須賀龍郎
| 須賀 龍郎 すが たつろう | |
|---|---|
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1997年 | |
| 生年月日 | 1924年9月29日 |
| 出生地 |
関東州大連 出身:鹿児島県指宿市 |
| 没年月日 | 2015年1月16日(90歳没) |
| 死没地 | 鹿児島県鹿児島市 |
| 出身校 | 天理語学専門学校(現・天理大学) 卒業 |
| 前職 | 鹿児島県副知事 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 |
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| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1996年7月31日 - 2004年7月27日 |
須賀 龍郎(すが たつろう、1924年9月29日 - 2015年1月16日)は、日本の政治家。鹿児島県知事を2期8年務めた。
来歴
[編集]鹿児島県指宿市出身[1]。中国の旧関東州大連生まれで青年期のほとんどを中国で過ごす[2]。大連商業学校を経て[3]、1944年に天理語学専門学校(現・天理大学)を卒業。戦後一時期、シベリアに抑留された[2]。1948年、鹿児島県庁に入職する[2]。鹿児島県職員時代のうち、21年間も東京事務所に勤務するという特異なキャリアで、中央との強いパイプを築く[2]。東京事務所の次長、所長を歴任して、1975年に企画部長として県本庁に戻る[2]。1980年から総務部長を務め、1983年に退職[2]。鹿児島県開発公社(現 公益財団法人鹿児島県地域振興公社)副理事長を経て、翌1984年4月に[1]鎌田要人知事のもと県出納長に就任し、2期務める[2]。1992年、土屋佳照知事のもと鹿児島県副知事に就任[2]。
1996年1月に脳梗塞で倒れ執務不能となった土屋知事(同年6月26日辞職)の職務代理者を、同年5月15日から、知事選立候補のため副知事を辞職する7月6日まで務めた[4]。土屋の後任を選ぶ知事選挙に自民党、新進党、社会党、新党さきがけ、公明党の推薦を得て出馬して当選を果たす。初の鹿児島県庁職員生え抜きかつ非大学卒である知事となった[5][6]。
1999年には胃癌で入院したが、翌年の県知事選挙に出馬し、自民党、民主党、公明党、自由連合の推薦を得て再選。2004年の知事選には出馬せず、当時の現職知事では最高齢、最後の大正生まれの知事[7]として退任した。
県庁在任中から九州新幹線鹿児島ルート(2004年鹿児島中央 - 新八代間部分開業)の整備に尽力したほか、県知事在任中にはマリンポートかごしまの建設を進めた[8]。2002年就航鹿児島 - 上海間の定期航空路線の誘致活動にも尽くし、2003年には九州電力川内原子力発電所3号機の増設を巡って、「調査と増設は別」として、環境影響調査の受け入れを表明した[9]。
知事退任後の2004年(80歳)に鹿児島空港ビルディングの社長に就任。なお、前任者は高齢(80歳)を理由に退職している。2005年に旭日重光章を受章した[10]。2015年1月16日、脳梗塞のため鹿児島市医師会病院で死去[11]。90歳没。叙従四位[12]。
人物
[編集]座右の銘は「誠心誠意」。在任中に西千石町の山下小学校前の鹿児島県住宅供給公社再開発マンション最上階のフロアを抽選無しで購入したため権力の濫用との声もあった[13]。
脚注
[編集]- ^ a b 『日経地域情報』第5号、日経産業消費研究所、1986年6月、22頁。
- ^ a b c d e f g h 『月刊官界』第23巻第8号、行研、1997年8月、81-85頁。
- ^ 『天理語学専門学校一覧 昭和十九年度』(1945年4月)96頁
- ^ 鹿児島県告示第902号の2(知事の職務代理、平成8年5月14日発行「鹿児島県公報号外」所収、
原文)
- ^ “前鹿児島県知事 須賀龍郎さん死去”. 2015年1月17日閲覧。]鹿児島読売テレビ
- ^ 須賀は旧制専門学校卒としては唯一の鹿児島県知事であったほか、三反園訓(早稲田大学卒)を除くと、その他の鹿児島県知事経験者は、全員が東京大学(前身の東京帝国大学を含む)の卒業生である。
- ^ “【おくやみ】須賀龍郎氏 前鹿児島県知事”. 2015年1月18日閲覧。TOKYO Web 東京新聞
- ^ “元県知事の須賀龍郎さん死去”. 2015年1月17日閲覧。KTS鹿児島テレビニュース
- ^ “「県民に尽くした人生」 前知事・須賀龍郎さん死去”. 2015年1月25日閲覧。YOMIURI ONLINE 読売新聞
- ^ 「春の叙勲 中綬章以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2005年4月29日朝刊
- ^ “須賀龍郎前鹿児島県知事が死去”. 2015年1月17日閲覧。373news.com 南日本新聞社
- ^ 『官報』第6477号、平成27年2月23日
- ^ 「地方を殺すのは誰か」岩崎芳太郎 PHP出版 2009年