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[[ファイル:Kyogoku eki.jpg|right|thumb|1976年の京極駅と周囲約750m範囲。左上が倶知安方面。右下の上は廃線となって軌道跡が残る支線の脇方方面。右下の下が本線の伊達紋別方面。{{国土航空写真}}]] |
[[ファイル:Kyogoku eki.jpg|right|thumb|1976年の京極駅と周囲約750m範囲。左上が倶知安方面。右下の上は廃線となって軌道跡が残る支線の脇方方面。右下の下が本線の伊達紋別方面。{{国土航空写真}}]] |
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'''京極駅'''(きょうごくえき)は、[[北海道]]([[後志支庁]])[[虻田郡]][[京極町]]字京極に |
'''京極駅'''(きょうごくえき)は、[[北海道]]([[後志支庁]])[[虻田郡]][[京極町]]字京極にかつて存在した、[[日本国有鉄道]](国鉄)[[胆振線]]の[[鉄道駅|駅]]([[廃駅]])である{{R|停車場}}。[[電報略号 (鉄道)|電報略号]]は'''ケフ'''。胆振線の廃止([[廃線]])に伴い、[[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]に廃駅となった{{R|官報86}}。 |
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[[1980年]](昭和55年)9月まで運行されていた[[急行列車|急行]]「[[胆振線#急行「いぶり」|いぶり]]」の停車駅であった。 |
[[1980年]](昭和55年)9月まで運行されていた[[急行列車|急行]]「[[胆振線#急行「いぶり」|いぶり]]」の停車駅であった。 |
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== 駅構造 == |
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廃止時点で、[[単式ホーム]]・[[島式ホーム]] |
廃止時点で、[[単式ホーム]]1面・[[島式ホーム]]1面と3線を有する[[地上駅]]で、[[列車交換]]可能な[[交換駅]]であった<ref name="bunken1983">[[宮脇俊三]]・[[原田勝正]](共編)『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』[[小学館]]、[[1983年]]。p.94</ref>。互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と対向ホーム南東側を結んだ[[踏切#構内踏切|構内踏切]]で連絡した<ref name="bunken1983"/>。駅舎側ホーム(西側)が下りの1番線、島式ホーム(東側)駅舎側が上りの2番線、外側が3番線(但し1983年(昭和58年)時点では[[停車場#側線|側線]]扱い)となっていた<ref name="bunken1983"/>。そのほか、1番線の倶知安方から分岐し駅舎横までの行き止まりの側線を1線有していた<ref name="bunken1983"/>。 |
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1970年(昭和45年)までは、[[脇方駅]]に至る支線の接続駅で、駅の南方で分岐していた。 |
1970年(昭和45年)までは、[[脇方駅]]に至る支線の接続駅で、支線は駅の南方で分岐していた。 |
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[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]となっており、駅舎は構内の南西側に位置し単式ホームに接していた<ref name="bunken1983"/>。 |
[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]となっており、駅舎は構内の南西側に位置し単式ホームに接していた<ref name="bunken1983"/>。 |
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== 利用状況 == |
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* 1981年度(昭和56年度)の1日乗降客数は254人<ref name="bunken1983"/>。 |
* 1981年度(昭和56年度)の1日当たりの乗降客数は254人<ref name="bunken1983"/>。 |
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== 駅周辺 == |
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== 歴史 == |
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* [[1919年]](大正8年)[[11月15日]] - '''[[鉄道省|鉄道院]]京極軽便線'''倶知安駅 - 当駅間開通に伴い開業。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]{{R|停車場}}。 |
* [[1919年]](大正8年)[[11月15日]] - '''[[鉄道省|鉄道院]]京極軽便線'''倶知安駅 - 当駅間開通に伴い、開業。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]{{R|停車場}}。 |
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* [[1920年]](大正9年)[[7月15日]] - 当駅 - [[脇方駅]]間延伸開通(京極軽便線全通)に伴い中間駅となる。 |
* [[1920年]](大正9年)[[7月15日]] - 当駅 - [[脇方駅]]間延伸開通(京極軽便線全通)に伴い、中間駅となる。 |
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* [[1922年]](大正11年)[[9月2日]] - |
* [[1922年]](大正11年)[[9月2日]] - 路線名を'''京極線'''に改称、それに伴い同線の駅となる。 |
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* [[1928年]](昭和3年)[[10月21日]] - '''胆振鉄道'''当駅 - 喜茂別駅(初代)間開通。 |
* [[1928年]](昭和3年)[[10月21日]] - '''胆振鉄道'''当駅 - 喜茂別駅(初代)間開通。 |
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* [[1941年]](昭和16年)[[9月27日]] - 胆振鉄道が'''[[胆振縦貫鉄道]]'''に譲渡(合併)される。 |
* [[1941年]](昭和16年)[[9月27日]] - 胆振鉄道が'''[[胆振縦貫鉄道]]'''に譲渡(合併)される。 |
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* [[1943年]](昭和18年)7月 - 駅舎改築{{Sfn|京極町史編纂委員会|1977|p=824}}。 |
* [[1943年]](昭和18年)7月 - 駅舎改築{{Sfn|京極町史編纂委員会|1977|p=824}}。 |
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* [[1944年]](昭和19年)[[7月1日]] - 胆振縦貫鉄道が[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により国有化、 |
* [[1944年]](昭和19年)[[7月1日]] - 胆振縦貫鉄道が[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により国有化、路線名を'''胆振線'''に改称{{R|停車場}}。同時に京極線を胆振線に編入。それに伴い同線の駅となる。転車台廃止{{Sfn|京極町史編纂委員会|1977|p=823}}。 |
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* [[1970年]](昭和45年)[[11月1日]] - 当駅 - 脇方駅間の支線が廃止される。 |
* [[1970年]](昭和45年)[[11月1日]] - 当駅 - 脇方駅間の支線が廃止される。 |
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* [[1980年]](昭和55年)[[5月15日]] - 貨物取扱い廃止{{R|停車場}}。 |
* [[1980年]](昭和55年)[[5月15日]] - 貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 |
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* 時期不詳{{refnest|group="注"|name="ekigyoumu"|1981年(昭和56年)4月時点では業務委託駅であった<ref>『コロタン文庫36 国鉄駅名全百科 56.4訂補版』小学館、[[1981年]]、p.60</ref>。}} - [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託]]化。 |
* 時期不詳{{refnest|group="注"|name="ekigyoumu"|1981年(昭和56年)4月時点では業務委託駅であった<ref>『コロタン文庫36 国鉄駅名全百科 56.4訂補版』小学館、[[1981年]]、p.60</ref>。}} - [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託]]化。 |
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* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]] - [[チッキ|荷物]]取扱い廃止{{R|停車場}}。 |
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]] - [[チッキ|荷物]]の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 |
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* [[1986年]](昭和61年)11月1日 - 胆振線の |
* [[1986年]](昭和61年)11月1日 - 胆振線の全線廃止に伴い、廃駅となる{{R|官報86}}。 |
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== 駅跡 == |
== 駅跡 == |
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2001年(平成13年)時点では、当駅の跡地は[[農業協同組合|農協]]の貯蔵施設の敷地となっており<ref name="bunken2001H">宮脇俊三(編著)『鉄道廃線跡を歩くVIII』[[JTBパブリッシング]]<JTBキャンブックス>、[[2001年]]、pp.68-70</ref>、2010年(平成22年)時点でも同様であった<ref name="bunken2010H">[[今尾恵介]](編著)『新 鉄道廃線跡を歩く1 北海道・北東北編』JTBパブリッシング、[[2010年]]、pp.152-154</ref>。 |
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また2001年(平成13年)時点では当駅跡から倶知安方に行った所に[[トンネル]]の石積みの坑口がコンクリートで封鎖されながらも残存しており<ref name="bunken2001H"/>、2010年(平成22年)時点<ref name="bunken2010H"/>、2011年(平成23年)時点でも同様であった<ref name="bunken2011H">本久公洋『北海道の鉄道廃線跡』[[北海道新聞社]]、[[2011年]]、p.204</ref>。このトンネルの名は「ガル川隧道」であった<ref name="bunken2011H"/>。 |
2021年6月20日 (日) 07:06時点における版
京極駅 | |
---|---|
きょうごく Kyōgoku | |
所在地 | 北海道虻田郡京極町字京極 |
所属事業者 | 日本国有鉄道(国鉄) |
電報略号 | ケフ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 2面3線 |
開業年月日 | 1919年(大正8年)11月15日[1] |
廃止年月日 | 1986年(昭和61年)11月1日[2] |
乗入路線 2 路線 | |
所属路線 | 胆振線 |
キロ程 | 69.6 km(伊達紋別起点) |
◄東京極 (1.2 km) (3.0 km) 北岡► | |
所属路線 | 胆振線(脇方支線) |
キロ程 | 0.0 km(京極起点) |
(7.1 km) 脇方► | |
備考 | 胆振線廃線に伴い廃駅[1] |
京極駅(きょうごくえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡京極町字京極にかつて存在した、日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である[1]。電報略号はケフ。胆振線の廃止(廃線)に伴い、1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった[2]。
1980年(昭和55年)9月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。
駅構造
廃止時点で、単式ホーム1面・島式ホーム1面と3線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった[3]。互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と対向ホーム南東側を結んだ構内踏切で連絡した[3]。駅舎側ホーム(西側)が下りの1番線、島式ホーム(東側)駅舎側が上りの2番線、外側が3番線(但し1983年(昭和58年)時点では側線扱い)となっていた[3]。そのほか、1番線の倶知安方から分岐し駅舎横までの行き止まりの側線を1線有していた[3]。
1970年(昭和45年)までは、脇方駅に至る支線の接続駅で、支線は駅の南方で分岐していた。
業務委託駅となっており、駅舎は構内の南西側に位置し単式ホームに接していた[3]。
駅名の由来
1895年(明治28年)12月、旧丸亀藩主家の京極高徳子爵によって京極農場がこの地に開かれ、この農場を中心に周辺に沢山の開拓農場が開かれて徐々に発展してきたため、1903年(明治36年)に北海道庁が新市街地として京極農場の一部返還を求め、通称「東倶知安」市街地が形成された[4]。1910年(明治43年)に倶知安村からの分村の際にこの市街地名を冠して東倶知安村となったが、行政的には市街地や当駅付近は字ワッカタサップであった[5]。一方、当駅は地名とは全く無関係に、本村の先駆者である京極子爵の名前を採って「京極駅」となったが、このために一部の村民から「村長と京極農場管理人の専横である」との強烈な反対運動が起こっている[6]。後に東倶知安駅(後の東京極駅)が開設されると、その駅が村の中心地と誤解して当駅で乗り換えて向かう人が多くなった等、混乱をきたしていたため、1940年(昭和15年)になって村名を京極村と改正した[7]。
利用状況
- 1981年度(昭和56年度)の1日当たりの乗降客数は254人[3]。
駅周辺
市街地のはずれの、元讃岐丸亀藩主家京極子爵家の農場内に位置した[3]。
- 北海道道821号京極停車場線
- 北海道道784号黒橋京極線[8]
- 国道276号(尻別国道)[8]
- 京極町役場
- 倶知安警察署京極駐在所
- 京極郵便局
- 京極町立京極小学校
- 京極町総合体育館
- 噴き出し公園 - 駅から西に約2km。「日本一の水」と呼ばれた名水(地下水)が湧出している[3]。現在は道の駅名水の郷きょうごくが開設されている。
- 北海道信用金庫京極支店
- ようてい農業協同組合(JAようてい)京極支所
- 尻別川[8]
- 春日渓谷 - 駅から南東に約5km。ペーペナイ川にあり、紅葉やツツジの名所でイワナ釣りができる[3]。別名・朝日渓谷。
- 羊蹄山(蝦夷富士) - 駅の西[8]。
- 道南バス「京極中央」停留所
歴史
- 1919年(大正8年)11月15日 - 鉄道院京極軽便線倶知安駅 - 当駅間開通に伴い、開業。一般駅[1]。
- 1920年(大正9年)7月15日 - 当駅 - 脇方駅間延伸開通(京極軽便線全通)に伴い、中間駅となる。
- 1922年(大正11年)9月2日 - 路線名を京極線に改称、それに伴い同線の駅となる。
- 1928年(昭和3年)10月21日 - 胆振鉄道当駅 - 喜茂別駅(初代)間開通。
- 1941年(昭和16年)9月27日 - 胆振鉄道が胆振縦貫鉄道に譲渡(合併)される。
- 1943年(昭和18年)7月 - 駅舎改築[9]。
- 1944年(昭和19年)7月1日 - 胆振縦貫鉄道が戦時買収により国有化、路線名を胆振線に改称[1]。同時に京極線を胆振線に編入。それに伴い同線の駅となる。転車台廃止[10]。
- 1970年(昭和45年)11月1日 - 当駅 - 脇方駅間の支線が廃止される。
- 1980年(昭和55年)5月15日 - 貨物の取り扱いを廃止[1]。
- 時期不詳[注 1] - 業務委託化。
- 1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取り扱いを廃止[1]。
- 1986年(昭和61年)11月1日 - 胆振線の全線廃止に伴い、廃駅となる[2]。
駅跡
2001年(平成13年)時点では、当駅の跡地は農協の貯蔵施設の敷地となっており[12]、2010年(平成22年)時点でも同様であった[13]。
また2001年(平成13年)時点では当駅跡から倶知安方に行った所にトンネルの石積みの坑口がコンクリートで封鎖されながらも残存しており[12]、2010年(平成22年)時点[13]、2011年(平成23年)時点でも同様であった[14]。このトンネルの名は「ガル川隧道」であった[14]。
隣の駅
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 石野哲(編)『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』JTB、1998年、859頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
- ^ a b c “日本国有鉄道公示第109号”. 官報. (1986年10月14日)
- ^ a b c d e f g h i 宮脇俊三・原田勝正(共編)『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』小学館、1983年。p.94
- ^ 京極町史 p111-155
- ^ 京極町史 p167-168
- ^ 京極町史 p200-203
- ^ 京極町史編纂委員会 1977, pp. 39, 155, 167, 353.
- ^ a b c d 『北海道道路地図 改訂版』地勢堂、1980年、p.6
- ^ 京極町史編纂委員会 1977, p. 824.
- ^ 京極町史編纂委員会 1977, p. 823.
- ^ 『コロタン文庫36 国鉄駅名全百科 56.4訂補版』小学館、1981年、p.60
- ^ a b 宮脇俊三(編著)『鉄道廃線跡を歩くVIII』JTBパブリッシング<JTBキャンブックス>、2001年、pp.68-70
- ^ a b 今尾恵介(編著)『新 鉄道廃線跡を歩く1 北海道・北東北編』JTBパブリッシング、2010年、pp.152-154
- ^ a b 本久公洋『北海道の鉄道廃線跡』北海道新聞社、2011年、p.204
参考文献
- 京極町史編纂委員会『京極町史』京極町、1977年。
関連項目
- 日本の鉄道駅一覧
- 特定地方交通線
- 男はつらいよ 旅と女と寅次郎 - 当駅とその周辺がエピローグの舞台となった。