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近藤重雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近藤 重雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県石川郡浅川町
生年月日 (1942-10-15) 1942年10月15日(81歳)
身長
体重
173 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1971年 ドラフト5位
初出場 1972年
最終出場 1974年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

近藤 重雄(こんどう しげお、1942年10月15日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手

来歴・人物

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学校法人石川高等学校では、1960年夏の甲子園県予選で準決勝(東北大会代表決定戦)に進むが、双葉高に延長11回敗退。この予選では7試合64回を投げ、夏の地方大会記録となる110三振を奪った。

卒業後は日本コロムビアへ入社。1964年第35回都市対抗野球大会では決勝まで進出し、日本通運田中章と投げ合うが惜敗。準優勝に終わったが、大会での活躍ぶりが認められ久慈賞を受賞した。同年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された、社会人野球選抜と米国大学選抜との試合にも登板している。

その後、コーチも兼任しつつチームの中心選手として活動していたが、会社の業績が悪化して野球部の休部が決まり、1200人にも及ぶ希望退職勧告のリストにも入れられた状況の中、1971年プロ野球ドラフト会議ロッテオリオンズから5位指名を受け入団し、「あのときほどうれしかったことはありません。僕は子どももいたし、生活が心配でたまらなかったんで」と喜びのコメントをした[1][2]。指名時の年齢は当時のドラフト史上最高年齢の29歳1ヶ月であり、すでに結婚して1女をもうけていた(現在の最高齢記録は市村則紀)。初勝利は1972年5月10日の西鉄戦(東京球場)。先発・成田文男を6回からリリーフして以後の4回を2安打0点に抑え、打線の大量援護にも恵まれた。同年は2勝に終わるが、翌1973年は主に中継ぎとして6勝を記録。1974年には中継ぎ、抑えとしてチームのリーグ優勝に貢献。しかし中日ドラゴンズとの日本シリーズでは登板機会がなく、同年限り、プロ生活3年で引退した[1]

スリークォーター気味の投球フォームからスライダーシュートカーブを投げ分けた。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1972 ロッテ 29 4 0 0 0 2 3 -- -- .400 252 59.0 63 10 13 0 5 30 1 0 33 30 4.58 1.29
1973 41 3 0 0 0 6 4 -- -- .600 332 81.1 73 9 18 0 6 26 1 0 35 32 3.56 1.12
1974 37 0 0 0 0 2 2 2 -- .500 248 58.2 48 12 26 2 2 28 1 1 28 27 4.12 1.26
通算:3年 107 7 0 0 0 10 9 2 -- .526 832 199.0 184 31 57 2 13 84 3 1 96 89 4.03 1.21

背番号

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  • 15 (1972年 - 1974年)

脚注

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  1. ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、233ページ
  2. ^ 週べ60周年記念 西鉄の歴史的惨状/週べ回顧1972年編 - ベースボール・マガジン社2020年9月11日、10時14分配信。

関連項目

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