赤星鉄馬

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赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1883年明治16年)1月11日 - 1951年昭和26年)11月9日)は、日本の実業家である。泰昌銀行[1]頭取[2]

経歴[編集]

東京出身。海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男六女の長男)として生まれ、莫大な遺産を相続した[3][4]1901年(明治34年)に東京中学を卒業後渡米し、ローレンスビル高校(The Lawrenceville School)に入学。ペンシルベニア大学卒業後、1910年(明治43年)に27歳で帰国し、大阪の開業医の娘と結婚。政府関係者に随行して、夫婦で世界一周の新婚旅行をした。父親の死去にともない、家業を継ぐ。

1917年大正6年)、父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却。後に国宝となった物件が多数含まれたことから『赤星家売立』と呼ばれた。総額5,100,000円以上にのぼる高額の落札額を記録し、当時の最大規模の売立となった[5]

1918年(大正7年)8月8日文部省(現文部科学省)管轄としては日本で初めての学術財団となる財団法人啓明会を設立し、当時の金額で100万円を奨学資金として投資した。

泰昌銀行の頭取であったが、松方巌松方正義の長男)率いる十五銀行に経営権を譲渡し、1923年(大正12年)の時点では千代田火災保険の監査役だけが肩書きで、新聞では「一向事業という様な事業をしてない」と評された[2]

1923年の関東大震災麻布鳥居坂の邸宅が倒壊した。震災後は東京府北多摩郡武蔵野村(現在の武蔵野市吉祥寺の一角。成蹊大学前のカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会の敷地)に転居した。当初はアメリカから持ってきた住居を移築して住んでいた。鳥居坂の邸宅跡には国際文化会館が建てられている。

1925年(大正14年)、 公害や乱獲、ダム建設などでバランス[要出典]の崩れた河川湖沼の回復を目的に、味がよく釣って面白い魚という触れ込みで芦ノ湖コクチバス(ブラックバス)を移入した。移入の経緯を含めたブラックバスについて記した遺稿が、1996年に書籍として刊行されている。

1934年昭和9年)にアントニン・レイモンド設計の新居が完成する。この住居は今でも残っており、外観は修道院の門から見ることができる。邸宅の敷地は3万坪あり、その一部は成蹊大学となっている。

人物[編集]

趣味はの研究と釣りバラの栽培で、新橋花柳界では粋人として知られた。

家族[編集]

  • 父、赤星弥之助(1853-1904)は武器などの軍需品を扱う政府御用達貿易商として富を築いた実業家鹿児島県出身。磯長孫四郎の子で赤星家の養子となり、東京で金貸し業などの事業に関係し財をなした[6]。旧薩摩藩の海軍御用掛、神戸港の建設などで巨富を得た。平塚市立美術館に黒田清輝筆による肖像画が所蔵されている。
  • 母シズは樺山資紀の姪[7]。樺山は弥之助のいとこでもあった。弥之助は樺山の視察団に加わって欧米を回り、アームストロング社から大砲販売の独占販売代理店、すなわちエージェントになる権利を取得した。その後、クルップ社の仕事にも関わった。いわば「死の商人」の日本代理店であった[8]
  • 弟の赤星四郎と六郎ゴルフ界で活躍し、プロ育成やコース設計に尽力して日本の近代ゴルフの礎を築いた。二人とも鉄馬同様、アメリカの大学に留学歴がある(四郎は鉄馬と同じペンシルベニア大学)。
  • 叔父(父・弥之助の実兄)に長澤鼎[9]
  • 親戚に樺山愛輔(父・弥之助の母方の親族)

著書[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 1928年に昭和銀行に買収され、現在のみずほ銀行に連なる。
  2. ^ a b 関東関西の財閥鳥瞰 (一〜百五十七) - 大阪毎日新聞1923年(神戸大学新聞記事文庫、第五十三、五十四回を参照)
  3. ^ 赤星(彌之助)家大磯別邸 産業技術史資料データベース
  4. ^ 赤星(鉄馬)家赤坂邸 産業技術史資料データベース
  5. ^ 赤星弥之助静岡大学高松良幸研究室
  6. ^ 赤星弥之助日本人名大辞典
  7. ^ 『益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち』松田延夫、里文出版 (2002/11)
  8. ^ 久保田誠一 『日本のゴルフ100年』 日本経済新聞社 2004年 pp.72-73.
  9. ^ 『新薩摩学風土と人間』鹿児島純心女子大学国際文化研究センター、図書出版 南方新社, 2003

外部リンク[編集]