藤沢町立大籠小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤沢町立大籠小学校
校門前(2023年10月)
地図北緯38度48分5.65秒 東経141度23分9.93秒 / 北緯38.8015694度 東経141.3860917度 / 38.8015694; 141.3860917座標: 北緯38度48分5.65秒 東経141度23分9.93秒 / 北緯38.8015694度 東経141.3860917度 / 38.8015694; 141.3860917
過去の名称 大籠簡易小学校
大籠尋常高等小学校
大籠国民学校
大津保村立大籠小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大籠村( - 1889年)
大津保村(1889年 - 1955年)
藤沢町(1955年 - 2009年)
併合学校 上大籠尋常小学校
下大籠尋常小学校
設立年月日 1873年7月20日(開校)
1923年10月30日(両校を併合)
開校記念日 10月30日
閉校年月日 2009年3月31日
共学・別学 男女共学
分校 大籠簡易小学校分教場
1886年 - 1892年
学期 3学期制
校舎面積 1,780 m2[1]
所在地 029-3522
岩手県東磐井郡藤沢町大籠字大白1-3
(現:岩手県一関市藤沢町大籠字大白1-3)
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

藤沢町立大籠小学校(ふじさわちょうりつ おおかごしょうがっこう)は、岩手県東磐井郡藤沢町(現:一関市藤沢町)にあった公立小学校。略称は大小(おおしょう)。

概要[編集]

学制の発布により1873年に開校し、小学校統合再編計画により2009年をもって閉校した小学校である[2][3]。校名に「大籠」を冠していたのは、この地区一帯を指す「大籠」という地名が由来となっており、同地区の全域を学区としていた[4][5]。なお校名は、勅令や設置自治体の変遷などにより4回変更しており、最後の校名を名乗ったのは1955年のことである[2]。藤沢町の南東、宮城県との県境そばに立地し、準へき地校に指定されていた[6][7]

移転は4回している。1988年に大籠字大白地内に移転するまでは、大籠字鈴ケ沢の県道295号沿いに校舎を構えていた[2][8]。当地では一時期、進学先の中学校藤沢町立大籠中学校」を併設していたものの、2代目藤沢中学校への統合により15年間[注 1]の併設に終わった。

校歌は1963年に制定され、相原清行が作詞し、槻山寿橘が作曲した[2]。相原と槻山はどちらも当時学校に務めており、相原は県立高田高校、槻山は大籠中学校の校長だった[10]。歌は3部で構成される[2]

児童数は、高等科が中学校へ改組される直前(1946年度)に記録した274人[11]が最多である。その後は少子化過疎化によって減少の一途をたどり、1950年度に200人を、1972年度には100人を割った。2000年度以降に関しては、2000年度から2003年度にかけては町内の小学校では最も少ない児童数[12][13][14][15]だったが、2004年度からは減少が著しい保呂羽小学校と逆転し、町内6校中5番目の児童数となった[16][17][18][19][7]。児童数の低迷を受けて2000年度以降は複式学級が常態化し、閉校時まで解消することは無かった[注 2]

現在地への移転と同時に藤沢町立大籠保育所[注 3]を併設し、園との幼小連携教育を行っていた。藤沢町が進める連携教育の一環として、当校の校長は保育園の園長を兼務したり、児童は園児と日常的に遊ぶなどして交流を重ねていた[2][20]

閉校後、体育館は後述するコミュニティ体育館に転用されている。

地区との関わり[編集]

ふるさと学習の一環として、大籠地区にまつわる活動を複数取り組んでいた。

神楽の伝承活動

同地区で長らく継承されている郷土芸能「下大籠南部神楽」の伝承活動に取り組んでいた。下大籠南部神楽保存会から指導を受け、学校行事のみならず藤沢野焼祭[21]や岩手県青少年民俗芸能フェスティバルなどの場でも披露していた[2][22]

自然愛護活動

自然愛護活動を行う「大籠自然愛護少年団」は1975年の発足以降、様々な活動を展開していた。愛護少年団としては町内唯一の団体で、3年生から6年生の全員が所属し、毎年4月になると3年生が加入した。おもな活動は地区内の環境整備活動や自然保護活動で、一年を通じて行っていた[23][2][24]

そのほか、同地区で江戸時代に起きたキリシタンの殉教[25]や、明治時代まで行われていた製鉄[26]に関する学習も行われ、これらの活動を通して地区との関係を深めていた[2]

沿革[編集]

1873年に大籠字上野25番地に開校した、大籠簡易小学校が起源となる[27][28]。大籠地区では開校以前、「千早塾」と名無しの私塾が開設されており、地区内はもとより旧八沢村や旧藤沢村、宮城県登米市本吉町からも学びに通っていたという記録が残っている。学制発布を機に塾から公立学校へ移行し、千早塾があった地に当校は開校した[29]。開校した際、当校が位置する下大籠地区のほか、上大籠地区も学区としていたことから、上大籠からは比較的距離があるのに加えて道中橋の架かっていない箇所もあり、児童の足で通学するのは容易でなかった[30]。そこで上大籠に校舎を設けようとしたものの、先行きが不透明であることから先延ばしされた[8]。1886年、宮城県士族の佐藤寅三郎が教師として命じられ、上大籠の民家を借用して「大籠簡易小学校仮分教場」を開設したことで通学問題は解消した[31]。その後、第二次小学校令が発布されたのを機に当時の地区長が校舎を設けて下大籠小学校から独立しようと父兄に働きかけ、1892年4月に上大籠尋常小学校として独立を果たし、翌月には大籠字保登子35番地に校舎を建設した。一方の大籠簡易小学校は同年3月に下大籠尋常小学校へ移行し、大籠字左利沢5番地に移転している。その後両校はそれぞれの道を歩んだのち、1923年に大籠地区の中央部にあたる大籠字中鈴根2番地4(県道295号中鈴根橋付近)に設けた「大籠尋常高等小学校」へ統合された[8]。土地は地区民から提供され、付属建物は尋常小学校から移築した[31]

1926年から1938年にかけて、児童の増加にあわせて学級を4回増設した。1928年と1938年の増設時には空き部屋が無かったことから、裁縫室や控所を教室に改装した[32]。1940年には控所があった場所に新校舎を、1944年には新校舎西側に講堂をそれぞれ建設した[33]第二次世界大戦終戦後の1947年には学校教育法が施行され、校名を「大津保村立大籠小学校」へ改称したのと同時に大津保中学校大籠分校を併設した[34]

1955年4月、大津保村が旧藤沢町と合併して新制の藤沢町となり、「藤沢町立大籠小学校」に校名を改めた。同年8月には北へ500メートルほど進んだ大籠字鈴ケ沢1番地7に新校舎を設け、統合後初の移転をした[8]。移転直後には、藤沢町保呂羽地区に本校を置いていた大津保中学校を、大籠分校と置き換える形で併設した[35]。1956年、大津保中学校に代わって大籠中学校を併設した[36]。1960年には、山間部に立地していた関係で1級のへき地校に指定された[2][37]。その後は寄贈された校旗を樹立したり、学校長が手掛けた校歌を制定した。1971年からは統合により閉校した中学校の校舎を引き継ぎ、特別教室や郷土資料室などを設けた[8]

大籠字鈴ケ沢時代の空中写真(1977年11月)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

1988年、大籠字大白1番地3に新校舎を設け、統合後二度目となる移転を行った。同年には当校の移転と併せて大籠保育所が校庭脇に移転し、幼小連携教育を始めた。その後プールや各種設備を順次設置し、1997年からはフィジー共和国ナウソリにある小学校との絵画交流を始めた[2]

1990年代後半ごろからは、当校含めた藤沢町東部の各校で進行していた少子化や過疎化による児童数の減少と、それに伴って生じた複式学級編成の常態化が問題視されたことを踏まえ、2000年に小学校統合再編計画[38]が打ち出された[39][40]。当初の計画では、児童数27人で完全複式学級(=3学級編成)になる2006年度を目途に藤沢小学校(藤沢町藤沢)へ統合する予定だったが、PTAや地区住民との協議は平行線の状態が続いた[41][39][38]。最終的に、2004年度に藤沢小学校へ編入統合する予定だった保呂羽小学校、同じく複式学級を有していた徳田小学校、計画当初の統合先・藤沢小学校の計4校が新設統合することで議論がまとまった[41][42]

その後は新設校の場所選定[43]や校舎問題[44]などで統合時期が先延ばしとなったものの、2009年4月に新制「藤沢町立藤沢小学校」へ統合された[45][3]。135年の歴史に幕を閉じ、延べ2,000人ほどの児童を送り出した。同じくして大籠保育園も藤沢保育園への統合により閉園した[2]

閉校後、使用されなくなった各施設は大籠自治協議会(当時:大籠自治会協議会)が指定管理者となり、利活用されることになった[46][47]。体育館と校庭はコミュニティ施設に、校舎は一時的ではあるが東日本大震災発生後にボランティア活動者の宿泊拠点として提供された[46][48]。2020年には企業が校舎を活用したいとの応募があったため、一関市の管理に移行した。応募は承認されたが、新型コロナウイルスの感染拡大などを受けて実現には至らなかった[49][47]

年表[編集]

簡易小学校時代[編集]

  • 1873年明治6年)7月20日 - 大籠簡易小学校として開校[50]
  • 1886年(明治19年)11月 - 大籠簡易小学校仮分教場を開設。開設時の児童は約30人[50]

上大籠・下大籠分離時代[編集]

上大籠尋常小学校[編集]
下大籠尋常小学校[編集]
  • 1892年(明治25年)3月 - 大籠字左利沢に開校[50]
  • 1905年(明治38年)6月17日 - 補習科を開設[51]
  • 1911年(明治44年)4月 - 教員住宅を設置[51]
  • 1913年(大正2年)6月30日 - 校舎を増築[51]
  • 1918年(大正7年)7月9日 - 校舎を増築[51]

上・下大籠小学校併合後[編集]

閉校後[編集]

  • 2010年(平成22年) - 体育館を「大籠コミュニティ体育館」として開設[69]
  • 2011年(平成23年) - 東日本大震災のボランティア活動拠点に使用[48]
  • 2020年令和2年)3月31日 - 大籠コミュニティ体育館を廃止[70]
  • 2023年(令和5年) - 施設破損事件が発生[63]

大籠コミュニティ体育館[編集]

大籠コミュニティ体育館
校門側からの外観(2023年10月)
施設情報
正式名称 大籠コミュニティ体育館
用途 屋内スポーツ
コミュニティ
旧用途 藤沢町立大籠小学校体育館
管理運営 一関市[69]
大籠地区自治会協議会(2020年まで)[69]
構造形式 鉄骨構造[62]
延床面積 650 m2[62]
階数 1階[62]
高さ 平屋建て
竣工 1987年
所在地 029-3522
岩手県一関市藤沢町大籠字大白1-3
位置 北緯38度48分5.65秒 東経141度23分9.93秒 / 北緯38.8015694度 東経141.3860917度 / 38.8015694; 141.3860917 (大籠コミュニティ体育館)
テンプレートを表示

住民福祉の向上を図るべく、2010年にコミュニティ体育館として開設した[46]。指定管理者制度を導入し、大籠地区自治会協議会が管理運営を担っていた[69][47]

開設後は一般利用のほか地区のイベント[71]でも利用されたが、法人へ貸付するため2020年3月をもって廃止された[72][70]

教育目標[編集]

2008年度の教育目標[6]

心身ともにたくましく 人間性豊かな子どもの育成

具体目標[編集]

  • すすんで学ぶ子
  • おもいやりのある子
  • たくましい子

施設概要[編集]

主な施設を掲載。

移転後[編集]

  • 校舎(1,780 m2) - 鉄骨造2階建て[1]
  • 体育館(650 m2) - 鉄骨造平屋建て[62]
  • 校庭
  • プール(880 m2[1]
  • 庭園(学校園)
  • 教員住宅 - 大籠字大白1番地33に所在[65]

移転前[編集]

校地は17,087 m2だった。

  • 校舎
    • 新校舎(914 m2) - 1955年落成の木造2階建て。1階は普通教室2室のほか職員室や図書室などを、2階は普通教室4室を配置していた[73]
    • 旧校舎(937 m2) - 木造2階建ての元大籠中学校舎。1階は家庭科室や音楽室などを、2階は理科室や記念館を配置していた[74]
  • 体育館(417 m2
  • 校庭(8,315 m2
  • プール - 鋼板造
  • 学校林

出典[75]

児童・学級数[編集]

1875年度以降の児童数と学級数の推移。1875年度から1877年度、1923年度以降は毎年度掲載。

年度 児童数 増減 学級数 増減 出典 備考
1875(明治8)年度 53 不明 [76]
1876(明治9)年度 54 1 [77]
1877(明治10)年度 59 5 4 [78]
1881(明治14)年度 54 -5 不明 [79]
1907(明治40)年度 115 61 [80] 2校の合算値
1911(明治44)年度 129 14 [81]
1919(大正8)年度 145 16 4
1923(大正12)年度 154 9 4 0 [11][81] 統合、高等科開設
1924(大正13)年度 203 49 4 0 [81]
1925(大正14)年度 217 14 4 0
1926(大正15)年度 210 -7 5 1
1927(昭和2)年度 227 17 5 0
1928(昭和3)年度 233 6 6 1
1929(昭和4)年度 230 -3 6 0
1930(昭和5)年度 236 6 6 0
1931(昭和6)年度 230 -6 6 0
1932(昭和7)年度 243 13 6 0
1933(昭和8)年度 253 10 6 0
1934(昭和9)年度 254 1 6 0
1935(昭和10)年度 249 -5 6 0
1936(昭和11)年度 243 -6 6 0
1937(昭和12)年度 237 -6 7 1
1938(昭和13)年度 241 4 8 1
1939(昭和14)年度 244 3 8 0 [11][81]
1940(昭和15)年度 227 -17 8 0 [81]
1941(昭和16)年度 225 -2 7 -1
1942(昭和17)年度 237 12 7 0
1943(昭和18)年度 236 -1 6 -1
1944(昭和19)年度 255 19 6 0
1945(昭和20)年度 271 16 6 0
1946(昭和21)年度 274 3 7 1
1947(昭和22)年度 214 -60 6 -1 6・3制施行
1948(昭和23)年度 205 -9 6 0 [82]
1949(昭和24)年度 213 8 6 0 [81]
1950(昭和25)年度 198 -15 6 0
1951(昭和26)年度 193 -5 6 0 [83]
1952(昭和27)年度 186 -7 6 0
1953(昭和28)年度 174 -12 6 0
1954(昭和29)年度 171 -3 6 0
1955(昭和30)年度 164 -7 6 0
1956(昭和31)年度 168 4 6 0
1957(昭和32)年度 166 -2 6 0
1958(昭和33)年度 170 4 6 0
1959(昭和34)年度 168 -2 6 0
1960(昭和35)年度 170 2 6 0
1961(昭和36)年度 163 -7 6 0 [11][84]
1962(昭和37)年度 169 6 6 0 [85][83]
1963(昭和38)年度 163 -6 6 0 [83]
1964(昭和39)年度 158 -25 6 0
1965(昭和40)年度 155 -3 6 0
1966(昭和41)年度 145 -10 6 0
1967(昭和42)年度 137 -8 6 0
1968(昭和43)年度 122 -15 6 0
1969(昭和44)年度 126 4 6 0
1970(昭和45)年度 113 -13 6 0
1971(昭和46)年度 102 -11 5 -1 複式学級発生
1972(昭和47)年度 97 -5 5 0
1973(昭和48)年度 92 -5 5 0
1974(昭和49)年度 90 -2 5 0 [86]
1975(昭和50)年度 81 -9 6 1 [87]
1976(昭和51)年度 79 -2 6 0 [88]
1977(昭和52)年度 86 7 6 0 [89]
1978(昭和53)年度 84 -2 6 0 [90]
1979(昭和54)年度 90 6 6 0 [91]
1980(昭和55)年度 81 -9 6 0 [92]
1981(昭和56)年度 81 0 6 0 [93]
1982(昭和57)年度 89 8 6 0 [94]
1983(昭和58)年度 87 -2 6 0 [95]
1984(昭和59)年度 87 0 6 0 [96]
1985(昭和60)年度 83 -4 6 0 [97]
1986(昭和61)年度 80 -3 不明 [61]
1987(昭和62)年度 79 -1
1988(昭和63)年度 71 -8
1989(平成元)年度 65 -6 [65]
1990(平成2)年度 68 3
1991(平成3)年度 63 -5
1992(平成4)年度 59 -4
1993(平成5)年度 54 -5
1994(平成6)年度 54 0
1995(平成7)年度 61 7
1996(平成8)年度 54 -7
1997(平成9)年度 52 -2 [66]
1998(平成10)年度 46 -6
1999(平成11)年度 44 -2
2000(平成12)年度 43 -1 4 [12]
2001(平成13)年度 34 -9 4 0 [13]
2002(平成14)年度 36 2 4 0 [14]
2003(平成15)年度 36 0 4 0 [15]
2004(平成16)年度 44 8 4 0 [16]
2005(平成17)年度 41 -3 4 0 [17]
2006(平成18)年度 34 -7 3 -1 [18]
2007(平成19)年度 37 3 4 1 [19]
2008(平成20)年度 37 0 4 0 [7] 閉校

学区[編集]

  • 東磐井郡藤沢町(現:一関市藤沢町)
    • 大籠

出典[5]

進学先の中学校[編集]

公立中学校の場合。

  • 藤沢町立大津保中学校大籠分校(藤沢町大籠) - 1947年度から1955年度[35]
  • 藤沢町立大籠中学校(藤沢町大籠) - 1956年度から1968年度[36]
  • 藤沢町立藤沢中学校大籠校舎(藤沢町大籠) - 1969年度から1971年度[9]
  • 藤沢町立藤沢中学校(藤沢町藤沢) - 1972年度[注 4]以降[98]

アクセス[編集]

県道295号沿い、大籠字大白の高台に位置していた。

バス[編集]

自動車[編集]

  • 大籠簡易郵便局前のT字路交差点(大籠字下野在家)から県道295号経由で約5分
  • 県道295号・県道218号のT字路交差点(保呂羽字二本柳)から県道295号経由で約8分

周辺[編集]

  • 大籠コミュニティセンター
  • 県道295号
  • NTT東日本 新大籠電話交換所

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1969年4月(13年目)の名目統合以降は、藤沢中学校大籠校舎として2年間併設していた[9]
  2. ^ 詳細は「#児童・学級数」を参照
  3. ^ 1989年以降は藤沢町立大籠保育
  4. ^ 1971年11月に藤沢中学校の校舎を落成[64]するまでは、大籠校舎が進学先だった。その為、1970年度卒業生は大籠校舎へ進学した[9]

出典[編集]

  1. ^ a b c 旧大籠小学校”. 岩手県企業立地ガイド. 岩手県. 2011年3月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 広報ふじさわ No.663”. 藤沢町. pp. 4-5,16 (2009年4月15日). 2011年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  3. ^ a b c 笑顔あふれる学校に 新生・藤沢小が開校」『岩手日日』、2009年4月10日。2023年7月8日閲覧。オリジナルの2009年4月15日時点におけるアーカイブ。
  4. ^ 境目調査ファイルNo.1「旧藤沢町」”. いちのせき市民活動センター (2020年10月). 2023年7月8日閲覧。
  5. ^ a b 藤沢町立小、中学校に就学すべき者の学校の指定に関する規則”. 藤沢町. 2007年11月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  6. ^ a b 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 67.
  7. ^ a b c 学校一覧 平成20年度”. 岩手県. p. 38. 2023年7月8日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 151.
  9. ^ a b c d 『写真アルバム 一関・奥州の昭和』いき出版、2015年10月6日、266頁。ISBN 9784904614693 
  10. ^ 岩手・一関『ひがしいわいの校歌集』22曲目 藤沢町立大籠小学校校歌”. トーバン印刷 (2017年1月22日). 2023年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  11. ^ a b c d 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 159.
  12. ^ a b 千厩地域の小・中学校”. 岩手県内の学校一覧. 岩手県. 2001年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  13. ^ a b 千厩地域の小・中学校”. 岩手県内の学校一覧. 岩手県. 2002年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  14. ^ a b 千厩地域の小・中学校”. 岩手県内の学校一覧. 岩手県. 2003年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  15. ^ a b 学校一覧 平成15年度”. 岩手県. p. 34 (2003年). 2004年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  16. ^ a b 学校一覧 平成16年度”. 岩手県. p. 34 (2004年). 2004年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  17. ^ a b 学校一覧 平成17年度”. 岩手県. p. 36 (2005年). 2007年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  18. ^ a b 学校一覧 平成18年度”. 岩手県. p. 36. 2023年7月8日閲覧。
  19. ^ a b 学校一覧 平成19年度”. 岩手県. p. 36. 2023年7月8日閲覧。
  20. ^ 保育園長兼務の手当廃止<藤沢町>」『岩手日報』、2000年3月10日。2024年4月18日閲覧。オリジナルの2005年10月30日時点におけるアーカイブ。
  21. ^ 歴史”. 藤沢野焼祭 公式webサイト. 2023年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  22. ^ 一関市教育委員会学校教育課 編『シリーズ今、地域の学校がおもしろい 第3集 わたしたちが受けつぐ地域の行事・伝統芸能』一関市教育委員会、2013年2月28日、80頁。 
  23. ^ 広報ふじさわ No.652”. 藤沢町. p. 17 (2008年5月15日). 2011年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  24. ^ 広報ふじさわ No.616”. 藤沢町. p. 21. 2011年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月8日閲覧。
  25. ^ 弾圧に殉教、擁護...お寺に十字架、東北の潜伏キリシタンを語り継ぐ」『朝日新聞DIGITAL』、2022年10月17日。2023年7月8日閲覧。オリジナルの2022年10月17日時点におけるアーカイブ。
  26. ^ 「製鉄事業で「たたら風鈴」藤沢・大籠の保存会制作」『岩手日日』、2024年3月7日、11面。
  27. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 150.
  28. ^ 小学校の沿革”. 一関市ホームページ. 一関市. p. 4 (2016年9月20日). 2023年7月8日閲覧。
  29. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 41, 150.
  30. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 150–151.
  31. ^ a b c 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 151, 154.
  32. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 154–155.
  33. ^ a b c d e f g h i 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 155.
  34. ^ a b 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 155, 167.
  35. ^ a b c 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 167.
  36. ^ a b c 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 169.
  37. ^ a b 黒柳晴夫、村中知子、佐々木篤信、泉幽香、萩原敏朗、不確和彦「3. 市町村別へき地指定級別学校数(昭和46年度)」『学校統廃合の研究(資料) : 岩手県岩泉町の事例(第1部会〔地域社会と教育I〕)』1972年10月7日、15-16頁。 
  38. ^ a b 藤沢町議会広報編集特別委員会(編)「町内小学校再編計画はどうなっているか」(ZIP)『ふじさわ議会だより』第15号、2004年11月15日、19頁、2023年7月8日閲覧 
  39. ^ a b 藤沢町議会広報編集特別委員会(編)「地区の保護者らと合意に向けた話し合いを積み上げ良い学びを」(ZIP)『ふじさわ議会だより』第5号、2002年5月15日、8頁、2023年7月閲覧 
  40. ^ 広報ふじさわ No.664”. 藤沢町. p. 9 (2009年5月15日). 2011年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  41. ^ a b 藤沢・黄海中の統合決定ずれ込む」『岩手日報』、2001年2月18日。2023年7月8日閲覧。オリジナルの2001年3月6日時点におけるアーカイブ。
  42. ^ 4小学校、2年後統合へ 藤沢町」『岩手日報』、2007年9月19日。2023年7月9日閲覧。オリジナルの2007年10月18日時点におけるアーカイブ。
  43. ^ 藤沢町議会広報編集特別委員会(編)「小学校の統合は」(ZIP)『ふじさわ議会だより』第23号、藤沢町議会、2006年11月15日、13頁、2023年11月11日閲覧 
  44. ^ 藤沢町議会広報編集特別委員会(編)「学校統合での施設整備は」(ZIP)『ふじさわ議会だより』第24号、2007年2月15日、8頁、2023年7月8日閲覧 
  45. ^ 藤沢町議会広報編集特別委員会(編)「小学校の再編統合は」(ZIP)『ふじさわ議会だより』第21号、藤沢町議会、2006年5月15日、11頁、2023年11月11日閲覧 
  46. ^ a b c 藤沢町議会広報編集特別委員会(編)「廃校の体育館と校庭をコミュニティ施設に位置付け」(ZIP)『ふじさわ議会だより』第37号、2010年5月15日、5頁、2023年7月8日閲覧 
  47. ^ a b c 旧小学校敷地の草刈りに汗 藤沢・大籠自治協【一関】」『岩手日日』、2023年9月17日、15面。2023年9月17日閲覧。オリジナルの2023年10月8日時点におけるアーカイブ。
  48. ^ a b 閉校小学校が震災支援拠点 藤沢の旧大籠小」『岩手日日』、2011年6月28日。2023年7月8日閲覧。オリジナルの2011年6月29日時点におけるアーカイブ。
  49. ^ 旧大籠小を事業活用 市が貸し付け可否検討【一関】」『岩手日日』、2021年1月29日。2023年7月8日閲覧。
  50. ^ a b c d e f g 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 154.
  51. ^ a b c d e f g 大籠小学校創立百周年記念行事実行委員会 1973, p. 10.
  52. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 557.
  53. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 154, 191.
  54. ^ 文部省社会教育局『青年学校名簿 昭和11年4月末日現在』文部省社会教育局、1937年3月30日、145頁。doi:10.11501/1278127https://dl.ndl.go.jp/pid/1278127/1/812023年11月9日閲覧 
  55. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 191.
  56. ^ a b 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 7.
  57. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 151, 155.
  58. ^ 大籠小学校創立百周年記念行事実行委員会 1973, p. 11.
  59. ^ 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 8.
  60. ^ a b c 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 156.
  61. ^ a b c d e f g 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 10.
  62. ^ a b c d e 一関市公共施設白書 第4章”. 一関市. p. 53 (2016年11月10日). 2023年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  63. ^ a b 施設破損相次ぐ 市が被害届 花泉野球場トイレ扉、藤沢・旧大籠小ガラス【一関】」『岩手日日』、2023年7月1日、11面。2023年7月8日閲覧。
  64. ^ a b 町づくりの歩み”. 藤沢町ホームページ. 藤沢町. 2007年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  65. ^ a b c d e f g 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 11.
  66. ^ a b 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 12.
  67. ^ 「万感胸に閉校式 一関・室根、藤沢の4小学校」『岩手日日』、2009年3月21日。
  68. ^ a b 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 14.
  69. ^ a b c d 指定管理者制度導入施設一覧表(平成31年4月1日現在)”. 一関市. p. 10 (2020年2月5日). 2023年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  70. ^ a b 公の施設の設置状況 令和2年4月1日現在”. 一関市. p. 4 (2020年12月7日). 2023年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  71. ^ 広報いちのせき「I-Style」藤沢版 No.191”. 一関市. p. 4 (2013年9月1日). 2023年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  72. ^ 一関市公共施設等総合管理計画第1期中期計画に基づく先導的な取組による施設保有の見直し方針”. 一関市. p. 19 (2021年9月). 2023年6月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。
  73. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 155, 157.
  74. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, p. 151,157.
  75. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 156–157.
  76. ^ 日本帝国文部省年報 第3 明治8年 第2冊』文部省、1875年、937頁https://dl.ndl.go.jp/pid/809146/1/4712024年1月24日閲覧 
  77. ^ 日本帝国文部省年報 第4 明治9年 第2冊』文部省、1009頁。doi:10.11501/809148https://dl.ndl.go.jp/pid/809148/1/5062024年1月24日閲覧 
  78. ^ 日本帝国文部省年報 第5 明治10年 第2冊』文部省、1048頁。doi:10.11501/809150https://dl.ndl.go.jp/pid/809150/1/5262024年1月24日閲覧 
  79. ^ 学校幼稚園書籍館博物館一覧表 明治14年』文部省、1882年、867頁。doi:10.11501/812644https://dl.ndl.go.jp/pid/812644/1/4422024年1月24日閲覧 
  80. ^ 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 2009, p. 6.
  81. ^ a b c d e f 大籠小学校創立百周年記念行事実行委員会 1973, p. 26.
  82. ^ 藤沢町史編纂委員会 1981, pp. 155, 159.
  83. ^ a b c 大籠小学校創立百周年記念行事実行委員会 1973, p. 27.
  84. ^ 文化研究社編集部 編『全国学校名鑑 昭和37年版』文化研究社、1962年4月10日、84頁。doi:10.11501/3043687 
  85. ^ 文化研究社編集部 編『全国学校名鑑 昭和38年版』文化研究社、1963年4月10日、84頁。doi:10.11501/3043688 
  86. ^ 福武書店『全国学校名鑑 昭和50年版』福武書店、1974年10月1日、807頁。doi:10.11501/12244266 
  87. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和50年度』岩手県教育委員会、1975年8月、46頁。doi:10.11501/12114708 
  88. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和51年度』岩手県教育委員会、1976年8月、52頁。doi:10.11501/12109822 
  89. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和52年度』岩手県教育委員会、1977年、48頁。doi:10.11501/12111553 
  90. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和53年度』岩手県教育委員会、1978年、48頁。doi:10.11501/12111552 
  91. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和54年度』岩手県教育委員会、1979年、50頁。doi:10.11501/12111551 
  92. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和55年度』岩手県教育委員会、1980年、56頁。doi:10.11501/12111550 
  93. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和56年度』岩手県教育委員会、1981年、98頁。doi:10.11501/12111632 
  94. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和57年度』岩手県教育委員会、1982年、96頁。doi:10.11501/12111631 
  95. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和58年度』岩手県教育委員会、1983年、94頁。doi:10.11501/12111633 
  96. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和59年度』岩手県教育委員会、1984年、96頁。doi:10.11501/12111494 
  97. ^ 岩手県教育委員会『学校一覧 昭和60年度』岩手県教育委員会、1985年、96頁。doi:10.11501/12111488 
  98. ^ 中学校の沿革”. 一関市. p. 4 (2023年5月24日). 2023年6月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月8日閲覧。

参考文献[編集]

  • 大籠小学校閉校記念事業実行委員会 編『大籠小学校閉校記念誌「大峰」』大籠小学校閉校記念事業実行委員会、2009年3月20日。 
  • 大籠小学校創立百周年記念行事実行委員会 編『百年史 大籠小のあゆみ』藤沢町立大籠小学校、1973年11月11日。 
  • 藤沢町史編纂委員会 編『藤沢町史 本編 下』藤沢町、1981年3月25日。doi:10.11501/9570523NCID BN04810187 

関連項目[編集]