風神雷神図

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敦煌莫高窟第249窟壁画(6世紀)
右上に風袋を掲げた風神、左上にリング状に太鼓を並べた雷神の姿形が見える。

風神雷神図(ふうじんらいじんず)とは、風神雷神を描いた絵画である。俵屋宗達筆の屏風画が有名で、琳派の絵師をはじめとして、多くの画家によって作られた模作や模写が多数ある。

モチーフ[編集]

風神雷神を一対として扱う像容は古くから仏教美術において見られ、すでにカニシカ王統治下のクシャーナ朝で風袋を掲げて疾駆する風神を描いたコインが作られている。敦煌石窟の壁画では風袋を携えた風神と太鼓を輪形に並べて捧持する雷神が描かれている。日本ではどちらも力士様に描かれ、三十三間堂の木造風神・雷神像は鎌倉時代の作で国宝である。

風神雷神図 (俵屋宗達)[編集]

『風神雷神図』
作者 俵屋宗達
制作年 寛永年間頃
素材 紙本金地着色
寸法 154.5 cm × 169.8 cm (60.8 in × 66.9 in)
所蔵 建仁寺京都府京都市

国宝。2曲1双、紙本金地着色。建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)。落款、印章はないが、宗達の真筆であることは確実視されている。製作年については17世紀前半の寛永年間、宗達最晩年の作とする説が有力だが、法橋印が無いことや、おおらかな線質が養源院の杉戸絵と共通することから元和末期(1624年)頃の作とする説もある。

宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都豪商歌人でもあった打它公軌(うだ きんのり ? - 正保4年(1647年))が、寛永14年からの妙光寺再興の際に製作を依頼したとされるが、それを示す直接の文書はなく、これ以外に制作事情や来歴についての史料は見つかっていない。後に建仁寺に渡ったという。

この絵は、画面の両端ぎりぎりに配された風神・雷神が特徴であり、これが画面全体の緊張感をもたらしているが、その扇形の構図は扇絵を元にしていると言われる。三島由紀夫はこれを評して、「奇抜な構図」と呼んだ。風袋を両手にもつ風神、天鼓をめぐらした雷神の姿は、北野天神縁起絵巻(弘本系)巻六第三段「清涼殿落雷の場」の図様からの転用であるが、三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘される。しかし、宗達は元来赤で描かれる雷神の色を白に、青い体の風神緑に変え、独創的に仕上げている。その深意について石川県立美術館の村瀬博春は、白は普賢菩薩の座としての白象を、青は文殊菩薩の座としての青獅子を暗示し、また中央に大きく金地の空間を空けた構図から、本作は毘盧遮那如来を中尊とし、文殊・普賢両菩薩を脇士とする「毘盧遮那三尊像」を見立てたものと解釈する。さらに村瀬は、出典では憤怒の形相で描かれる鬼神を哄笑させた意図についても、たとえば伝顔輝の「寒山・拾得図」(重文・東京国立博物館蔵)などを念頭に置きながら、同じく文殊・普賢両菩薩の化身とされる寒山・拾得を暗示し、観者に対するイメージの誘導を図ったとする。そして村瀬は、「毘盧遮那三尊像」を敢えて風神雷神の形象を用いて制作し、しかも最も重要な中尊を暗示する空間を、真っ二つに切断することとなる二曲一双屏風の画面形式を採用した宗達の深意を、『臨済録』「示衆」の一節「諸君、まともな見地を得ようと思うならば,人に惑わされてはならぬ。外においても内においても会った者はすぐ殺せ.仏に会えば仏を殺し,祖師に会えば祖師を殺し(中略)そうして始めて解脱することができ,なにものにも束縛されず,自在に突き抜けた生き方ができるのだ。」(『臨済録』 (岩波文庫)入矢義高訳注参照)に求める。『臨済録』では、具体的な形を持った仏や菩薩が否定されていることから、臨済思想の文脈において直接的な文殊・普賢の菩薩像は選択できない。そこで宗達は、平安時代以来法華経の見返に描かれる「釈迦説法図」において釈迦の威儀と慈悲を表象する手段として風神雷神が描かれてきた事実を踏まえ、この「風神雷神図」を制作した。「仏に会えば仏を殺し,祖師に会えば祖師を殺し」の教えは、臨済禅を学ぶ者が手引きとした『無門関』「趙州狗子」の公案の評唱にもあり、また晩年の宗達と親交があり、宗達の法橋叙任にも尽力したと思われる公卿で歌人の烏丸光廣が、この「趙州狗子」の公案をもとに7年の参究を経て悟りに至り、その境地を「投機偈」に表している。法橋叙任後の宗達は、禅をテーマとした作品を描いており、光廣との関係から推して宗達自身も禅を深く学んでいたことが考えられる。したがって、この「風神雷神図」作画の出立点は、光廣に倣い最晩年の宗達が「殺仏」の実践をもって自らの悟境を表明することであり、そこには千利休の養嗣子少庵を招くほどの高度な茶の湯の嗜みがあった宗達が、死に臨んで「祖仏共に殺す」と認めた利休の境地への深い共感もあったと村瀬は主張している。  禅の絵画といえば水墨が主流だが、宗達は金地濃彩というやまと絵の手法により、水墨では表現し得ない究極の禅思想を造形化した。法華宗の信徒と考えられる宗達は、善美を尽くした造形は功徳となると説く『法華経』の教えを実践し、また風神雷神であって風神雷神ではないという特異な造形を提示することによって、観者の固定化した認識を揺さぶり、何ものにもとらわれない思考の柔軟性の重要さを悟らせる。このように宗達の「風神雷神図」は、日本における禅の文化史から捉え直すべき作品といえる。 出典:村瀬博春 「俵屋宗達《風神雷神図》にみられるデザイン思考― 意味の新規性としての創造性」  Cognitive Studies, 17(3), 563-571. (Sep. 2010) /https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/17/3/17_3_563/_pdf 村瀬博春 「俵屋宗達と尾形光琳の思想的紐帯 : 『風神雷神図』と『紅白梅図』をめぐって」 美學 54(3), 15-28, 2003-12-31 http://ci.nii.ac.jp/els/110006265618.pdf


2008年7月に行われた洞爺湖サミットでは、会議場にこの複製が置かれた。

代表的な模写された作品[編集]

尾形光琳の屏風画[編集]

風神雷神図 (尾形光琳

重要文化財。2曲1双・紙本金地着色、東京国立博物館蔵。尾形光琳は、宗達の原画に忠実な模写を残した。当時、風神雷神図は建仁寺の末寺妙光寺にあったと解されているが、この寺は光琳の弟・乾山が営み、光琳のパトロン二条家の別荘にあった鳴滝窯とほど近く、乾山が陶法を学んだ野々村仁清の墓所もある。こうした巡り合わせも手伝って、光琳はこの名品に出会ったのだと考えられる。この邂逅は、およそ宝永末年(1710年)頃だと研究者たちは推測している。

光琳は、体躯や衣文線などの輪郭線を驚くべき忠実さでトレースしており、単に屏風を瞥見した程度ではなく、時間と手間を惜しまず正確に写し取った事が伺える。その反面、光琳はいくつかの改変を加えている。

  • 風神・雷神の姿が画面ぎりぎりではなく、全体像が画面に入るように配置されている。宗達が屏風の外に広がる空間を意識したのに対し、光琳は枠を意識しそこに綺麗に収まるよう計算しており、片隻だけ見ると光琳の方が構図がまとまっている。
  • 宗達の画では、両神の視線が下界に向けられているのに対し、光琳の画では両神がお互いを見るように視線が交差している。
  • 両神の顔が、やや柔和な印象を受け、卑俗な擬人化がより進んでいる。
  • 屏風全体の寸法が若干大きい(宗達画は各154.5x169.8cm、光琳画は各166.0x183.0cm)。二神の大きさは変わらないため、絵の中では光琳の風神雷神の方が相対的に小さく見える。
  • 細部の描写や彩色を変更、特に輪郭線や雲の墨が濃くなり、二神の動きを抑える働きをしている。

光琳の模写も傑作の部類に属するが、上記の相違点により、「宗達の画のほうが迫力がある」という者も多い。しかし、光琳の宗達に対する最良の回答は、風神雷神図の構図を借りつつも図様を梅に置き換えた、光琳の最高傑作である「紅白梅図屏風」だという事は留意すべきであるとも言える。その観点から、光琳による「風神雷神図」の改変は、宗達の深意を理解し共感した光琳が、同じく法華宗の信徒として観者の妄念や執着からの解脱を図る目的で、『法華経』「観世音菩薩普門品」に説かれる、観世音菩薩の大悲心を喩える雷のような威儀と、大きな慈悲心を喩える大空一面に覆う雲を暗示したものと石川県立美術館の村瀬博春は解釈する。それゆえに「紅白梅図屏風」も、謡曲「江口」をモティーフとして無常を象徴する水の流れを中央から切断し、観者に無常なるものへの執着を捨てよと諭すことによって、宗達の「風神雷神図」との最終的な付合としたのだと村瀬は主張する。 出典:村瀬博春「『俵屋宗達と琳派』への新たな視点-考えることの復権」 石川県立美術館 企画展「俵屋宗達と琳派」図録論文 2013年

酒井抱一の屏風画[編集]

文政4年(1821年)頃作。2曲1双・紙本金地着色。出光美術館蔵。酒井抱一は光琳の模写をさらに模した画を描いたが、宗達の画を知らず、光琳の画が模写でなく独自に描かれたものとして考えていたと見られている。このため、模写が重ねられたことでおこりがちな、写し崩れによる描写の不安定さが目立つ。光琳本と抱一本を比べても、トレースによる図様の相似関係が存在しないことから、抱一は当時一橋家にあった光琳本を拝見するのが精一杯で、じっくり時間をかけて研究・吸収できなかったと考えられる[1]。このことは、抱一が編集した『光琳百図』の後編最終図を飾る「風神雷神図」は、光琳画に忠実でなく、むしろ自分の屏風を縮小した感があることでも裏付けられる。抱一の風神雷神図は、宗達・光琳のものと比べると劣った作品だと理解されがちであるが、抱一の光琳に対する返歌は、元々光琳本の裏に描かれ、天上の神から風雨を受け、地上で揺らめく草花を描いた抱一の最高傑作、『風雨草花図屏風』(『夏秋草図屏風』)だということを考慮する必要がある。

その他[編集]

抱一の弟子鈴木其一が描いた「風神雷神図襖」(絹本着色、全8面、東京富士美術館蔵)が真っ先に挙げられる。元は、襖4面の両面に描かれていたが、平成5年に現在の状態に改装された。屏風4枚の幅は屏風二曲一双にほぼ等しく、表4面でニ神を完結させることも出来たはずだが、周囲に余白を取るためか其一は敢えて表裏に分けている。それゆえに其一の作品は、模写ではなく「風神雷神」という題材を借りてきただけに近く、それは後述する作品でも同様である。江戸期の作としては、伝狩野探幽筆「風神雷神図屏風」(紙本著色六曲一双、板橋区立美術館蔵)や葛飾北斎の「北斎漫画」に描かれた風神雷神の例がある。ただし、板橋区本は人物描写に写し崩れがあることから、探幽筆ではなく探幽本を原本としたずっと後の狩野派の絵師が描いたか、印章から探幽在世中に描かられた工房作品だと推測される[2]。また近年、宗達工房が用いた「伊年」印をもつ「雷神図屏風」(六曲一隻、クリーブランド美術館蔵)が発見されて、注目を集めた [3]

明治の後半になると、画家たちの間で琳派や宗達に学ぶ機運が高まり、今村紫紅(双幅、東京国立博物館)や安田靫彦(二曲一双、埼玉遠山記念館)、前田青邨(一面、愛媛セキ美術館)、冨田溪仙(四曲一双、大阪高島屋資料館)などが、近代的に解釈した個性的な風神雷神を描いている。

脚注[編集]

  1. ^ 抱一は、当時津軽家に秘蔵されていた「紅白梅図屏風」を、生涯で一度も見た形跡がない。江戸時代当時、古画の名品を探し、実際に鑑賞するのは至難の業だった事がわかる。
  2. ^ 展覧会図録 『生誕四百年記念 狩野探幽展』 東京都美術館、2002年10-12月、238頁
  3. ^ 國華』1298号より画像

参考資料[編集]

  • 展覧会図録「大琳派展 継承と変奏 尾形光琳生誕三五○周年記念」東京国立博物館 2008年
  • 展覧会図録「国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造」出光美術館、2006年

上記二つの展覧会では、宗達・光琳・抱一の風神雷神図が並んで展示された(大琳派展では其一も)。

関連項目[編集]