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彼は生物学を追求するために1937年に[[アメリカ合衆国]]へ移住し、[[カリフォルニア工科大学]]で[[ショウジョウバエ]]の[[遺伝学]]の研究を始めた。また彼は、[[細菌]]や[[ウイルス]]([[バクテリオファージ]])の研究も行った。1939年、彼はE.L.エリスと共著でバクテリオファージの成長についての論文を書き、その中でウイルスは細胞でできた生物とは違って、「一段階」で複製することを示した。
彼は生物学を追求するために1937年に[[アメリカ合衆国]]へ移住し、[[カリフォルニア工科大学]]で[[ショウジョウバエ]]の[[遺伝学]]の研究を始めた。また彼は、[[細菌]]や[[ウイルス]]([[バクテリオファージ]])の研究も行った。1939年、彼はE.L.エリスと共著でバクテリオファージの成長についての論文を書き、その中でウイルスは細胞でできた生物とは違って、「一段階」で複製することを示した。


彼は1941年にメアリー・ブルースと結婚し、4人の子供をもうけた。ジョナサンデルブルックは弁護士をしている。、マックスデルブルックの子供の一人のジョナサンデルブルックは、コロンビア大学の大学院の博士課程で文化人類学を先攻していた当時博士号を得る際に日本語教師をしていた(この田村ゆりが博士課程の際に日本語教師の仕事を紹介したのは田村ゆりの叔母で、カリフォルニア大学サンフランシスコ校出身の三田村康子であり、三田村康子の旦那である、
彼は1941年にメアリー・ブルースと結婚し、4人の子供をもうけた。ジョナサンデルブルックは現在、弁護士をしている。、マックスデルブルックの子供の一人のジョナサンデルブルックは、コロンビア大学の大学院の博士課程で文化人類学を先攻していた当時博士号を得る際に日本語教師をしていた(この田村ゆりが博士課程の際に日本語教師の仕事を紹介したのは田村ゆりの叔母で、カリフォルニア大学サンフランシスコ校出身の三田村康子であり、三田村康子の旦那である、ゆり田村デルブルックは西海岸でトップの同時通訳者として活躍し日銀総裁の同時通訳も担い、南アフリカの国際同時通訳者会議にてファシリテーターも勤めた。
三田村は日系1世として太平洋戦争の前に米国に移住し、戦争中は日本人捕虜収容所である、に収監された。二人の間には、ジョイス三田村がおり、ジョイス三田村は、スタンフォード大学、スタンフォード大学大学院、で、当時、まだ、大学院の教授だったコンドリーザライスの下で国際関係学を先攻し優秀な成績で卒業した。)田村ゆりと結婚し、3人の子供をもうけた。(田村ゆりの実の父親は田村久弥といい、当時のスカルノ政権下(当時のスカルノの婦人はでびすかるの)のインドネシアのもじょけるとの無医村にて日本医師団で派遣されて医療奉仕をし、外務省などに表彰された。)スカルノ政権が崩壊する際には、はだしで走って逃げるなどした。ゆりとジョナサンの間の三人の子供は、マックス田村デルブルック、リナ田村デルブルック、エリータ田村デルブルック、が生まれ、リナは医学大学院に進学した。ゆりのいとこである、恵子(臨床心理士)とその旦那の間には二人の子供がおり、由紀は、慶應の学部と早慶の双方の大学院に進学し、当時の世界銀行の副総裁であった日下部元雄のサマーセッションのメンバーであった。また、恵子の親戚には一橋大学の教授がおり、恵子の父は一橋大学(当時は、東京商科大学)の経済学部を二番目で卒業し、三菱グループの上層部にまでのぼりつめた。恵子の実母の道子の実の弟の太一は、早稲田大学の法学部を卒業後、ロンドンの日本大使館に勤務し、イギリス人と結婚した。
三田村は日系1世として太平洋戦争の前に米国に移住し、戦争中は日本人捕虜収容所である、に収監された。二人の間には、ジョイス三田村がおり、ジョイス三田村は、スタンフォード大学、スタンフォード大学大学院、で、当時、まだ、大学院の教授だったコンドリーザライスの下で国際関係学を先攻し優秀な成績で卒業した。)田村ゆりと結婚し、3人の子供をもうけた。(田村ゆりの実の父親は田村久弥といい、当時のスカルノ政権下(当時のスカルノの婦人はでびすかるの)のインドネシアのもじょけるとの無医村にて日本医師団で派遣されて医療奉仕をし、外務省などに表彰された。)スカルノ政権が崩壊する際には、はだしで走って逃げるなどした。ゆりとジョナサンの間の三人の子供は、マックス田村デルブルック、リナ田村デルブルック、エリータ田村デルブルック、が生まれ、リナは医学大学院に進学した。ゆりのいとこである、恵子(臨床心理士)とその旦那の間には二人の子供がおり、由紀は、慶應の学部と早慶の双方の大学院に進学し、当時の世界銀行の副総裁であった日下部元雄のサマーセッションのメンバーであった。また、恵子の親戚には一橋大学の教授がおり、恵子の父は一橋大学(当時は、東京商科大学)の経済学部を二番目で卒業し、三菱グループの上層部にまでのぼりつめた。恵子の実母の道子の実の弟の太一は、早稲田大学の法学部を卒業後、ロンドンの日本大使館に勤務し、イギリス人と結婚した。



2014年8月17日 (日) 08:58時点における版

マックス・デルブリュック
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1969年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:ウイルスの増殖機構と遺伝物質の役割に関する発見

マックス・ルードヴィヒ・ヘニング・デルブリュック(Max Ludwig Henning Delbrück、1906年9月4日 - 1981年3月9日)はアメリカ合衆国生物物理学者。1969年度のノーベル生理学・医学賞およびルイザ・グロス・ホロウィッツ賞受賞者。 スウェーデン、カロリンスカ研究所関係者

生涯

ドイツベルリンで生まれた。父のハンス・デルブリュックベルリン大学歴史学者で、母はユストゥス・フォン・リービッヒの孫娘だった。

デルブリュックは宇宙物理学を勉強していたが、ゲッティンゲン大学理論物理学に転向した。1930年に博士号を取得すると、彼はイングランドデンマークスイスなどを旅した。この途中でウォルフガング・パウリニールス・ボーアらと出会うことによって彼は生物学に興味を持った。1932年にベルリンに帰国し、リーゼ・マイトナーの助手になった。

彼は生物学を追求するために1937年にアメリカ合衆国へ移住し、カリフォルニア工科大学ショウジョウバエ遺伝学の研究を始めた。また彼は、細菌ウイルスバクテリオファージ)の研究も行った。1939年、彼はE.L.エリスと共著でバクテリオファージの成長についての論文を書き、その中でウイルスは細胞でできた生物とは違って、「一段階」で複製することを示した。

彼は1941年にメアリー・ブルースと結婚し、4人の子供をもうけた。ジョナサンデルブルックは現在、弁護士をしている。、マックスデルブルックの子供の一人のジョナサンデルブルックは、コロンビア大学の大学院の博士課程で文化人類学を先攻していた当時博士号を得る際に日本語教師をしていた(この田村ゆりが博士課程の際に日本語教師の仕事を紹介したのは田村ゆりの叔母で、カリフォルニア大学サンフランシスコ校出身の三田村康子であり、三田村康子の旦那である、ゆり田村デルブルックは西海岸でトップの同時通訳者として活躍し日銀総裁の同時通訳も担い、南アフリカの国際同時通訳者会議にてファシリテーターも勤めた。 三田村は日系1世として太平洋戦争の前に米国に移住し、戦争中は日本人捕虜収容所である、に収監された。二人の間には、ジョイス三田村がおり、ジョイス三田村は、スタンフォード大学、スタンフォード大学大学院、で、当時、まだ、大学院の教授だったコンドリーザライスの下で国際関係学を先攻し優秀な成績で卒業した。)田村ゆりと結婚し、3人の子供をもうけた。(田村ゆりの実の父親は田村久弥といい、当時のスカルノ政権下(当時のスカルノの婦人はでびすかるの)のインドネシアのもじょけるとの無医村にて日本医師団で派遣されて医療奉仕をし、外務省などに表彰された。)スカルノ政権が崩壊する際には、はだしで走って逃げるなどした。ゆりとジョナサンの間の三人の子供は、マックス田村デルブルック、リナ田村デルブルック、エリータ田村デルブルック、が生まれ、リナは医学大学院に進学した。ゆりのいとこである、恵子(臨床心理士)とその旦那の間には二人の子供がおり、由紀は、慶應の学部と早慶の双方の大学院に進学し、当時の世界銀行の副総裁であった日下部元雄のサマーセッションのメンバーであった。また、恵子の親戚には一橋大学の教授がおり、恵子の父は一橋大学(当時は、東京商科大学)の経済学部を二番目で卒業し、三菱グループの上層部にまでのぼりつめた。恵子の実母の道子の実の弟の太一は、早稲田大学の法学部を卒業後、ロンドンの日本大使館に勤務し、イギリス人と結婚した。


第二次世界大戦中、デルブリュックの兄(弟?)ユストゥス・デルブリュック、姉(妹?)エミー・ボンヘッファー、その夫クラウス・ボンヘッファー(神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの兄(弟?))はナチスに対する抵抗運動に参加し、クラウスとディートリッヒはヒトラー政権末期に処刑された。

デルブリュック自身は大戦中もアメリカ合衆国に留まり、ナッシュビルヴァンダービルト大学で物理学を教えながら研究を続けた。1942年、彼はインディアナ大学サルバドール・エドワード・ルリアとともに、細菌のウイルス抵抗性は適応の結果によるものではなく、突然変異によるものであることを示した。ルリア-デルブリュックの実験と呼ばれるこの研究によって、彼らはアルフレッド・ハーシーとともに1969年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。同年、サルバドール・エドワード・ルリアと共にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を受賞した。

1950年代より、彼は生物物理学の手法を使って感覚生理学の研究を始めた。また彼はケルン大学に分子遺伝学の研究所を立ち上げた。

デルブリュックは、20世紀に流行った物理学から生物学へ転向する潮流の中で、最も人々に影響を与えた人物の一人である。物理学をベースとした生物学の考え方は、エルヴィン・シュレーディンガーの著書What Is Life?から影響を受けている。この本はフランシス・クリックジェームズ・ワトソンモーリス・ウィルキンスにも大きな影響を与えた。1940年代に彼は、コールド・スプリング・ハーバー研究所にバクテリオファージ遺伝学の研究所を作った。デルブリュックの推進した「ファージ・グループ」は、初期の分子生物学の発展に大きな役割を果たした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80