、1972, p7
  8. ^ a b 『小伝乙骨太郎乙の歴史』永井菊枝、フィリア、2006、p236-
  9. ^ 『人事興信録』38版「土方辰三」

参考文献

  • 永井菊枝『小伝 乙骨家の歴史―江戸から明治へ』2006年。ISBN 978-4-43-407741-8 
  • 沢鑑之丞『海軍七十年史談』文政同志社、1942年、339-343頁。NDLJP:1062905 

関連項目

外部リンク