コンテンツにスキップ

高家 (江戸時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。222.149.190.251 (会話) による 2007年9月4日 (火) 12:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

高家(こうけ)とは、江戸時代における、いわゆる名門・名家のことであり、江戸幕府の役職のひとつ。また、高家になれる旗本家。

江戸時代における高家は、幕府老中配下であり、幕府における儀式や典礼を司った。主に室町時代足利氏一門旧守護などの家柄の者が選ばれ代々、その職を継承した。のちに、天皇に仕える公家の次男三男で、徳川将軍家と縁があり江戸に下った者の子孫なども加わった。職務として、伊勢神宮日光東照宮久能山東照宮寛永寺鳳来山東照宮への代参、朝廷への使者、勅使院使の接待や勅院使饗応役大名への儀典指導など朝幕間の諸礼にあたった。これらの創設には名家好きの徳川家康の意向が働いたものと思われる。

江戸時代初期、第二代将軍徳川秀忠が、1615年に室町将軍家縁故である石橋家吉良家今川家の3家を登用したのに始まる。その後増加し、宝永9年(1780年)に26家となり、以後幕末まで変わらなかった。

高家のうち、役職に就いている者は「奥高家」、それ以外の非役の高家は「表高家」と呼ばれた。さらに奥高家から有職故実や礼儀作法に精通している三名を選び「高家肝煎」とした(俗に「三高」、“高家筆頭”は誤り)。天和3年(1683年)、大沢基恒畠山義里吉良義央の三名が最初の高家肝煎に選ばれた。なお、高家肝煎に選ばれる家は固定していない。また、後に高家見習という役職も設けられる。主として高家職にある者の嫡子から選ばれた。さらに、一時的に御側高家(西城高家、西の丸高家)という役職も設けられた。

諸大名に対して公式の場での礼儀作法を伝授するのも高家の役割であり、伝授に対して諸大名から金品の謝礼を受けることが慣習的に認められていた。こうした収入は格式は高くても(それに伴って経費も増加する)、実際の収入面では旗本に過ぎない高家にとっては貴重な収入源であった。

高家の役回りを巡っては、1701年元禄14年)高家肝煎のひとりであった吉良義央が、勅使馳走役の浅野長矩に恨みを買い、斬りつけられるという騒動まで起き、これにより元禄赤穂事件が起こり、高家のひとつである吉良家が改易となった。

高家は、朝廷への使者として天皇に拝謁する機会がしばしばある為、官位が高い者が多く、最高位は従四位上左近衛権少将まで昇る事が出来た(大沢基宿は、正四位下左近衛中将まで昇っているが、これは例外的である)。一部の国主外様大名や幕閣の地位にある譜代大名などをのぞく一般大名の官位が従五位下であるからその違いは歴然である。

忠臣蔵で有名な高家肝煎吉良上野介義央も領地の石高はわずか4200石ながら従四位上行左近衛権少将という破格の官位の持ち主であった。ちなみに赤穂藩浅野長矩は5万3000石を領する大名であるが、官位の上では従五位下内匠頭でしかなく、時の幕府最高権力者側用人甲府藩15万石を領した柳沢吉保でも従四位下左近衛権少将であり、官位の上では吉良義央の方が両者より上である。武家で高家肝煎より官位が高くなるのはおそらく徳川一門・彦根藩井伊家当主・加賀藩前田家当主・薩摩藩島津家当主ぐらいであろう。

もっとも高家なら必ず従四位上左近衛権少将の官位を手にすることができるわけではないことにも注意を要する。ここまで昇ることができるのは高家肝煎に就任した高家ぐらいである(吉良義央のような)。奥高家止まりの高家で見るとほとんどの場合は従五位下・従五位上・従四位下あたりで止まっており、官職も多くは侍従止まりである。さらに生涯表高家で終わってしまい、一度も内裏へ入る機会が無かった高家なども少なからず存在するが、こういう者は官位を与える必要が無いため、無位無官のままである。つまり役職につかないと官位がもらえない点は普通の旗本と同じである(一方大名は家督を継げば早世しない限り確実に官位を与えられる)。

なお高家当主は高家以外の他の幕府役職には就くことはできないのが原則である。高家以外の職に就任する場合は一度高家の列を離れて一般旗本に落ちてからその役職に就任しなければならない。

高家一覧

有馬家
公家久我通名の子堀川広益を初代とする。徳川家宣に召し出される。石高は500石。
一色家
公家唐橋在数の次男一色在通を初代とする。息子在種のときに改易されたという。家譜に基く慶長・元和期の言い伝えであり、信憑性は低い。石高は1000石。
今川家
清和源氏足利流。今川氏真の孫である今川直房を初代とする。吉良家との血縁関係により、比較的早い段階から高家として登用された。幕末期の当主今川範叙は若年寄に登用された。石高は1000石。
上杉家
清和源氏。畠山義春の次男上杉長員を初代とする。石高は1490石。1662年の上杉長貞の死亡に関し、宣旨紛失のために自殺したという風聞もある。
大沢家
藤原北家中御門家頼宗流。持明院基盛を祖とする。大沢基宿は徳川家康の将軍宣下に際し、式典のことをつかさどった。実質的な職務としての高家の始まりと考えられる。3550石。明治維新に際し、大沢基寿は石高を偽り堀江藩を立て、知藩事となった。しかし、廃藩置県後に石高を偽っていたことが発覚し、華族から士族へ降格される。なお、分家3家も一時的に高家職に登用された。
織田家
桓武平氏と称する。3家あり。
  1. 織田信長の七男織田信高の子孫、石高は2000石。
  2. 信長の十男織田信貞の子孫、石高は700石。
  3. 信長の次男織田信雄の子孫、石高は2700石。幕末期の当主織田信愛は海軍奉行並などに登用された。
京極家
宇多源氏佐々木流。室町幕府四職の京極家の子孫である宮津藩主・京極高国の嫡子・京極高規を初代とする。石高は1500石。
吉良家 (三河吉良氏)
清和源氏足利流。大沢家とともに江戸時代初期から高家として幕府に仕えた。4200石。代々高家の筆頭的な立場にあったが、かの元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)により改易に処されて絶家。
吉良家 (武蔵吉良氏)
清和源氏足利流。三河吉良家と祖が同じだが別系統である。もともとは吉良姓であったものの、前述の高家旗本吉良家に遠慮して蒔田姓に改める。義成は高家に取立てられ、息子義俊は吉良姓に復する。石高は1420石。
品川家
清和源氏今川家の傍流。今川氏真の次男品川高久を初代とする。1713年品川範増の早世により、石高は1500石から300石に減らされる。
武田家
清和源氏義光流。武田信玄の次男海野信親の子孫。武田信興を初代とする。徳川綱吉に召し出される。石高は500石。
長沢家
藤原氏。公家外山光顕の次男長沢資親を初代とする。徳川綱吉に召し出される。石高は1400石。
土岐家
清和源氏頼光流。2家あり。
  1. 土岐頼芸の次男頼次の子孫。1706年8月18日土岐頼泰は飲酒の上で傷害事件を起こし、改易される。石高は700石。
  2. 土岐頼芸の四男頼元の子孫。そのひ孫頼元は徳川家綱の治世に高家旗本に列した。石高は700石。
戸田家
公家六条有純の子戸田氏豊を初代とする。徳川家光に召し出される。石高は2000石。
中条家
藤原北家長良流。公家樋口信孝の次男中条信慶を初代とする。徳川家綱に召し出される。石高は1000石。
畠山家
室町幕府の三管領の一つである河内半国守護家畠山氏の子孫と能登畠山氏の子孫の2家がある。
  1. 畠山政国の孫・畠山貞政の子孫。石高は5000石。
  2. 畠山義春の三男義真の子孫。石高は3120石。
日野家
藤原北家日野流。江戸に下り家康に近侍した公家日野輝資の子日野資栄を初代とする。徳川家光に召し出される。石高は1530石。
前田家 (藤原氏)
藤原北家。春日局の義兄三条西実条の子孫で公家押小路家公音の次男前田玄長を初代とする。徳川綱吉に召し出される。石高は1400石。
前田家 (菅原氏)
菅原氏。前田家(藤原氏)とは別系統。公家高辻長量の次男前田長泰を初代とする。徳川綱吉に召し出される。石高は1000石。
宮原家
清和源氏足利流。古河公方足利高基の長男晴直の子孫(喜連川家とは別系統)。石高は1040石。なお、喜連川藩主喜連川氏春足利聡氏は宮原家から喜連川家に養子入りしている。
最上家
清和源氏。最上義光の子孫義智が一代限り高家に登用された。石高は5000石。その後、最上家は交代寄合となった。
由良家
清和源氏新田流とする。新田氏の子孫。本来は上野国新田庄横瀬郷を本拠とした小野姓横瀬氏であるとされる。由良貞長が旗本に取り立てられる。貞房の代に高家となる。石高は1000石。明治維新後に由良姓から新田姓に改めた。新田氏の嫡流を巡って交代寄合だった岩松家と争う。結局は岩松家が新田氏嫡流と認められ、岩松新田家が男爵に叙せられる。
横瀬家
由良貞房の次男横瀬貞顕を初代とする。石高は1000石。徳川綱吉に召し出される。
六角家
藤原北家日野流。公家烏丸光広の次男六角広賢を初代とする。徳川家綱に召し出される。石高は2000石。広賢広治広豊広満(実父は日野資鋪)・六角広豊広雄(実父は大沢定時)・広孝と続いた。

関連

外部リンク